第2章 戦士編 6

 ミカ達はベヘモドの先導で、闘技場を脱出した。月明かりに照らされながら、崩れかけた石畳をひた走る。

「ベヘモドさん、まだ追いかけてきます」

 カーラが振り返って言った。どちらの所属かは知れないが、人間に獣や昆虫を掛け合わせた姿をした種族がざっと百体ほど、彼女達を捕まえるべく付いて来ていた。 

「お前達、少し離れていろ」

 ベヘモドはそう言うと立ち止まった。彼女が深呼吸をすると、周囲に激しい風が巻き起こる。ミカ達が砂埃から目を守るため、腕で顔を覆う。

「はい?」

 リリアーナが間の抜けた声を発し、目をしばたたくのも無理はなかった。視界が元に戻った途端に、黒い色をした、見上げるほどの大巨獣がその場に立っていたのだ。全身を隆々とした筋肉に覆われ、いかなる者をも貫けそうな角を二本、額に生やしている。

「気をしっかり持て」

 大巨獣はミカ達を見下ろし、重々しい声で言った。そして肺いっぱいに息を吸い込み、追撃する者達へ向けて咆哮を発した。活力を奪う効果があるらしい、彼らのほとんどは、耳にした途端にヘナヘナとその場に崩れ落ちる。

 大巨獣は地を蹴り、追撃者へと突進した。角で振り払い、足で踏み潰し、牙で噛み砕く。生き残った者は色を失い、我先に闘技場へと逃げ帰る。

「歯応えのない奴らだ」

 変身した時のように風を伴いながら元の姿へ戻ったベヘモドが、ぶつくさ言いながらミカ達の元へ戻って来た。 

「行くぞ」

 唖然とするミカの肩を叩き、ベヘモドが走り出した。

「さっきの、ベヘモドさん、ですよね」

「他に誰がいる」

 カーラの質問に、ベヘモドがそっけなく答えた。

 やがて、道の端に四頭立ての馬車が止まっているのが、ミカの目に入った。

「乗れ」

 ベヘモドに促され、ミカ達は客車へ乗り込む。彼女だけは誰かを待つように、外で立っていた。

「お待たせ。追っ手はいる?」

 程なくして、アルバが合流した。闘技場では余裕ぶっていたものの、逃げ出すのはやはり一苦労だったらしい。衣服のあちこちが破れ、生乾きの血が付いていた。

「有翼種を含めていません」

「上出来。あしらうのに一苦労だったよ」

「お疲れ様でした。早く乗ってください」

「あたしにやらせて」

 アルバは了解を待たずに御者台へ飛び乗った。ベヘモドは素直に客車へ乗り込む。

「それじゃあ、出発!」

 威勢の良い掛け声と共に馬車が走り出した。勢いが良過ぎて、客車の中のミカ達は、思わず体制を崩してしまう。

「皆さん、お知り合い?」

 リリアーナは溢れんばかりの好奇心を込めて、三人を見比べた。

「僕とカーラがイマーゴの飼育場にいた時、ベヘモドさんとフェイレさんという方を暗殺しようとしたことがあったんだ」

「うわ、よく生き残ったね」

「お前の言うフェイレ様は、御者台にいる方だ」

「僕の記憶にある顔とは違いますけど」

 いや、顔だけでなく、性格も異なっている気がする。

「幻術で変えていたんだ。どこかで聞いているかもしれないが、アルバ様はかつてイマーゴとナハル・ニヴ、両方にいたから、顔が知られている」

「幻術ってなんですか」

「イマーゴやナハル・ニヴの戦士には、稀に特殊な能力を開眼させる者がいる。アルバ様はその一人だ」

「名前も違うんですね」

「フェイレというのは、人間達と交渉する時の仮の名だ。今のところは、アルバ様と呼ぶのが正しい」

 ミカの一連の疑問にベヘモドが答える。

「今のところは、ってどういう意味です? 明日は違うんですか」

 リリアーナはベヘモドの含みのある物言いが気になったらしく、問いただす。

「かもしれないし、そのままかもしれない」

「なぞなぞ?」

「アルバ様は複数の人格を持っている。時々によって入れ替わるのだ」

「昔、聞きました。凄い力を手に入れた代償、ですよね」

 ミカはようやく得心が言った。教えてくれた男は異常者扱いしていたが、事実を捻じ曲げている。

「その通りだ。大概は、アルバ様とシャロッシュ様が交代で現れる。他の方々は、私も滅多に会わない」

「シャロッシュ様はどんな人です?」

「二人は知っているだろうが、穏やかで落ち着いた方だ」

 ベヘモドはリリアーナの問いに答えた。

「ややこしいですけど、あの時はシャロッシュ様だったんですね」

 カーラは懐かしそうに言った。

「……あの時、無理にでも連れて行けば良かった」

 ベヘモドがしんみりとした口調になった。

「僕も、選択を誤ったと、何度も思いました」

 取り逃がしたものの価値を、後から分かっても遅い。

「これからだ」

 言葉少なく、ベヘモドが励ます。

「あの時は恐い人かと思ったけど、優しいんですね」

 カーラがしみじみと言った。ミカも同意だった。

 ベヘモドはむ、と言葉に詰まり、それきり口を開かなくなった。

 馬車は街道を外れ、大型船が入れるほど広い川へと続く小道に入った。そしてしばらく進むと、桟橋に係留されている、数人が乗れるくらいの帆船の前へと辿り着く。あらかじめ待機していたアルバの部下達が、いそいそと出航の準備を始めた。

「ぐずぐずしないで移動しな」

 アルバに促されて全員が乗ると、船がゆっくりと動き出した。

「これからどこへ行くのですか?」

「決まってる。ネブラの本拠地さ。二、三日はかかるから、それまでのんびりしな。薬が必要なら、ベヘモドに言いなよ」

 やり切った、というふうに伸びをするアルバが、カーラの質問に応じた。

「あの、私は……」

「知ってる。特別な薬が必要なんだろ」

 アルバはカーラの髪の毛をかき回した。

「でもね、あたしらには優秀な研究者がいてさ、別に特別性じゃなくても効くんだな。ついでに言うと、薬の効果も長いよ。体だって診てくれる奴がいる」

「そうなんですか……」

「あんたが飲んでた薬は、わざと改良を加えず、その上、効果が薄くなるよう調整してたんだよ。どうしてそんなまだるっこしい真似をするのか、って? そりゃあ、あんたの命はナハル・ニヴが握ってるんだ、って思わせておけば、反抗しないからに決まってる。えげつないよね。でも、もう心配しなくていいよ」

 アルバはそう言って船室へ入って行った。ベヘモドも後に続く。 

「それじゃあ、ごゆっくり」

 リリアーナはミカとカーラの背中を軽く叩くと、さっさと船室へいなくなった。取り残された二人は、気まずいような、ぎこちない笑みを浮かべた。


 リリアーナが船内へ入る前に振り向くと、二人は肩を寄せ合いながら、川岸の景色を見ながら何か話していた。その様子に、自然と心が温かくなる。

 船内では、アルバがソファーにもたれて足を投げ出していた。向かいのダイニングテーブルに、膝を揃えて腰掛けるベヘモドとは対照的だ。

「あんたは、一緒にいなくていいのかい」

「何年かぶりに、お話ができるんですもの。邪魔しちゃ悪いですよ」

 アルバの問いに、リリアーナは背中に手を回してへへ、と笑った。二人の間に漂う空気はまだ固いが、そのうち仲が良かった昔に戻るだろう。

「優しいね。なにか飲むかい」

 アルバは陶製の瓶を手にして揺らした。開いた口から、酒精のツン、とした香りが立ち上る。

「いえ、お酒は」

 リリアーナは両手を胸の前に上げて断った。興味本位で何度か口にしたが、受け付けない体質らしく、気持ち悪くなるだけだった。

「大したものはないが」

 ベヘモドがダイニングテーブルにある大皿に、山と積まれた小麦のパンやチーズ、燻製の魚、干し肉を勧めた。

「いただきます」

 リリアーナは空いている席に腰を下ろして、チーズを手に取った。口に入れた途端、体が軽くなった気分になる。

「よく食べますね」

 リリアーナは、黙々と食べ物を口へ放り込むベヘモドに感心した。

「巨大化すると、腹が減る」

「まさか、これ全部?」

「食べる」

 うなずくベヘモドに、リリアーナはうわお、と驚嘆した。

「そうだ、お嬢ちゃん名前は?」

 瓶に直接口を付けて酒を煽りながら、アルバが問いかけた。

「リリアーナです」

「リリはずっとイマーゴ?」

「はい。イマーゴの構成員にスリをして捕まってからずっと」

 アルバが酒を吹き出しそうになった。

「大した子だ」

「訊いてもいいでしょうか」

「どうぞ」

「今回は、二人の素性を分かっていて助けたんですか」

 アルバはベヘモドと視線を交わして苦笑した。

「いや、偶然だよ。珍しく闘技場で代理抗争をやるって言うから、興味半分で観に来たんだ。あれだけ規模がでかいと、強い奴らがわんさか集まるから、大人しくしてるつもりだった。けど、自分達が以前出会った子だし、おまけに前代未聞の戦闘放棄をやらかしたもんだから、助けるしかないな、って急遽思ったわけさ」

 アルバはミカとカーラの後ろ姿に目をやって言った。

「作戦もなにもないから、冷や冷やしました」

 ベヘモドは落ち着いた口調で言った。

「本当に助かりました。おまけにあたしまで」

「歓迎するよ」

 リリアーナがチーズを食べ終える頃には、大皿の食べ物が半分に減っていた。 


「私、謝らないといけない」

 カーラは、筋が浮くほど手すりを握り締めて言った。

「謝ることなんてないよ」

「あの時、ミカがせっかく道を開いてくれたのに」

「僕の方こそ、ごめん。もっと、計画を練るべきだった」

「ミカは悪くない」

「なにがあったのか、聞かせてくれないかな」

 ミカが優しく促すと、カーラが手元を見ながら沈黙し、やがて口を開いた。

「私、ミカと別れてから、走って走って、町に辿り着いたんだ。武器を売ってお金にして、宿屋に泊まって、そこですぐにあの黒い球を使って、ネブラに連絡を取ったの」

 カーラの横顔を見守るミカが、相槌を打つ。

「イマーゴの追っ手がくるかもしれないから、食事以外は、宿の部屋から出ないようにしてた。だけど、中々ネブラの人が来なくて、薬もお金もなくなりかけてた時、食堂で話しかけてくる人がいたんだ。相談したら、支援してくれる人達を紹介するって言われたの。それで……それで、ついて行ったんだ」

 カーラは悔しそうに唇を噛んだ。

「そういう手口があるんだってね」

 ミカが夜空を仰ぎながら言った。かつて、暗殺した相手から聞いた通りの謀り方だ。

「僕達は、世間を知らなさ過ぎた」

「私、寺院に連れて行かれたんだ。まさか、ナハル・ニヴと繋がってるなんて、想像もしなかった。騙されたんだってわかった時には、もう逃げられなかった」

「カーラは悪くない」

 自分を責めるカーラの肩を、ミカは引き寄せた。罪は自分の方こそ負うべきだ。彼女のためを思ってしたことが、むしろ苦しめる結果になってしまったのだから。

「もっと、慎重にすれば良かった。知らない人を簡単に信じちゃだめだって、理屈では分かっていたのに」

 カーラはミカに体を預けながら、語気を強めて続けた。

「ナハル・ニヴは、イマーゴと同じ。繰り返し、繰り返し、気持ちの悪い改造を繰り返されて、それでもう、いつの間にか、抵抗する気もなくなって……」

「大変だったね」

 なんと貧しい語彙なのか。ミカは口にしてから情けなくなった。自分の気持ちをどう伝えれば、カーラを癒せるのだろう。いや、どんな言葉も、彼女を労わるには足りない。取り返しのつかない時間の重さが、胸にのしかかった。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

「ミカは、あの後どうなったの」

 カーラは水面を見ながら問いかけた。

「僕? 僕は、アピスさんに負けて飼育場に連れ戻されてから、ミズラッハさんの血を飲まされたんだ」

 カーラはハッとして頭を上げ、ミカの顔を覗き込んだ。

「それで?」

「このとおりさ」

 ミカは数日、死ぬような苦しみを味わったことを伏せ、つとめて軽く語った。

「メラン一族の血を飲んで生き延びた人は、洗礼者って言うんだって。確かに強くはなったけど、カーラには届かないね」

「辛かったでしょう」

 カーラはミカの頬に手を当てると、泣き出しそうな顔をした。

「全然」

「嘘ばかり。あの時だって」

「追いかけるつもりだったよ。できるならね」

「そんなこと、言わなかった」

「そうだったかな」

「そうだよ」

 カーラはミカの胸を拳で打った。

「二人なら、どうにかなったかもしれないのに」

「ならなかったかもしれない。もしも、なんてないんだよ」

 そう言ってから、ミカは自嘲した。後悔が役に立たないと知っているはずなのに、ああすればよかった、こうすればよかった、と拘り続けているのは、一体誰だ。

「時間はかかったけど、僕達はネブラへ来られたんだ。それを喜ぼう」

「……うん」

 ミカはこれ以上、無理に言葉を紡ごうとは思わなかった。沈黙が、心地良かった。


 二日目、船はいつの間にか川から海に出ていた。陽がまだ昇りきらない頃、カーラが一人甲板に立っていると、酔っ払って席で寝ていたアルバが、乱れた髪の毛のまま近づいてきた。

「薬、ちゃんと飲んだかい」

 カーラが挨拶をするより早く、アルバがあくびをしながら白い抑制剤を一錠寄越した。

「七日は保つよ」

「え、そんなに?」

「あいつらの汚さが分かるだろ」

 アルバは薬を飲むカーラを見ながら口の端を曲げた。

「ねえ、訊いていい?」

「なんでしょう」

 唐突だったので、カーラは少し身構えた。

「あんた、精神に働きかける力もあるでしょ」

「分かりますか」

 そう言えば、アルバも改造を施される過程で、異能力を開花させたと聞く。

「まあね。ミカに悟らせないくらいに、ちょこちょこと使ってたよね。それも、自分を倒させるために。大変だったろ、剣を振りながら、細かい調整をして」

「はい……」

 カーラは、胸の前で拳を握り締めながら首肯した。意思の操作。それがナハル・ニヴで覚醒した、新たな力だった。使い方次第で戦いを有利に運べるが、消耗が激しく、滅多なことでは披露しない。

「ミカは知ってるのかい」

「多分、はっきりとは知らないと思います」

「教えないの?」

「教えるつもりではいます……」

 カーラは言い淀んだ。ミカを操って自分を殺させようとしたことが、今になって後ろめたくなる。

「話しても、あの子は怒ったりしないだろ」 

 カーラの葛藤を掬い取ったアルバが、肩に手を置いて話した。

「そう、ですよね」

「こじれたら、あたしでもベーでもいいから、相談しな。ちょいとお説教してやるよ」 

 アルバの優しさに、自然と笑みが浮かぶ。

「私達のこと、本当に気にしてくれるんですね」

「お節介なだけさ」

 照れ隠しか、アルバは髪の毛に指を突っ込んでかき回した。ただでさえ好き放題に跳ねていた頭が、巨大な鳥の巣のようになる。

「あんたらを助けられて良かったよ。シャロッシュ姉さんもずっと心配してた」

「シャロッシュさんは、どうしているんですか」

「ここで寝てるよ」

 アルバは胸に手を当てた。

「いずれ、会えるさ」

「懐かしいです」

「そんなに昔か。やれやれ、あたしも歳を取ったね」

 アルバは微苦笑し、カーラもつられて口元を綻ばせた。


「あんた達、急かす気はないけど、これからどうしたいか考えておいて」

 二日目の夕方、ミカとカーラ、そしてリリアーナが甲板で夕陽を眺めていると、アルバが近付いて来て言った。

「私、戦います」

 それまで楽しげだったカーラが、表情を引き締めて即答した。

「速いね。いいの」

「構いません」

「分かった。ネブラ・ケントルムに着いたら、改めて聞かせてよ。あんた達は無理に引っ張られなくていいからね」

 アルバはそう言い残し、離れた場所から三人を見守っていたベヘモドの元へ向かう。

「カーラ……」

 ミカは戸惑った。イマーゴにいた時から汚れ仕事を厭い、寝込む時もあったカーラが、なぜ苦しい道を志願するのだろうか。

「私は、こうするしかないの」

「どうして?」

「私が今生きているのは、大勢の人の犠牲があるから。だから、私だけ戦いから降りて、穏やかな生活は送れない」

 カーラはうつむきがちにそう言った。

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