第2章 戦士編 5
急遽、闘技場の地下にある一室に、ミズラッハとフスフ、そしてアピスとトルキーが集まり、立ったまま会議が開かれた。
「なぜ、イマーゴの家畜は戦うのを止めたのだろうか」
「それはですね、カーラとイマーゴの小僧がかつて、同じ飼育場にいたからです。そうだな? アピス君」
フスフの疑問に、トルキーが大手柄を立てかたのように言い立てた。
「間違いありません」
アピスはかしこまって事実を認めた。
「私も先程、アピスの報告で知った。確かにあの小娘の顔には、うっすらと覚えがある」
ミズラッハも落ち着いた態度で、アピスの言を補った。
「アピス君、二人は飼育場で仲が良かったのかな」
フスフはツルツルとした顎を撫でながら問いかけた。
「家畜には珍しく、友人関係を結んでいました」
「ミカがカーラを逃したんだったな。そして、ナハル・ニヴに拾われた」
「なるほど、繋がった」
フスフはミズラッハの説明を聞き、鷹揚にうなずいた。
「奇妙な縁だな、ミズラッハ」
「私の家畜を盗んで、縁もあるまい」
「保護した者をどう扱うかは、私達の自由だ」
フスフの態度がしゃくに障ったらしく、ミズラッハの目の光が強くなる。
「まあ、そういきり立たないでくれ。今は、二人の処遇をどうするかだ」
フスフはミズラッハを軽く受け流す。
「これほどの騒ぎだ、お互いに一族からの追求は免れまい。彼らの扱いを間違えると、かえって傷口を広げるぞ」
「しかし、処分をするには惜しいですぞ」
トルキーが口を挟んだ。
「ああ、もったいないね。だが、形だけでもそうしなければ、示しが付くまい」
「形だけでも?」
「なにも、本物である必要はない。そういうことだ」
「なるほど。だが、身代わりはどこにいる?」
フスフの提案にミズラッハが早速乗った。
「もちろん、探すんだ。これほどの種族がいれば、幻術に長けた者もいるだろう」
「アピス」
「は、直ちに」
アピスはミズラッハに名を呼ばれた途端、部屋を飛び出した。
「トルキー、君も行きたまえ。生贄を二人用意するのも、忘れないように」
フスフに命じられ、トルキーも慌てた様子でアピスの後を追う。
「統治する者の苦労は、下の者には分からないだろうね」
二人がいなくなり、まだ微かに揺れる覆いを見ながら、フスフが言った。
「入場料、二人の戦いの掛け金、ご祝儀は全額返却し、白けた試合をした者達の処刑をして、とりあえずは溜飲を下げてもらう。再戦については、落ち着いてから話し合おう。これでどうかな?」
「そこまでする必要はあるのか」
「一番のお目当ての戦いが流れてしまうのだから、客としては納得がいかないだろう。彼らあっての興行だ。目先の利益を守って評判を落とすより、全面的に非を認めて損をした方が、長期的には得だ」
「……承知した」
「どうした? ご機嫌斜めだね」
「こんな状況を、楽しめるわけがあるまい」
「とんでもない事態にどう対処するかも大事だよ。これも貴重な経験だ」
「奴には、二度と逆らわないよう、徹底した教育をしてやらねばな」
ミズラッハは拳を固めて言った。
「うん、それは大事だね。私も彼女を甘やかしすぎたようだ。立場をわきまえないのは、よろしくない」
フスフは穏やかに言いながら、目を細めた。
「遅い」
ミズラッハは腕を組み、指をせわしなく叩きながら言った。追加の情報がなく、ただ待たされている観客の不満は高まるばかりで、闘技場からは絶えず、低く唸るような抗議の声が発せられている。このままでは暴動に発展しかねなかった。
「遅いね」
壁にもたれるフスフの声にも、不安が混じっていた。
「お待たせしました!」
ミズラッハが廊下に出ようとしたちょうどその時、アピスが戻って来た。傍には濃紺のフード付きローブに身を包んだ、小柄な白髪の老婆を連れている。
「君が幻術師か」
フスフが老婆へ近寄って問いかけた。
「ええ、あたしはただ、小遣い稼ぎをしたかっただけなんですが……」
顔中皺だらけ老婆は、杖に寄りかかりながら、歯の抜けた口をモゴモゴと動かした。
「試合が流れたら、あたしのお金は返していただけるんでしょうか」
「安心したまえ、金なら幾らでもやろう。まずは、君の力を見せてくれないか。そうだな、試しに君を連れて来た者を、私に似せることはできるかな」
「仰せのままに」
老婆は上目遣いでフスフをジッと見詰めた後、ゆらゆらと体を動かしながら呪文の詠唱をして、アピスに杖を向けた。すると、鏡を映すようにもう一人のナハル・ニヴの責任者が出来上がる。
「なんと!」
姿を変えられたアピスが自分をまじまじと見た。
老婆は次に解除の呪文を口にして、杖を引いた。たちどころに、アピスが元に戻った。
「おお、いけるなこれは。二人同時に姿を変えられるかね」
「お望みとあれば」
「待て、途中で息切れしたりはするまいな」
それまで黙っていたミズラッハが口を出す。
「そう、ですね。あまり、長くは保ちません。歳ですからその、体力が……」
老婆は怯えた様子で、ミズラッハをチラチラ見ながら答えた。
「首を刎ねて、片付けるくらいの間は保ちそうかね」
「殺した後に、死体を布かなにかで覆ってはどうでしょう」
アピスが提案をする。
「悪くはないな。どうだね、それなら君にかかる負担も少しは減らせると思うが」
「やってみましょう」
「よし、君で決まりだ。付いてきたまえ、似せて欲しい者の顔を覚えてもらいたい」
「あの……前金をいただきたいのですが」
「しっかりしているな。アピス君、建て替えてもらえるかな」
「分かりました。これで足りますか」
アピスは腰に下げた皮袋から銀を一粒取り出し、老婆に差し出した。
「なにやら、込み入った事情のご様子、このような端金で頬を叩くのは、いかがなものでしょうか」
老婆は銀に手を伸ばそうともせず、不平を述べた。
「足元を見るつもりですか、なんと図々しい。身の程を知りなさい」
「それが、欲しいです」
老婆はアピスの文句を聞き流し、彼の指に光るルビーの指輪を穴が開くほど見つめた。
「アピス、くれてやれ」
「はい……」
ミズラッハに言われ、アピスは渋々ルビーの指輪を老婆に渡した。
「サファイアも、素敵です。アメジスト、綺麗ですね。ああ、それはダイヤモンドでしょうか。見惚れてしまいます」
「アピス、いいから全部渡せ」
「くっ……」
アピスは怒りに身を震わせながら、全ての指輪を老婆に譲った。
「ありがとうございます、ありがとうございます、あなたに幸多からんことを」
老婆は手に入れたお宝を受け取ると、自分の骨張った指に嵌めてうっとりした。
「もういいかな、急ぐんだ。アピス君も来るんだ。イマーゴ側の案内を頼む」
フスフは言いながら、部屋を出た。
「あ、フスフ様」
廊下に出たフスフが、戻って来たトルキーに会う。
「幻術師は確保した。身代わりだけでいい」
「闘技場の様子を見にきた人間が何人か捕まっていたので、そこから選びます」
「よし。私が戻るまでに、ここへ連れて来るんだ。戻ったらすぐに始める」
フスフは初めに、カーラの控え室に入った。彼女を老婆に確認させると、すぐにミカの控え室に行く。
「どうだ、できそうかな」
戻る途中でフスフが老婆に質問した。
「もちろんでございます」
そうじゃなきゃ、大損ですよ。アピスがフスフと老婆のやりとりを後ろで聞きながら愚痴った。
フスフ達が部屋に戻ると、まだ十代と思われる人間の少年が二人、床に座らされていた。なにか薬物を投じたのだろう、焦点の合わない目をし、口を半開きにして大人しくしている。好奇心の代償は、あまりにも高くついた。
「始めてくれたまえ」
フスフに言われ、老婆は呪文を吟じた。今にも倒れそうな動きで体を揺らし、そして二人に杖を向ける。二人の人間は、見事にミカとカーラへと変じた。
「これでしのげそうだな」
様子を部屋の隅で見守っていたミズラッハが言った。
「そうだね。行こう、観客達が待っている」
フスフがそう宣言すると、アピスはミカの偽者を、トルキーはカーラの偽者をそれぞれ腕を取って立たせた。
「私も、よろしいですか。呪文の効果は、近くにいた方が長続きします」
老婆が控え目に申し出た。
「もちろんだとも」
一同は哀れな生贄を伴い、部屋を後にした。
カーラは一人、控え室で処分を待っていた。首から下げた、ミカからの贈り物であるペンダントを、両手で包み込むように握り締める。戦いでは敢えて外していたが、普段は肌身離さず付けていた。
先程フスフが老婆を連れて現れた意味は分からないが、特に気にならなかった。殺すなら殺せばいい。最期にミカと再び触れ合えて、満足している。彼の優しさが、ずっと支えだった。ナハル・ニヴで耐えられたのも、彼のおかげだ。
にわかに廊下が騒がしくなる。何事かとカーラが椅子から腰を上げると、廊下を守っていた猿顔の魔物が、石の壁を突き破って飛び込んできた。近づいて様子を窺うと、もはや息絶えている。
「久しぶりだな」
壁の穴をくぐって、涼しげな目元をした一人の女性が現れた。
「あなたは……」
「覚えていないか」
女性はわずかに残念そうな色を滲ませた。
「ベヘモドさん、ですよね」
「そうだ。大きくなったな」
「どうしてここへ?」
「話は後だ。付いて来い」
ベヘモドが踵を返して、穴から廊下へ出た。見張りをしていた者達は、ことごとく倒されていた。騒動を聞きつけて集まったナハル・ニヴの者達は、惨状に恐れをなして手を出して来ない。
「これ、全部ベヘモドさんが?」
「鍛え方が足りん」
至極当然のようにベヘモドが言った。彼女が進む方向にいた者達は、半ば自棄気味に襲いかかってきた。
「お前は疲れているだろう、後から付いて来い」
言うなり、ベヘモドは襲いかかって来た者を、片端から素手で叩きのめしていった。細身の女性が筋肉の塊のような種族を殴り倒す。普通ではありえない光景に、カーラは我が目を疑った。
「これからどこへ?」
カーラはベヘモドの背中へ呼び掛けた。
「ミカのところだ」
ベヘモドは中央通路を半分に仕切る板壁の方へ走っていき、一蹴りで破壊した。後から、血相を変えたナハル・ニヴの者達が追いかけてくる。見ようによっては、彼女が仲間を引き連れ、襲撃をかけているようだ。
事実、イマーゴの者達はそう受け止めた。迎え撃つべく、用意していた武器を手に取り、乱戦が始まる。ベヘモドはカーラを庇いつつ、ミカの控え室を探した。
居場所が分かったちょうどその時、闘技場からわっと声が起こる。
「始まったか。早いな」
ベヘモドはわずらわしそうに言った。
「ミカ、いるか」
覆いを引き千切ってベヘモドが控え室へ入った。中にはリリアーナを背中に回して、剣を構えるミカがいた。
「あなたは確か……」
「ベヘモドだ。助けに来た」
「ミカ」
カーラはミカに駆け寄った。
「良かった、無事だったんだね」
「ベヘモドさん、リリも一緒にいいですか」
「もちろんだ」
ミカの頼みを、ベヘモドは快く引き受けた。
「闘技場を出るぞ。少しだけ待て」
ベヘモドは控え室を出ると、向かってくる相手を殴り倒し、強引に道を切り開いた。
「野性的な人だね」
リリアーナは辟易しながら言った。
闘技場にミカとカーラの替え玉が引っ立てられて来ると、観衆は総立ちで罵声を浴びせた。やがて誰ともなく殺せ、と叫ぶと、自然に全体が同調し、足を踏み鳴らし、拳を突き上げ始めた。
「ふふ、恐いね」
フスフは怨嗟の言葉を連呼する客席の人々を見回しながら、口の端で笑った。
「まるで、一つの狂える生き物だ。ミズラッハ、君はどう思うね」
「安い芝居の中心に立たされて、うんざりだ」
「淡白だな」
「早く終わらせるぞ」
「まあ、待て。あっさり殺してしまっては、盛り上がりに欠ける。興奮の頂点で首を刎ね、怒りで我を忘れる者達の感情を解放してやるのが望ましい」
「面倒な……」
ミズラッハは忌々しさを隠そうとしなかった。
闘技場の中心に連れて行かれた二人の身代わりは、先に待機していた蜥蜴の戦士達に引き取られ、その場にひざまずかされた。
フスフはしばらくそのままの状態を維持した。やがて、騒ぐのに疲れ果てたのか、客は次第に落ち着きを取り戻していった。それを見計らい、フスフが真っ白い手を挙げた。
「皆様の気分を害したことを、私とミズラッハ卿と共にお詫びします。入場料、及び掛け金は全額、皆様へお返しし、日を改めて仕切り直すことを約束します。その上で、この神聖な戦いの場を汚した愚かな者共の処刑をもって、今回のけじめとさせていただきたい」
小さな体のどこから、と思うくらい朗々とした声でフスフが演説をぶった。対応に満足したのだろう、ほとんどの観客から拍手が起こる。
「まずはカーラから」
フスフは、カーラの身代わりを抑え付けているトカゲの戦士に、顎をしゃくった。
トカゲの戦士はうなずき、湾刀を振り上げた。心得ているのだろう、一気に振り下ろすのではなく、間を持たせる。
その時だった、老婆がモゴモゴと呪文を口にしながら歩き出し、二人の生贄に向かって、杖を突き出した。幻術が解け、元の姿があらわになる。
「な!」
フスフが目を剥いた。
闘技場はしん、と静まり返った。ややあって、自分達がたぶらかされたのだと気が付いたのだろう。瞬く間に、怒りが頂点に達した。物を投げつけるだけでは済まず、雪崩のように次々に客席から舞台へと飛び降り、主催者へと殺到する。
「あははは」
老婆は呆然とするフスフとミズラッハを見て、腹を抱えて笑った。先程までの嗄れ声が、張りのある若い女性のそれに変わる。
「貴様、何者だ」
ミズラッハが鋭く問いただす。
「いやあ、見事に騙されたね。愉快、愉快」
老婆が短く呪文を吟唱すると、すらりとした肢体の若い女性に変じた。くっきりとした顔立ちをし、真っ白な髪の毛を一部派手に染め、赤い瞳を悪童のように輝かせている。女性はこの混沌とした状況において、傲慢なくらいの自信を漲らせていた。
「シャロッシュか」
「外れ。今はアルバさ」
「赦さんぞ」
ミズラッハが手を広げ、アルバに向けて黒い光球を放とうとする。
「ちょっと、ちょっと、場ってものを考えなよ」
アルバは冗談めかして言うと、羽織っていた白いマントを振った。にわかに、闘技場が乳白色のもやに包まれる。
「騙されるな、ただの幻術だ! 早くその女を捕まえろ!」
フスフが、狼狽する部下へ呼び掛けた。
「意識している間は本物さ」
アルバは軽くいなすと、姿を晦まそうとした。
「させるか!」
フスフはそう言うと、体に力を込めた。赤子のような体が見る間に変貌し、上半身が人間、下半身が蜘蛛になった。大きさは、ミズラッハが殺した牛の頭をした種族を超える。
「ちょうどいい、君をこの場で始末してやろう。ミズラッハ」
「言われるまでもない」
「あんたら二人を相手にするほど、無謀じゃないさ」
フスフは声が聞こえた方へ、両手の指先から糸を放つ。捕らえた者を絡め取ると、両方の腕を広げた。剃刀のように鋭い糸は犠牲者を切断し、肉片にした。
「それ、処刑人の蜥蜴さんだよ」
アルバが呆れ果てたように言った。
ミズラッハが、黒い光球を声に向けて投げ付けた。爆発が起こり、悲鳴を上げたのはフスフだった。
「だからさあ、そんな危ない技を無闇に使うなってば」
「なにをする!」
「ほら、怒った」
黒焦げになって抗議するフスフを、アルバがからかう。
「どこだ、出てこい!」
「バカをお言いでないよ」
吠えるミズラッハへ、アルバが言い返した。
「ああ、そうだ、この悪趣味な指輪、返す」
アルバは指輪を全て外すと、戦いに巻き込まれないよう、地面に四つん這いになって震えるアピスへ近づき、目の前へ放り投げた。
闘技場は幻術で更なる混乱が起こり、いよいよ収拾が付かなくなった。
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