第2章 戦士編 4
「どうしたんですか、ミカ君。戦いが生温くありませんでしたか」
控え室で休んでいたミカに、アピスが詰め寄った。二人の戦いはなにかおかしい。事情を知る者なら、尚更そう感じる。
「まさか、手加減なんてしていませんよね」
「加減できる相手ではないですよ」
「アピスさん、ミカは疲れているんだから、休ませてあげてよ」
リリアーナが二人の間に割って入る。
「これだけは言っておきます。あなたがカーラさんにどんな思い入れがあろうと、戦いには無関係ですよ。決着を付けなければ、終わりません」
「分かっています」
ミカは声を荒げた。初めての反応に、アピスはキョトンとする。
「お願いです、休ませてください」
「あなたのためなのです」
アピスは強く念押しした。本当のところは、他ならない自分のためだ。
「これからどうなるの」
「仕切り直しですよ。これから、ナハル・ニヴ側と協議しなくてはいけません」
アピスはリリアーナの疑問に答えた。
「まだ戦わせるわけ」
「言ったはずです。引き分けなどありません」
トルキーが余計なことを言う前に、正直に話そう。アピスはそう決断した。
「今、治療するね。服を脱いで」
リリアーナは長椅子にミカを座らせ、リュックサックから合わさった貝殻を取り出した。淡い赤色をしたそれの中には、彼女の鱗粉で作った特製の練り薬が入っている。蓋を開け、ミカの傷に塗っていく。
とはいえ、切り傷のほとんどは、ミカの回復力で塞がっている。致命傷はない。ミカの戦いは、どこか腰が引けているように感じたが、カーラもまた同様だったようだ。そう考えると、二人の派手な立ち回りは、見る者の目を誤魔化すためだったと言えなくもない。
「あたし、ミカの力になりたい」
治療を終えた後、隣り合って腰掛けたリリアーナが、思い切って言った。
「ありがとう、リリ。気持ちだけ、受け取っておくよ」
「カーラさんに伝えたいことがあるなら、行くよ」
「だめだ、危険すぎる」
「あたしじゃ力不足だと思ってる?」
「そんなことは……」
「あるよね」
リリアーナは首を伸ばし、ミカに額が当たりそうな距離でぴしゃりと言った。口調の厳しさに、彼は一瞬目を丸くする。
「ミカにはできて、あたしにはできないことがあるように、ミカにはできなくて、あたしにはできることだってあるんだ。ミカの体を診て分かった。カーラさんは全力を出してない。ミカもそうでしょ。もどかしい気持ちを抱えながら、戦ってたんじゃないの」
ミカは否定せず、足元を見つめた。
「聞かせてよ。ミカの気持ち」
「けど……」
「いいから、あたしを信じなさい」
「ありがとう」
ミカは潤んだ目をしながら、顔を上げた。
「……じゃあ、行ってくる」
伝言を聞いたリリアーナは足を振り上げると、勢いをつけて立ち上がった。二人の架け橋になれるのだ、俄然やる気が出る。
控え室を出たリリアーナは、地上に出てナハル・ニヴの陣営へ足を向ける。恐くないと言えば嘘になる。なにせ、生き死にを木っ葉のように考える連中を相手に立ち回るのだから。下手な手を打てば、二度とミカの元へ戻って来れなくなる。
再開までの間、暇を持て余しているナハル・ニヴの者達が闘技場の外で集って、駄弁っている。リリアーナはメダルを首から外して懐にしまった。そして、適当な獲物を探す。
あれかな。リリアーナは太い体を左右に揺らしながら歩く、豚顔の種族に目を付けた。首に掛けるのは無理だったのだろう、メダルを手首に巻いている。
幸い混雑しており、スリにはうってつけだ。リリアーナは通り過ぎざまに、メダルを引き千切って懐にしまった。
「おい」
立ち去ろうとするリリアーナに、豚顔の種族が声をかけてきた。
「どうかした?」
リリアーナは愛想良く振り返った。気付かれただろうかと、動悸が激しくなる。
「なにか、食う物持ってないか」
「お腹が空いてるの」
「ああ、お前でもいいんだけどな」
冗談とは思えない眼差しに、リリアーナの顔から血の気が引く。
「あたしじゃ、足りないんじゃない」
「そうだな、もう二、三匹は欲しいなあ」
「仲間殺しは、後が怖いよ」
リリアーナは早速、豚面の種族からせしめたメダルを振って見せた。
「違いねえ。まったくよお、こんなに長引くなら、食い物持ってくりゃよかったぜ」
「屋台が出てるじゃない」
「見ろよ、あれ。並んでたら朝になっちまう」
「あら、ホント」
豚顔の種族が言うように、再戦が始まる前に腹ごしらえをしておこう、と考える者が大勢いて、屋台はどこも数十人の行列ができている。雑多な種族がお行儀良く並ぶ様は、奇妙な愛嬌があった。
「水でも飲んで我慢したら」
「もう、たらふく飲んだよ」
豚顔の種族が突き出た腹を音高く叩くと、ちゃぽちゃぽという音がした。
「ちくしょう、腹減ったよお」
ぶつくさと言いながら、豚顔の種族はリリアーナから離れていった。
リリアーナは安堵し、そそくさとその場を立ち去った。
メダルの番号と同じ出入り口から闘技場に入り、地下へと進む。カーラの控え室は、屈強そうな種族が数名、入り口を固めている。
さて、どうしよう。リリアーナは思案した。彼らが揃って隙を見せるなどありえない。堂々と正面突破だ。心を決め、彼女は控え室へ向かった。
「止まれ」
アメンボウに似た細長い体の種族が、複数の手を通路いっぱいに広げて制止をかけた。リリアーナは素直に従う。
「なんの用だ」
「カーラさんの治療だよ」
リリアーナはアメンボウを見上げ、手首に巻いたメダルを振って見せた。
「治療?」
「さっきの戦いで怪我してるでしょ。だから」
「どこの支部所属だ。名前は」
「話はついてるって、聞いてるんだけどな」
リリアーナはさりげなく質問を受け流し、困り顔をした。
「ね、だれか怪我してない? ついでに見てあげるよ」
「さっき、イマーゴの奴らと揉めたんだが……」
腕が長くて毛深い、猿に似た種族がのそのそと近づいてきて、リリアーナが乗れるくらい大きな手を差し出した。激しい喧嘩をしたのだろう、指の付け根の皮が剥けている。
「うわあ、これは痛そう。待ってて」
リリアーナは視線を一身に浴びながら、腰のベルトに下げた皮袋からミカの治療に使った練り薬を取り出して、傷口に塗る。たちどころに傷口が塞がり、猿に似た種族は喜びの雄叫びを上げた。
「他にいる? いないなら、入っていいかな」
「お、おお」
アメンボウはまだなにか言いたげだったが、リリアーナの勢いに乗せられて返事をしてしまう。
「ありがと」
リリアーナはアメンボウの腕を除けると、控え室の覆いをくぐった。
「カーラさん、いる?」
「あなたは?」
脚の長さが不揃いの椅子にぽつんと腰掛け、木のテーブルを見つめていたカーラが顔を上げた。
ミカの話では明るくて元気な子のはずだったが、リリアーナの目には、憂いのある物静かな印象を受ける。
「あたしはリリアーナ。怪我の治療に来たよ。痛いとこない?」
「え、ええ。でも、そんなに酷くはないの。放っておけばすぐに治る程度」
「そう言わずに治させてよ。あたしの薬はよく効くよ。ミカも喜んでくれる」
「ミカ? どうしてあなたが知っているの」
リリアーナは唇に人差し指を当てた。ミカの名前を出した途端、カーラの警戒心が薄れ、興味を持ったのが分かる。
「あたし、お世話役だもん」
「じゃあ、あなたはイマー……」
「だから、しっ、だってば」
リリアーナは控え室の覆いの方を見ながら、手でカーラの口を塞いだ。耳のいい魔物が外にいないとも限らない。
「どうしてこんな危険なことを?」
「放っておけないからさ。あたし、カーラさんの話をミカから聞いてるから、どんな人なのかずっと気になってたんだ」
「そう、ミカが」
カーラは重ね合わせた手に目を落とした。とても優しげで、それでいて哀しみが漂っている。
「実は、カーラさんと会うのは二度目」
「私達、前にも会ってる? いつ?」
「名前は忘れちゃったけど、イマーゴとつるんで、悪いことしてる奴の頭を殺しに来た時があったでしょ。あの時、ミカと一緒にあたしも居たんだよ」
「そう……気付かなかった」
「隅っこに避難してたからね。途中でミカに加勢しようとしたけど、止められちゃって、ただ眺めてたんだ」
「良かった、あなたを巻き込まなくて」
「あたし、カーラさんが好きになりそうだよ」
リリアーナは鼻の頭を掻いた。
「ミカからの伝言。次の戦いもさっきのようにお願い、だって」
「あくまでも、引き分けにするつもりだね」
「お互いに生きていれば、状況を変える機会は必ずある。そう信じてたよ」
「変わってないな」
乾いた笑いは、十代の少女とは思えないくらい老いを感じさせた。
一体、この人はミカと別れてから、どんな経験を積んだのだろうか。リリアーナには想像が付かなかった。
「残念だけど、その話には乗れない」
カーラは目を閉じて首を横に振った。
「さっきのような戦いは、もう通じない。トルキーさんが怪しんでいたもの。きっと、ミカの方でも疑問を持たれていたでしょう」
「ええ、まあ、そう、かな」
カーラの視線が重くて、リリアーナは無意識に目を逸らす。
「私達が一緒に訓練を受けたことも知られたと思う。遠慮し合っているって確信をもたれたら、薬漬けにして感情を奪ってでも、決着を付けさせるよ。いくら重宝されたって、私達は道具に過ぎないもの」
ううん、とリリアーナは喉の奥で唸った。ミカのふわっとした理想に比べて、カーラはあくまでも現実的だ。どちらが当たっているかと言えば、こちらだろう。
「だ、だけど、死んじゃったらおしまいだし、カーラさんが思うような事態になるかどうかだってはっきりしないし、乗ってもいいんじゃないかなって……」
なんて寝ぼけた反論なんだろう。リリアーナは口にしていて恥ずかしくなり、語尾が萎んでいった。
「ありがとう、リリアーナさん」
「リリでいいよ。ミカもそう呼んでる」
カーラに感謝されると、かえっていたままれなくなる。大見栄を切って、なにをしに来たのやら。
「私もカーラって呼んで」
二人の間に、和やかな空気が生まれる。それもわずかな間で、再びカーラにもの寂しげな空気が漂う。
「私はもう、生きている限りナハル・ニヴから抜けられない」
「どうして?」
「私はイマーゴで魔物の血を飲んで体を変えられた。そして、ナハル・ニヴで人間の魂を掛け合わされたの」
「ミカから聞いたことあるけど、ホントなの?」
「ええ。ナハル・ニヴは、私のような身寄りのない子を集めてきて、魂を掛け合わせていくんだ。精神の弱い方が、強い方へ取り込まれる。それを何度も何度も繰り返していって、強い戦士を作り上げる。私もそうされて、なんとか死なずに済んだ。代償として、ナハル・ニヴの検診と薬なしには、生きていけない体になったんだ。それに、私は特殊だから、薬も特別なの」
「なんてひどい」
リリアーナの目に涙がにじむ。イマーゴもどうかしているが、ナハル・ニヴも相当イカれている。
「せっかく、ミカが逃してくれたのに、今度はナハル・ニヴに捕まっちゃうんだから、本当にバカだよね」
カーラは腰を上げると、立ち尽くすリリアーナと間近で向き合った。
「ミカに伝えてもらえるかな。私達はもう、昔とは違うって」
「カーラ……」
頑張って、とか、諦めないで、という言葉が喉から出かかったが、思い直して引っ込めた。カーラが抱える現実の前では、空虚で薄っぺらいだけだからだ。自分にその気がなくても、多分、傷つけてしまう。
「次の戦い、私は全力を出すから、ミカも全力を出して。両方とも生き残ろうなんて、都合のいい夢を見てはだめ。どちらかが生き残る。それが、最善の策」
「伝えられないよ」
ずっと思い続けてきた人からの別れの言葉なんて、あまりにも辛すぎる。
「嫌な役を押し付けてごめんなさい。でも、お願い。私にはできないから」
リリアーナは鼻をすすった。自分に力があれば、二人を救ってあげられるのに。これほど悔しいと感じたことは、生まれてから一度もない。
カーラはリリアーナから離れると、自分の荷物を入れた布の袋からハンカチを取り出し、泣きじゃくる少女の涙を、そっと拭った。
「リリは優しいね」
「あたし、二人には戦って欲しくないよ」
「私も戦いたくない。でも、そうするしかないの。だから、いいかな」
「……」
「リリ?」
「……きっと、伝えるよ」
リリアーナの言葉に、カーラが静かにうなずく。
「カーラ、入るぞ。おや、誰だね君は」
不意を突かれて動揺したものの、表には出さず笑顔を作る。
「あたし、カーラさんの治療に来ました」
「ふん? 聞いていないぞ。大きな怪我はなかったと言っていなかったか」
「万全の状態でいたいので、この子を呼びました」
「ああ、それはいい判断だ。今、フスフ様と話をしてきたのだが、先程の君の戦いは非常に不満だと仰っていた。私も同感だ。もっと本気でやりたまえ」
「私は本気です」
「そうは思えんな。真実手こずっているのなら、あれを発動させても構わんぞ」
あれってなんだろう。リリアーナは横で聞きながら、首を傾げた。
「おい君、治療が終わったのなら、さっさと失せたまえ。なぜしれっと聞いている」
トルキーが、指をリリアーナへ向けて咎めた。
「いや、ちょっと待て、君の顔はどこかで見たぞ。アピスと一緒にいなかったか。なぜ、ここにいる。まさか、偵察か」
トルキーはにわかに態度を変え、顎の下のだらりと垂れた肉を揺らして捲し立てた。
「はい、ごめんなさいね」
リリアーナは、腰のベルトに下げた皮袋に手を突っ込み、トルキーの顔面に、痺れる成分に調合した鱗粉が入った小袋をぶつけた。
「わっぷ、なんだ!」
トルキーが鱗粉まみれの顔を、手で覆って騒いだ。
「誰、か」
助けを呼ぼうとして、くたっとその場に崩れ落ちる。
「安心して、そのうち元に戻るから。後が面倒臭そうだけど、ごめんね」
「いいよ。どうせ、お説教をしてる暇なんてないから」
「もう一度確認しておきたいんだけど、本気でミカと戦うんだね」
「ええ。私に甘い期待をしないで。あなたができないなら、私が生き残る」
カーラは口にすることで、決意を固めているようだとリリアーナには映る。けれどもなぜだろう、どこか違和感がある。それがなんなのかは、はっきりとしない。確かめるには時間がなさ過ぎた。
「こんなふうに、リリと会いたくなかったな」
カーラは眉を寄せ、困り顔をしながら笑みを浮かべた。
「そうだね。普通にお話ししたかったよ」
友達になれそうな予感のする人が、対立する組織の戦士で、相棒の対戦相手だなんて。どう転んだって、この先縁が生まれるはずがない。
控え室を出るとき振り返ると、見守っていたカーラが小さく手を振った。
リリアーナはとぼとぼとイマーゴの陣営へ帰った。無力感で体が重い。できるならば、報告しないで、どこかへ消えてしまいたかった。
ミカのいる控え室へ入る前、リリアーナはためらいで足が動かなくなった。どんな顔をして、伝えたらいいのだろう。答えは出ない。結局は、ありのままを話すしかなかった。腹を括って、控え室の覆いをくぐる。
「ただいま」
「おかえり」
椅子から立ち上がって出迎えたミカに、リリアーナはくしゃっと顔を歪めた。どうして、お互いを大切に思う二人が、殺し合わなければいけないのか。
「無事でよかった」
「あたしは、ね」
リリアーナは自虐的な笑いを浮かべて、肩を落とした。
「散々息巻いたくせに、てんでダメだったよ」
「リリのせいじゃない」
あくまでも穏やかなミカに、リリアーナは済まなさでいっぱいになる。
「なんかうまい説得ができたら良かったんだけど、あたし、頭悪くてさ」
「聞かせてもらえるかな。カーラの言葉」
「力になれなくてごめんね」
話し終えたリリアーナは、ミカの顔が見れずにうつむいた。
「辛い役割を任せてしまったね。僕の思いつきは、浅はかだったようだ」
「でもさ、ミカの気持ちは伝わってたよ」
リリアーナは顔を上げた。それだけは、分かってほしい。
「ならいい。カーラの気持ちが分かって良かった。ありがとう」
「カーラさんと、本気で戦うの」
「そうだね」
断じるミカに、リリアーナは不自然さを感じた。カーラに問いかけた時と同じだ。どうしてだろうか。
「時間です。行きますよ」
リリアーナが考えをまとめていると、アピスが入ってきて試合開始を告げた。
「あ、待ってミカ」
控え室を出て行こうとするミカの腕をリリアーナが掴み、耳打ちした。
「七面鳥みたいな顔の人が、カーラさんに言ってたんだけど、真実手こずっているようなら、あれを発動させろ、だって」
「あれ?」
「うん。意味はわかんないけど、まだ隠している手があるんじゃないかな」
それが形勢を変えるほどの効力を発揮することは、口ぶりから明らかだ。少なくとも、ナハル・ニヴの連中はそう考えている。
「なにをしているんですか。急いで」
アピスが壁をコツコツと叩いて、ミカに催促する。
「分かった。意識しておくよ」
ミカはやや少し面持ちで、リリアーナへうなずいた。
ミカは再び昇降機に乗り、闘技場に出た。休憩の合間に、酒や食事を補給したためだろうか、一度目以上に観客は盛り上がっている。
ナハル・ニヴはイマーゴよりも先に動くのを心掛けているのか、今回もまた、カーラは先に闘技場にいた。ただし、武器は持っていない。
「リリから聞いた?」
「聞いたよ」
ミカは対峙するカーラへ、短く返事をした。
「じゃあ、もういいね。全力で行くから」
「受けて立つよ」
「私が勝つ」
断固たる言葉とはうらはらに、カーラの表情は頼りなげだった。彼女は白い鎧姿に変わると、銅鑼が打ち鳴らされた瞬間に、片腕を剣にして突っ込んできた。
宣言通り、カーラの攻撃は全力だとミカは感じた。当然、こちらも相応に力を解放しなければ、持ち堪えられない。
その上、装甲をまとっているだけあり、カーラの防御力は相当だ。並の打ち込みではたやすく弾かれてしまう。
けど、なにかがおかしい。ミカはその違和感を頭の片隅で考え続けた。
ただの一度も勝てなかった者として、カーラの実力は嫌と言うほど知っている。一瞬、ほんの一瞬だが、まるでここを攻撃しろ、とばかりにおかしな隙を作るのだ。そんなことは、かつてはなかった。
初めは、誘いをかけているのだと思った。絶好の機会とばかりに攻めたところを返す。駆け引きが上手な彼女なら、それもあり得る。
おかしいと感じることは、他にもある。あたかも促されるかのように、カーラが晒す甘い箇所へ、攻撃を繰り出そうとしてしまうのだ。その度に、意思で抑え付ける。こんなことは、かつてなかった。
疑問をリリアーナの忠告と結びつける余裕は、ミカにはなかった。ただ、彼女に食らいつくのに必死だったからだ。
二人の戦いの迫力に、観客はいつしか声を上げることも忘れて見入った。ただし、貴賓席にいる人間は別だった。巻き添えを食うのではないかと怯え、席を離れる者までいるほどだ。
ミカの肌に浮かび上がった血管が、次第に濃さを増していく。じわり、じわりと押されているのが自分でも分かる。
そうだ、とミカは焦りを覚える中、ふと昔を思い出した。カーラ相手に練った秘策。結局は通じずに終わったあれを使ってはどうだろうか。
カーラは目がいい。相手の動きを、ほんのわずかな予備動作で見抜く。それを利用するのだ。
ミカは残った力を全て解放し、反撃に転じた。今度はカーラが後退する。そして、胸目掛けて一撃を加える振りをした。
カーラがそれを返そうとしたのを見計らい、ミカは切っ先を転じる。
ミカの剣が、カーラの首を切り落とすかに見えた。
決まった。見守る誰もがそう思ったが、刃はカーラの首元でぴたりと止まった。
初めて成功した意識外し。けれども、ミカに嬉しさはなかった。
「どうして、止めたの」
カーラが、悲しみと怒りがない混ぜになった声でミカを咎めた。
「ようやく、分かったんだ。おかしいと感じた理由が」
自分に殺させるためだ。観ている者に分からせないくらいの隙を見せ、そこを突いてくれることを期待していたのだ。
「最後は本気だったよ。だから、ミカの勝ち」
カーラが元の姿に戻ると、疲れ果てたように言った。
「止めを刺して」
「できるわけ、ないだろ」
「知ってるでしょ。どちらかしか生き残れないって」
ミカは力を収めて剣を地面に突き刺した。
なにが起こるのだ、と観衆は知らず腰を上げた。
「だったら、カーラが生き残ってほしい」
カーラの気持ちは受け止めた。けど、願いは同じだった。どうして、大切な人を自分の手にかけられるだろうか。
「私に、ミカを殺せると思う?」
「そうじゃないと、終わらない」
「できるなら、とっくにしてる」
カーラはうなだれながらミカに近づくと、彼の胸ぐらを強く握り締めた。
ミカは、カーラの背中にそっと手を添えた。圧倒的な力で自分を追い詰めた相手とは思えないくらい、頼りなげで脆さを感じる。
闘技場はヤジと怒声、抗議に足を踏み鳴らす音で、騒然となった。それだけに飽き足らず、二人に物が投げ付けられ、混乱は増すばかりだ。
「ああ! なんてことを!」
一般の観客席で立ち見をしていたアピスは、ひっくり返った声で叫んだ。錯乱するあまり石の床に膝をついて、頭を叩きつける。
「ミカ!」
アピスと共に見守っていたリリアーナは、ミカとカーラから感じた落ち着かなさをようやく理解した。二人共、片方しか生き残れないのなら、自分が死ぬつもりだったのだ。
「だけど、これじゃあ……」
リリアーナは胸が詰まった。戦いを放棄したら、どちらも生き残れないではないか。
「これは、やり直しですね。やり直ししかありませんよ」
アピスは膝を抱え、爪を噛みながら、ぶつぶつと自分に言い聞かせた。
ついに、自制が効かなくなった観客の一人が、闘技場へ飛び降りた。牛の頭部をした頑強そうな種族は、額の角を二人へ向け、猛然と走り寄る。
二人が身構えた時、双方の間にミズラッハが割って入った。彼は片腕を牛の頭部をした種族へ突き出すと、指を大きく広げた。手の平に黒く光る球が作られ、それが放たれた。
黒い光球を受け、ミカの倍以上はあろうかという巨体が四散する。細切れの肉と臓物と骨が観客席に雨のごとく降り注ぎ、まともにかぶった者達が悲鳴を上げた。
驚異的な力を見せつけられ、観客は水を打ったように静まり返る。
「皆様、裁定は後ほど下します。それまでどうか、お待ちください」
機を図っていたかのように、フスフの声が、闘技場に流れた。
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