第2章 戦士編 1
針葉樹の森を、二階建ての家に比肩する巨体が闊歩する。単眼で、額に一本角を生やした種族だ。名はベール。ナハル・ニヴに所属している。腰の皮ベルトには、弱点である大きな目を守るための覆いが付いた兜をぶら下げていた。
一歩毎に苔に覆われた柔らかい地面が沈み、くっきりと足跡が刻まれた。彼の進路では、足音に恐れをなした鳥達が、羽を休めていた枝から慌てて飛び立つ。
「うん?」
ベールは歩みを止め、腰を曲げて目を凝らした。彼の前に、マントフードに身を包んだ人間がちょこん、と立ちはだかっていたからだ。圧倒的な身長と体格差があるにも関わらず、人間は平然としていた。
「なんだ、貴様」
ベールが野太い声で尋ねた直後、彼の視線の高さにある枝に身を潜めていた、別のマントフードの者が跳躍し、彼の目へ向かって小袋を投げつけた。命中した途端、袋が弾けて光る粉が撒き散らされる。
「くそったれが! イマーゴだな!」
ベールは両手で目を押さえて身悶えした。
粉を撒き散らした者は、マントフードの背に開いた切れ目から、蝶を思わせる四枚の羽根を広げてふんわりと地面に降り立った。そして、役目は終えたとばかりに、そそくさと場を後にする。
様子を見守っていた人間はマントフードを脱ぎ捨てた。姿を現したのは、白髪赤眼の少年だ。彼は、ふ、息を吸い込むと、青白い肌に黒い血管を浮かび上がらせた。
少年が腰に佩いた剣を抜き、攻撃を仕掛けようとするものの、ベールへは容易に近寄れなかった。不意を突かれて危険を察知した彼が、めちゃくちゃに暴れたからだ。
腕を振り回す度に、折れた針葉樹の枝が少年へ雨のように降り注ぐ。更に、太い足で苔むした地面を蹴り上げて土を撒き散らし、視界を遮ろうとする。
少年はベールの側面へ移動すると、足首を狙って切りつけた。血が吹き上がり、均衡を崩した単眼の種族が仰向けで大地に倒れる。
間髪を置かず少年が飛び上がると、ベールの喉目掛けて剣を突き刺そうとした。しかし、分厚い手で薙ぎ払われてしまう。
「小賢しい奴らめ」
ベールは涙を流しながら立ち上がった。彼は腰にぶら下げていた兜を被り、戦闘体制を整える。
ベールは視覚が狭まったため、耳を澄ませ、鼻をひくつかせた。そして、木の陰に隠れていた少年を認めると、怪我をした片足をものともせず突進した。
隠れていた針葉樹の幹が、巨体の体当たりで折れる直前、少年が飛び出す。
「俺を切れるか? やってみろ!」
ベールが挑発するように吠えた。足を踏ん張り、血管が浮き上がるほど体に力を込めると、日に焼けた肌が黒ずみ、光沢を帯び始めた。
少年が剣で脇腹を突こうとすると、甲高い音と共に弾かれてしまう。それもそのはず、ベールは体を鋼の如く硬質に変えるという特性があったのだ。
「イマーゴのゴミふぜいが」
ベールは首を伸ばし、充血した目をかっと見開いた。
「貴様を捉えた。もう逃げられん、もう逃げられんぞ!」
喜びを露わにしながら、ベールはその場に膝を突き、胎児のように体を丸めた。それだけではない。体が球のように変化し、回転を始めたのだ。
「どういうことだ……」
少年は呆れと怒りを含んだ声で呟くと、背中を向けて走り出した。
「逃げろ、逃げろ! 轢き潰してしまうぞ!」
ベールはそう言いながら地面を削り、幹をへし折り、迷わず少年の後を追う。
奇怪な鬼ごっこが始まった。少年がどのような軌跡を辿って逃走したのかは、醜く変貌した森を見れば明白だった。
優勢な者の傲りだろう、ベールはずっと笑い続けていた。
「どうした、後がないぞ!」
ベールがついに少年へ迫った。すると、少年は加速をする。
自分が少年の生死を握っていると信じていたベールは、内心戸惑いを感じたに違いない。なぜなら、追いかけっこはいつまで経っても終わらないからだ。
やがて、ベールの動きが遅くなり、少年の方が引き離し始めた。
「そろそろか」
少年はちらと後ろを見ると、背面飛びでベールをやり過ごした。
「なに!」
急には止まれず、ベールは地面にめり込んだ。
少年の肌に浮かんだ血管が濃さを増すや否や、球形のベール目掛けて、剣を突き出した。
「ぎゃっ!」
先ほどは通じなかったはずの攻撃が、鋼の表皮を見事に貫き、ベールが悲鳴を上げる。
「調子に乗るなよ!」
ベールは再び回転をし、少年へ向かった。
少年は逃げることを止め、正面から鋼球と向かい合った。当たれば肉塊となるのは必定だろう。だが、そうはならなかった。紙一重でかわしざま、またも剣で切り裂く。
ベールは自らの勢いで深傷を負い、絶叫した。
「貴様、何者だ」
元に戻ったベールは、血に塗れながら少年に問いただした。返事はない。
「畜生が、叩き潰してやる」
肩で息をしながら、ベールが少年を睨んだ。彼が大口を開けて吠えながら突進すると、どこからか小袋が飛んで来た。それが口中で弾けて光る粉が飛び散ると、彼は激しく咳き込んだ。
「まだいたのか!」
いたんだな、それが。という緊迫した場に似合わない、いたずらっ子のような声を、ベールが耳にしたかどうかは定かではなかった。
ベールは少年を近寄らせないために、手当たり次第に殴り、蹴り付けた。
少年は怯まず距離を詰め、彼の膝を踏み台にして跳躍した。そして、黒い光を帯びた手の平を大穴のような口へ突っ込み、爆発させた。
ベールの頭が、桃色の舌と下顎を残して四散した。残った体はゆっくりと膝を突き、そして地響きを立てて横たわった。
「うわあ、見たくない、見たくない」
小袋を投げたマントフードの者が、羽ばたきながら空から降り立ち、少年に近づいた。
「危なかったね、ミカ。お疲れ様」
フードを外すと、先の尖った触覚を額に生やし、褐色の肌をした年の頃十三、四の少女だった。琥珀色の大きな瞳と長い睫毛をした可愛らしい顔をしている。額には汗がうっすらと滲み、左右に結んだ髪の毛は乱れていた。
「ありがとう、リリ。助かったよ」
「だいぶ、力を使ったね」
「想定以上に強かったから」
「体、ヤバそう? お薬飲もうか」
リリことリリアーナは、腰の真っ白いポーチから紫色の錠剤を一つ取り出し、ミカへ渡した。
「あの疲れ具合なら、もっと逃げ回れば良かったかな」
錠剤を飲んだミカがぼやいた。
「向こうだって、あれだけ動き回れば体力使うもんね。だけど嵐の中にいる時は、それがずっと続く気がするし、仕方がないよ」
リリアーナはミカを慰めた。
「体を硬くするってのは聞いてたけど、ミカの攻撃が通じないなんて言ってなかったし、そもそも、あのお団子ゴロゴロはなによ」
「アピスさんにまたやられた」
「あのインチキオヤジ、どうにかならないのかな。ホント冷や冷やしたよ」
「僕もだ」
ミカは苦笑した。彼がカーラを逃してから早数年、中性的な面立ちも、だいぶ男らしくなってきた。
「とにかく帰ろうか」
リリアーナは、元気に宣言してにっこりと笑った。
ミカは抗争の代理人として世に出る前に、裏の仕事で実戦経験を積んでいた。具体的には、ナハル・ニヴに所属する腕自慢の暗殺だ。彼の所属はミズラッハのいる第三地区だが、活動するのは他の地区だった。
なぜなら、返り討ちに遭った場合、白髪赤眼というあからさまな証拠を突きつけられようが、地区の構成員名簿に載っていないため、知らぬ存ぜぬで通せるという、組織側の利点があるためだ。
慣れ。アピスがくどい程言う通り、ミカもいつしか殺しを単なる仕事と考えるようになった。心が死んだわけではない、乾いて萎んだというべきか。補佐をしてくれるリリアーナの快活さが救いだった。
ミカとリリアーナは、しばらく歩いた場所に繋いでいた馬にそれぞれ乗り、街道に出ると、とある町へやって来た。今はナハル・ニヴが仕切っており、イマーゴの支部は繁華街の片隅にある小さな建物でひっそりと生計を立てていた。
納屋に馬を繋ぎ、二人は支部に入った。一階の広間では人間と、人間に近い姿の魔物が数人、中央にあるテーブルでカードゲームに興じていた。二人へお帰り、と目で挨拶をするも、すぐに遊びへ戻る。
「やあ、お帰りなさい」
ただ一人、部屋の隅の椅子で書き物をしていた蜂顔の魔物が、ミカ達へ声を掛けた。
「アピスさん。もう来ていたんですか」
意外な来訪者にミカの気分は下がった。彼が現れるのは、決まって仕事を持って来た時だ。彼が独り立ちした後も、担当者という立場は変わらず、どこへでも顔を出す。
「来ていましたとも。お疲れ様、どうでしたか」
「きっちり、倒したよ」
リリアーナの返事に、アピスは満足そうにうなずいた。
「鋼のベールも、ミカ君には敵ではありませんね。奴が死ねば、力の均衡が大きく変わります。この貧乏臭くてやる気のない支所も、活気付くでしょう」
「そんなに簡単じゃなかったよ。体丸めて球になって襲ってくるしさ」
「おや、そんな能力があったのですか。意外ですね」
「おとぼけ」
「いえいえ、そんなつもりはありません」
「どうだか。あんまり無茶させると、ミカ死んじゃうよ」
「こうして生きているじゃありませんか。まだやれますね」
「始まったよ」
じとっとした目をするリリアーナへ、アピスが肩をすくめて言い返した。
「愛の鞭ですよ、愛の鞭」
「どこらへんに、愛があるのさ」
「お見せできないのが残念です」
「アピスさん、次の仕事はなんです?」
食えないアピスになにを言おうが無駄だ。ミカは諦めて本題を尋ねた。
「察しが良くて結構。実は、ミカ君にイマーゴの協力者の警護をお願いしたいのです。使うと気持ちが昂る、素敵なお薬を卸している方で、私達へ収めるお金の額は、上位に入ります。昔から付き合いがあるので、組織としても重視しています」
「わざわざ、ミカが護らなきゃいけない危険があるんだ」
「ナハル・ニヴが自分達に与するよう脅迫をし、協力者が拒否した報復として暗殺者を派遣したそうなのですよ。ミカ君のお仕事は、暗殺者の返り討ちです」
「どうしても、ミカじゃなきゃだめなの?」
「ウチとしても、誠意を見せなくてはいけないので、腕利きを派遣したいんですよ。分かってください」
「事態は差し迫っているんですか」
「まさに。一番近い場所にいて、かつ、適任なのはミカ君しかいないという判断です。なので、すぐに行っていただきたい」
「たまにはお休み欲しいな。あたし達、働きすぎだよ」
「分かっています。このお仕事が終わったら、まとまった休暇を取らせてあげますから、どうかご理解ください」
リリアーナの不満を、アピスは低姿勢でなだめすかした。
「いつもそう言って、お休みくれないじゃない」
「その分、お給金は弾んでいるじゃないですか。私もちゃんと心を砕いているのですよ。上司と掛け合って賃金交渉をするのは、大変なんですから」
「使う暇ないし」
「欲しい物を考えている時が一番楽しい、と言うじゃありませんか。蓄えがあるなんて、実に羨ましい。私なんて、貧乏暇なしですよ」
「本当かな。アピスさんの指輪、会う度に変わってるじゃない」
「目敏いですね、さすが女の子。細かいところまでよく見ていらっしゃる」
アピスは手を後ろに隠すと、わざとらしく褒めちぎった。
「行き先を教えてください」
ミカは不毛な会話を断ち切るために、軌道を戻した。
「第五小区のテオドール氏の元へ。詳細な住所はこちらに書いています。もう一枚はイマーゴの紹介状です。くれぐれも無くさないように。では、次のお仕事も完遂してくださいね」
アピスはミカに畳んだ羊皮紙を手渡した。
「あの人、ホントにせっかちだよね」
支部を出て、目的地へ馬を走らせながら、リリアーナが不平を鳴らした。
「リリの報告から、おおよその見当を付けてやって来るんじゃないかな」
リリアーナは補佐であると同時に監視役でもあり、担当者へ定期的に報告をする義務を負っている。彼女と良好な関係のミカは、本人から早い段階で聞いていた。
「この人が天に召される前に、行かないと」
「ウチと繋がってる人がお呼ばれされるところじゃないよ。あ、それじゃあたしもだ」
「僕もだね」
二人は顔を見合わせて笑った。二人は街道を南へひた走り、空が茜色に染まり、閉門の鐘が鳴り響くまさにその時、目的地クナーブへ辿り着いた。
テオドールの拠点は、彼が仕切る歓楽街のただ中にあった。売春宿に挟まれた路地を進んだところにあり、突き当たりには、胸をはだけさせ、彫った刺青をチラつかせる男達が入り口を守っている、三階建の屋敷があった。
ミカがイマーゴの者だと名乗り、紹介状を手渡すものの、あまりの若さゆえか、初めは信じてもらえず、それどころか、周囲を数十人の構成員に取り囲まれた。最終的にはテオドール本人に確認を取って、ようやく入れてもらえた。
暗殺の情報があるせいだろう、中も構成員でいっぱいだった。いつでも戦えるよう、片刃で反り返った剣を抜き身で持ち、ピリピリとした空気を漂わせていた。
ミカとリリアーナは、剃り上げた頭に竜の刺青を彫った男の後を付いて行き、最上階の突き当たりの部屋まで行った。案内が扉を叩くと、中からうるさいくらい大きな声で入れ、と返事があった。
「待っていたぞ、遅かったじゃないか」
髪の毛を撫でつけた肥満気味の男が長椅子から立ち上がると、どすどすと足音を立てて二人を出迎えた。
「僕はミカです。こちらはリリアーナ。イマーゴの命を受けて来ました」
挨拶をするミカの姿を見るなり、テオドールに失望の色がありありと浮かぶ。
「お前達が俺の護衛?」
テオドールは顎髭をしごきながら、疑わしげに二人へ無遠慮な視線を投げかけた。
「イマーゴめ、ふざけおって。俺には、こんなガキ共で十分というわけか」
「ちょっと、そんな言い方ないでしょ」
腹に据えかねたリリアーナが食ってかかった。
「リリ」
恐い者なしのリリアーナをミカが制した。
「ふん、生意気な小娘が。一応、置いておいてやる。足は引っ張るなよ」
テオドールはそう吐き捨てて、長椅子へ戻った。彼の周囲には、人間だけでなく、他の種族も控えていた。鎧に身を包む蜥蜴人間、黄と黒の縞模様の毛皮が印象的な虎人間、二本角の鬼は、天井につかえそうなくらい大きいため、窮屈そうだ。
「どうする?」
リリアーナはミカへ話を振った。
「出番まで大人しくしていようか」
ミカはテオドールが集めた護衛達に遠慮して、部屋の隅へ移動した。運良く、彼らが使っていたであろう椅子が一脚あったので、リリアーナに勧めて、自分は隣に立つ。
「まったく、ミカの方が役に立つのに」
リリアーナ椅子に腰掛けながら愚痴った。
「いいさ。務めを果たせばいいんだ」
ミカは気にしていなかった。見た目で侮られるのは、初めてではない。事実はどうあれ、筋骨隆々の種族と、並の体つきをした人間の少年とでは、どちらに説得力があるか問うまでもない。
「こんな扱いされるなら、ご飯、途中で食べてくれば良かったね。お腹空いちゃったよ」
「そうだね」
多分、ここからいなくなっても、咎められないだろう。だからといって、仕事を放棄して食事に出かけるわけにもいかない。
「あたし、こういうとこ苦手。小さい頃を思い出す」
リリアーナは椅子の上で膝を抱えて顔をしかめた。
「前に話したよね。あたし、スリをしてたって。でも、全額自分のものになるわけじゃなくて、地域を仕切ってる人に、三分の二も渡さなきゃいけなかったの。三分の二だよ。稼ぎが少ないとぶたれるし」
ミカは相槌を打ちながら、リリアーナの肩を抱いた。飼育場が死の気配に満ちているとすれば、テオドールの周囲は暴力的な空気がはびこっている。決して、居心地がいいとは言えない。
「イマーゴの奴だって知らずに、お金を盗ろうとしたのが運の尽き。捕まって、ずっと雑用係してた。ほぼただ働きでね」
「大変だったね」
「ミカだって、昔は物乞いしてたんでしょ」
リリアーナはミカにもたれかかった。
「あたしね、ミカの支援をしろって言われた時は、冗談じゃない、って思ったんだ。家畜って呼ばれてる人間達ってさ、みんな荒んでるでしょ。恐くて」
「そう見えるよね」
「とっても。それにさ、支援って大変な上に、使い捨てにされるって噂だったし、ああ、もう終わったわって、泣けてきたね」
リリアーナは辞令を受けた時を回想しているらしく、顔をしかめた。
「でも、ミカは違った」
「僕は、なんとか救われたからね」
「カーラさんがいたから、でしょ」
ミカは懐かしそうに目を細めてうなずいた。カーラと過ごした時間の大切さは、今の方が分かる。心を失わずにいられたのは、彼女のお陰だ。
「今はリリがいてくれる」
「へへ、カーラさんの代わりにはならないけどね」
「代わりだなんて」
ミカは首を横に振った。リリアーナはリリアーナだ。決して替えはきかない。
「きつい仕事に付き合わせて、申し訳ないっていつも思う」
自分だって仕事に望むときは不安や恐れを感じる。リリアーナなら尚更だろう。
「気にしてないよ。わたしはミカと一緒にいられて幸運だもの。それに、危険に見合ったお金はもらってるし」
ぐるぐるとリリアーナの腹が鳴るのを聞いて、ミカの表情が綻んだ。
「ああ、それにしても、お腹空いた。ご飯食べたい」
「食べる物がないか訊いてみようか」
「それはよして。どうせ、ミカが嫌な思いをするだけだから」
「僕はだいじょうぶだよ」
「いい。我慢する」
リリアーナは、鳴り続ける腹を手で抑えながら断った。
「無理しなくても……」
言いかけたミカの体がザワッとした。ミズラッハに感じたような、ただならない気配が近づいてきている。
「ミカ」
察したリリアーナも、椅子から立ち上がる。
ミカは耳を澄ませた。階下で怒声と悲鳴が起こっている。それを引き起こした何者かは、確実に近づいて来ていた。まさか、正面から乗り込んでくるとは。
護衛達も遅れて勘付いたらしく、ある者は武器を手に取り、またある者は爪を伸ばして臨戦態勢に入る。
「おい、頼んだぞ」
テオドールは人間の護衛に促されて奥の部屋へ行き、内側から鍵を掛けた。
「リリは下がっていて」
ミカは出入り口から距離を取りつつ、力を解放して剣を抜いた。彼をただの家畜と見なしているテオドールの護衛達は、変化に気づいていない。
廊下の騒々しさから察するに、刺客は既に三階にいる。部屋にいる者達の視線は、残らず扉に集中する。
刺客の足音は、扉の前でピタリと止んだ。なぜなのか、突入してくる様子がない。
待ち構える部屋の中はしん、と静まり返る。誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「どうした? なんで入って来ない。おい、誰か見て来い……」
耐えきれなくなった虎人間が言葉を発した。直後に扉が蹴破られ、飛び散った木の破片が、正面に立っていた人間の護衛二人の全身を刺し貫く。
後から、真っ白い鎧姿の刺客が現れた。体のしなやかな線からすると、どうやら女性らしい。手には、構成員から取ったらしい、片刃の剣を握り締めている。
返り血を滴らせた刺客は、ぐるりと部屋を見回した。隅にいたミカは見落としたらしく、首は向けられなかった。
「やれ!」
虎人間が叫ぶと、鬼が首に巻いていた鎖を外し、振り回して勢いを付けてから投げつけた。それは刺客が突き出した腕に絡まる。攻撃はそれだけでは終わらず、鬼の体が発光して電流を放った。
鎖を通じて感電した刺客がのけぞり、その場に膝をついて動かなくなる。同時に、人間の護衛数人と蜥蜴人間が殺到した。
作戦は成功したかに見えた。しかし、誰も想像しなかった事態が起こる。刺客は何事もなかったかのようにす、と立ち上がったのだ。
護衛達に驚きの表情が浮かぶものの、数が気持ちを強くさせたのだろう、足を止めようとしなかった。
刺客は片刃の剣を捨て、両の手で鎖を握って足を踏ん張ると、鬼を軽々と振り回し始めた。人間の護衛と蜥蜴人間が巻き込まれて吹っ飛び、壁や家具に叩き付けられた。危うくミカも巻き込まれそうになる。
イマーゴの戦士とは何度か戦ったが、彼女はなにかが違う、とミカは直感した。
狙ってやったのだろう、刺客はテオドールがいる隣の部屋目掛けて鬼を投げつけた。扉は破壊され、巨体が部屋に飛び込む。
白目を剥いて転がる鬼を目にして、犯罪組織の長が裏返った悲鳴を上げた。
刺客は片刃の剣を拾い上げ、テオドールへ向かって走り出した。そうはさせまいと、最後に残った虎人間が逞しい腕を振り上げ、爪で切り裂こうとした。イマーゴの戦士は、すれ違いざま、彼を頭から股の下まで真っ二つにする。
追いついたミカが、刺客を背後から切りつけようとした。
すると、刺客は膝を沈め、後ろ向きに飛んで彼の背中へ回った。彼が振り返るよりも早く、喉を狙った一撃を加えて来る。
「なんて速さなの」
二人の戦いを目で追いながら、リリアーナは痺れる粉が入った袋を手に動けずにいた。
「リリ、手を出すな!」
ミカはリリアーナが戦いに加わろうとするのを止めた。下手に加勢すれば、たちどころに標的にされる。
「……!」
刺客はミカを凝視して動きが止まった。それどころか、後退までする。
なぜ怯むのかは分かららない。だが、ミカはこれを好機と捉えて、刺客へ向かっていった。すると、刺客は気を取り直したように彼に応じる。
ミカは戦いながら舌を巻いた。身のこなし、剣さばき、認めたくないが、全て向こうの方が上だ。
刺客は、ミカの攻撃を身を低くしてかわすと同時に、自分が手にしていた片刃の剣をテオドールへ向けて投げつけた。それは狙い違わず、立ち尽くしていた彼の胸に突き刺さり、勢いで壁に突き立てられた。
目的を果たせばそれでいいとばかりに、刺客はミカから離れると、窓へ走り出した。
やられっぱなしで終わるものか。ミカは刺客の進行方向を読んで、手から黒い光球を投げつけた。
光球は窓を突き破ろうと飛び上がった刺客の顔目掛け飛んだ。彼女はそれに気が付くと、驚くべき身体能力で体を反らせた。光球は壁に当たって破裂し、爆発が起こる。
その時初めて、ミカは刺客の首に下げられていた銀のメダルが付いたペンダントに気がついた。
間違いない。あれは、自分がカーラへ贈ったものだ。
「カーラ!」
ミカは思わず叫んでいた。まさか、とリリアーナも口に手を当てる。
カーラは爆風に巻き込まれながら、窓を突き破って地面へと落ちて行った。
ミカは窓へ走り寄った。カーラは猫のように空中で体をひねりながら体勢を立て直し、鮮やかに地面へ降り立つと、裏路地を駆けて夜の闇へ溶けていった。
「ミカ、だいじょうぶ?」
敗北、失態、そしてカーラとの再会。ミカは混乱のあまり、気遣うリリアーナの声も耳に入らなかった。
ミカとリリアーナは、テオドールの拠点からほど近い、イマーゴの事務所へ場所を移した。二人共、組織の用意した部屋に半ば監禁状態に置かれた。イマーゴは事後の対応に追われ、大騒ぎだった。
半日が過ぎた頃、急遽アピスが呼ばれ、二人の元に現れる。
「ミカ君、大失態ですよ」
アピスは、長椅子の背にもたれて放心するミカへ、嫌味たらしいため息を吐いた。
「テオドール氏は亡くなるわ、手下も数十人が惨殺されるわで、彼の組織が緊急の幹部会を開いて、今後の対応を検討中です。イマーゴとしては、平謝りするしかありません」
「だけど、相手はとっても強かったんだよ。テオドールさんの護衛なんて、まるっきり相手にならなかったし」
「いくら相手が強かったとはいえ、しくじった言い訳にはなりませんよ」
リリアーナの擁護を、アピスがバッサリと切り捨てる。
「今後どうするか、検討しなくてはいけないでしょうね。ミカ君にとっては不本意でしょうけど、待望のお休みです。お給金は出ますから、安心してください」
「分かりました」
ミカはそれだけ言うのが精一杯だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます