第1章 少年・少女編 7

「次の仕事を終えれば、ミカ君は見習いから仮ではありますが、代理人に昇格します」

 幌馬車の座席で、ミミズがのたくったような文字の本を読んでいたアピスが、唐突に顔を上げ、対面に腰掛けるミカへ話しかけた。

 飼育場を出て早四日、暇を持て余してぼんやりとしていたミカは、びくりとする。出発する前に、辺境の町アヴァンへ向かうと告げて以来、アピスが口を開いたのは、これが初めてだった。

「昇格には何か、基準があるんですか」

「調教師の判断で、ミズラッハ様に推薦をします。正式な代理人として立つには、もう少し経験を積んだ方がいいでしょう。今回のお仕事ですが、裏切り者の始末です。イマーゴの庇護を受けていた人間の商人が、我々の情報を裏でナハル・ニヴに売っていたのが発覚しました。我々が気付く前にいち早く逃げてしまいましたが、ようやく居場所が判明したのです」

「相手は、商人だけではないですよね」

 商人を殺すだけでは、仕事が軽すぎる。

「もちろん、違います」

 アピスは当然とばかりにうなずいた。

「向こうはどうやら、護衛を雇っているようです。最初は提携する人間の組織に始末を依頼したのですが、全く歯が立ちませんでした。次にイマーゴから、そこそこ腕のある家畜を何人か遣わしたのですが、やはり返り討ちに遭いました。そこで、私達に話が回ってきたという次第です」

「ナハル・ニヴの魔物がいるようですね。何体ですか。できれば、どういう種族か教えてもらえると助かります」

「それがさっぱり。なにせ、皆殺しにされてしまいましたから」

「ぼくで対処できるでしょうか」

「洗礼者が弱気なことを。ケチな裏切り者の護衛です、実力者を回してもらうはずがありません。あなたなら、だいじょうぶですよ」

 アピスが気楽に言った。彼にとっては、あくまでも他人事だ。

「ところでミカ君、その魔物という呼び方、どうにかなりませんか。私達が凶々しい生き物みたいじゃありませんか。人間とそれ以外の生き物に分けるのは、おかしいですよ。人間も我々も、沢山いる種族の一つに過ぎません。それにあなただって、どちらかといえば魔物に属するでしょうに」

 ミカは胸を突かれた気がした。魔物の血が馴染んだこの体は、確かに人とは言い難い。

「おっと、気に障りましたか。ご無礼、まことに失礼致しました」

「いいえ、事実です」

 魔物の定義が人間に害をなす生き物だとするなら、まさしく自分ではないか。とんだ笑い話だ。

「もうそろそろアヴァンに着きます。のんびりするのも今のうちですよ」

 アピスはそう締めくくると、座席に寝転んでぐうぐうといびきを立て始めた。

 陽が西に沈みかけた頃、アヴァンの町に着いた。川沿いにあり、家々が白い漆喰で塗られた小綺麗な景観だ。川からの恵みが豊かなのだろう、大通りには魚や川海老を売る店が立ち並び、風に乗って生臭さが漂う。

 ミカとアピスは幌馬車を降り、徒歩で町を移動する。彼は目立つ白髪をフードで隠し、調教師は顔を布で覆い、人外の者であることを分かりにくくする。

 道行く人に、売れ残った魚を割安で売ろうとする店主の掛け声が響く。ミカがつい目で追ってしまうのは、人々の営みよりも、同年代の子供達だ。

子供達が棒切れを振り回したり、じゃれあったりしているのを見ると、こういう生き方もあったのだな、と一抹の寂しさを覚えた。

 魔物に生死を握られ、毎日を恐怖と共に過ごす子が世の中にはいるのだ、と遊びに夢中になっている彼らに話をしたら、果たして信じてくれるだろうか。

「この小区はイマーゴの勢力地ですから、注意してくださいね」

 現実に引き戻されたミカは、周囲を見回した。いつしか、こじんまりとした邸宅が並ぶ地区へと来ていた。雨戸から明かりが漏れ、煮込んだ海鮮スープの香りが辺りに流れ、時折、子供達の騒ぎ声がする。

「コルウスさん、コルウスさん、と」

 アピスは懐から取り出した、青い色をした円形のガラスを目に当てながら、あちこちの家を見て回った。

「あった、ここですね」

 やがて、とりたてて特徴のない二階建ての家の前で立ち止まる。

「ここで間違いないんですか」

「見てみますか」

 アピスに渡された円形のガラスを通して家の扉を見ると、目、鼻、口の部分にぽっかりと穴が空いた人の顔が描かれている。

「先行して調べた者に、目印を描いてもらったのですよ」

 なるほど、とミカは感心した。こういった道具も組織にはあるのだ。

「それはあなたに貸してあげます。無くさないでくださいね」

「分かりました」

「暗くなるまで、どこかで時間を潰しましょう。そうだ、まだ早いですけど食事にしますか。カラッと油で揚げた海老がいいですね。生は腹を壊して以来、受け付けません」

 アピスはウキウキした調子で言った。


 月が昇り、町に人気が耐えた頃、真っ黒いマントフードに身を包んだ者が、通りを駆け抜ける。巡回中の自警団がいると身を潜め、いなくなるとまた動き出す。

 影は一軒の家の前に立つと、青いガラスで扉を確認し、そして顔を上げた。二階の雨戸から、うっすら明かりが漏れている。

 ミカは路地に体を滑り込ませた。じめっとした石畳に転がる、半分腐った芋の皮や魚の骨を踏みながら、コルウスの家の裏口に立つ。当然鍵が掛かっているが、組織からもらった道具で解錠する。

 台所に入ると、食事の残り香が漂っていた。暗闇でも効く目でスッと通り過ぎ、廊下に出て階段を音もなく昇る。

 二階は廊下を挟んで部屋が一つずつ。明かりが漏れていたのは、左側の方だ。ミカは耳を澄ませた。男が誰かに話しかける声がする。

「お客さんかな」

 部屋の中から陽気な調子で話しかけられ、ミカは思わず身を引いた。

「どうぞ、入っておいでよ」

 悟られてしまっては、こそこそする必要もない。ミカは腰に佩いた剣を鞘から抜き、部屋へ入った。

 見回すと、痩せた中年男が部屋の奥にある文机に座り、その隣にある長椅子には、十代半ばくらいの少女が寝そべっていた。 

 あれが護衛? ミカは当惑する。言葉から勝手にいかつい男を想像していた。しかし、人化できる魔物だっている。容姿で判断はできない。

「イマーゴの玩具だな。その歳じゃ酒は早いか」

 にやけた顔のコルウスは、手にしていた蒸留酒のグラスを置き、少女に目配せをした。まっすぐな黒髪を肩で切り揃えた少女は居住まいを正すと、無表情にミカを上から下まで値踏みする。

「これで何度目かなあ。君、名前は?」

「……」

 まれに、こういうお喋りな者に出会う。目的は命乞いか、逃げるための算段を練る時間稼ぎかのどちらかだ。この男は、そのどちらでもなさそうなのが気になる。

「おっと、少しくらい話相手になってくれてもいいじゃない。この子無口だから、一緒にいても楽しくないんだよね。お堅いから、触らせてもくれないし」

 ミカが一歩踏み出すと、コルウスはわざとらしく震えて見せた。黒髪の少女を横目で追うと、彼女もまた姿勢を低くし、いつでも動ける体勢になっていた。

「ねえ、何か聞きたい話はないかな。俺はイマーゴとナハル・ニヴ、両方の組織を知っているんだ。なんでも答えるよ」

 少女はコルウスに冷たい視線を注ぐが、彼は一向に気にかけた様子はない。

「そうだ、君、さっきからこの子が気になっているだろ。この子はね、ナハル・ニヴの商品さ。君と同じだね。お互い、敵の特徴だの弱点だのってのは、組織から教えられてると思う。じゃあ、どうやって作られるかは聞いたことある?」

「……いや」

 ミカはコルウスの術中にはまることを気にしながらも、好奇心を満たす方に傾いた。相手は満足そうにニヤリと笑うと、話を続ける。

「イマーゴみたく、血を飲ませるなんてえげつない真似をすると思うかい? 外れだ。ナハル・ニヴは魂を掛け合わせるのさ」

「魂を……?」

「分かりにくいよね。俺も又聞きに過ぎないけど、色々と実験器具が満載の部屋で作るみたいだよ」

 ミカが興味を示したと受け取ったコルウスは、更に饒舌になる。

「完成した商品を作り出すのに、少なくとも数十人は掛け合わせるんだって。魔物の魂も、時に混ぜるとか言ってたかな。さすがにさ、自分の組織の連中は使えないから、イマーゴから拐ってきた者に限るようだよ。途中で精神が耐えきれずに、脱落する者も多いんだとさ。モノになる確率は、イマーゴと同じくらいらしいね。ま、俺には関係ない話だけどさ」

 コルウスは馬鹿にしたように首を左右に振った。

「ナハル・ニヴは酷いんだよ。散々イマーゴの情報を流してやったのに、鞍替えしようとしたら、迎え入れてやる代わりに、仕事をしろって言うんだ」

 コルウスはグラスに残っていた蒸留酒を煽ると、音を立てて机に置いた。

「どんな仕事か、って? ナハル・ニヴの商品の調整さ。最終的には、代理人になるのが目的じゃない? そのためには、経験を積み重ねないとでしょ。俺はイマーゴに狙われてるから、頼まなくても、向こうから殺しにやってくる。それを片っ端から返り討ちにしてやれってさ。コイツでダメなら、次はもっと強いやつ、もっと強いやつ、ってなるから相手を探す手間が省けてうってつけだろう、ってわけ」

 コルウスは、髑髏と薔薇の刺青が入った腕を広げた。

「そりゃあ、俺はただの餌で、戦うわけじゃないよ。君を始末するのはこの子達だもの。でもさ、いつどこで襲ってくるか分からないってのは、落ち着かないよね」

 休む間もなく舌を動かすコルウスの視線が、ミカの背後に移った。

 ミカはコルウスの不穏な態度を見逃さず、横飛びにかわした。直後に槍状の武器が突き出される。

「ああ、失敗」

 コルウスは両手で顔を覆い、おおげさに嘆いた。

「これまで俺を殺しに来た玩具は、半分くらい引っかかったんだけどなあ。君、やるじゃない」

 ミカが、自分に攻撃を加えた者を見ると、ソファーに座っていた少女とそっくりな顔をした子が立っていた。

 これが、ナハル・ニヴの戦士。特徴は座学で知っていたが、実際目の当たりにすると、驚愕する。彼らは体を武器や鎧に変えるのだ。欠点は、消耗するとそれが持続できなくなること。そして、イマーゴの戦士以上に疲労することだ。

「もういいや、後は頼むね」

 コルウスが面倒臭そうに手を振った。

「単独で動いているからには、見習いじゃない。だけど、俺みたいにチンケな裏切り者を殺す仕事を任されるんだから、まだまだ駆け出しだ。無理しなくても、時間をかけて追い詰めれば倒せるよ」

 場所が悪い。ミカはそう判断し、雨戸を突き破って外へ飛び出した。彼が着地すると、後から瓜二つの少女達が降ってきた。

 ミカはマントフードを脱ぎ捨て、洗礼者の力を解放した。全身の血管が薄黒く浮かび上がる。

 少女達は追いすがりざま、ミカの首と胴へ、剣に変えた腕を繰り出す。

 ミカは攻撃をかわしながら、片方へ手をかざそうとした。黒い光球が浮かび上がるも、途中で消し去る。まさか少女達を倒すために、町を破壊するわけにはいかない。それに、この技は消耗が激しい。力の配分を考えないと後悔する。

 騒ぎを聞きつけて、自警団がわらわらと集まってくる。ミカは跳躍すると、屋根の上を走り出した。少女達も付いてくる。

 攻防を繰り返しながら、ミカは人気のないところを探した。洗礼者になってからの初めての実戦。今更だが、稽古とは違う。緊張と焦りが力の持続時間を短くしているのだろうか、血管がすでに濃さを増している。

 ミカは川沿いの港で足を止めた。倉庫街なら存分に戦える。

 少女達も本気を出すらしく、見る間に姿を変えていった。体の線に合わせた白い鎧を身に纏ったような、優雅な姿だ。白騎士の異名だけある。

 ミカは踏み込むと、片方の少女に切り掛かった。少女は剣化した腕で攻撃を受け止めたものの、勢いまでは抑えられずに吹っ飛び、倉庫の板壁を突き破った。

 もう一人をミカは肩から反対の脇腹まで切り下げた。力を出し切れていないせいで、装甲に弾かれる。それでも、衝撃で地面を転げさせた。

 動悸が激しい。ミカは胸を抑えた。もっと力を出せば、それぞれを一撃で倒せたかもしれない。だが、制御できる自信がないため、躊躇っていた。

 少女達は何事もなかったかのようにミカへ肉薄し、剣を振るった。練度は向こうの方が上だ。かわしきれなかった攻撃がミカに当たる度、赤黒い血が石畳に飛び散る。

 面倒だ。ミカは舌打ちしたい気分だった。片方を攻めようとすると、もう片方が仕掛けてくる。双子達も、姿を変える時間を気にしているのだろうか、激しさが増す。

 血管は更に黒く染まり、頭痛がしてくる。限界が近いと嫌でも分かる。稀にしか生まれない洗礼者とはいえ、未熟な状態では、並の戦士となんら変わりがない。それどころか、大きすぎる力が負担で、かえって弱くなった気さえする。

 元の姿に戻る前に、決着を付ける。ミカは獣のような唸り声を上げ、攻撃をしてきた片方を装甲ごと、肩から反対側の脇腹まで切り下げた。

 残った方の少女は、相方が崩れ落ちるのを見ると、ミカから距離を取った。彼が近づくとその分後退し、剣を交わそうとしない。

 恐れているのか、それとも時間稼ぎか。ミカはもどかしく感じた。確かに、こちらはもう長くは保たない。ならば。

 ミカはわざと力を収めて元の姿に戻る。途端に疲労がのしかかり、その場に足をついてしまいそうになる。

 少女は勝機と踏んだのだろう、攻めに転じた。

 元の姿でナハル・ニヴの戦士と戦うのは、洗礼者でも楽ではない。ミカは、攻撃を受けるので精一杯だった。

 少女がミカの頭を狙って、大上段に剣を振り上げた。瞬間、ミカは再び力を解放し、少女の胸を剣で貫いた。

 ミカは剣を抜くと、自分の方へ倒れ込む少女を抱きとめた。歳が近いと、戦いの気分の悪さはいつも以上だった。

 無様だ。ミカはため息を吐いた。切られた部分はとうに塞がっているものの、服は血で汚れ、ボロボロだ。この戦いぶりをアピスが見たら、嘆くに違いない。イマーゴの長の力は、まだまだ彼の手に余っていた。

 ミカは元の姿に戻った少女達を、一人ずつ川へ運んで流した。それがせめてもの弔いだった。

 コルウスの家に戻ると、二階の部屋で服や鍋を一緒くたに麻袋へ詰め込んでいる最中だった。

「お帰り。遅かったじゃない。いつも通りでいけたでしょ? あいつら単純だから、力任せの戦い方しかできないもんね。早速で悪いけど、荷造りしてね。朝になったらすぐに出るから。こんなに派手に騒いだら、後が面倒だ」

 ミカへ背中を向けながら、コルウスが鼻歌まじりに言った。

「ねえ、話をするのが苦手なのは分かるけどさあ、せめて了解とかなんとか言ってよ。犬だってもうちょっと愛想がいいよ」

 振り向いたコルウスの表情が凍りつく。

「倒したの? あいつらを」

 ミカが踏み出すと、コルウスが床に尻をつき、悲鳴を上げて後ずさった。

「待ってよ。面白い話はまだあるんだ。聞きたいでしょ。知ってるよ、君達は飼育場と殺す相手のいる場所を行ったり来たりするだけの、つまらない生活しかしていないって。情報に飢えてるよね。そうでしょ」

「聞かせて」

 どうせ始末するのだ、その前に情報を引き出してもいい。

「条件がある。俺を見逃してよ。イマーゴにも、ナハル・ニヴにも居場所が無くなったら、後はもう、ひっそりと生きていくしかないんだ。調教師には任務完了しました、って伝えておけばだいじょうぶだよ。ね? お願いだよ」

 ミカが黙っているのを都合よく了解と受け取ったらしく、コルウスが話を始める。

「ええと、ええと、そうだ、とっておき、とっておきを教えるよ。ナハル・ニヴは、イマーゴの商品を捕まえて改造したりもするんだ。逆はなぜかうまくいかないようだけど」

「ぼく達に、更に魂を掛け合わせる?」

 ミカは目をしばたたいた。そんな無茶をして、体が保つのだろうか。

「驚くでしょ。でも、本当なんだ。魔物の血を飲ませた子供に、そんな真似してだいじょうぶなのっていうのは素人だって思うし、実際、当たってるんだ。でもね、たまにいるんだよ、生き残るのが。そういう奴は、勢力図を塗り替えちゃうくらい、とんでもない力を持つ。だから、ほとんど全てが失敗に終わっても止められない。成功の輝きが強烈過ぎるんだな。君は、ネブラって組織は知ってるかい?」

「名前だけは」

 ミカはかつて出会った女性達の顔を思い出した。

「あそこの頭首ってのも、その口なんだ。イマーゴでいじくられて、逃げた後にナハル・ニヴで更にいじくられて、化物みたいに強くなった。代償に、ここがおかしくなったって噂だけどね」

 コルウスは早口で捲し立てながら、こめかみを指先で叩いた。

「今も、続いているの」

「改造かい? もちろんさ。イマーゴは代理になり損ねた奴を、護衛とか暗殺に利用してるでしょ。彼らなんかが狙い目だね。後は、イマーゴに耐えられなくて脱走した奴とかさ。君達の外見って目立つでしょ。町を一人ぼっちでうろついてたら、事情はすぐに分かるじゃない。だから、優しく声を掛けてあげるわけ」

 コルウスはねっとりとした嫌らしい笑みを浮かべた。

「どんなふうに?」

 ミカの脳裏に、大切な人の顔がよぎる。

「ナハル・ニヴの商品もだけど、君達は体を安定させる薬が必要でしょ。それに住む場所、金、イマーゴからの追っ手、不安は沢山ある。つけ込むのなんてわけないさ。ここだけの話、脱走者を捕獲する施設があちこちにあるんだよ。表向きは寺院を装ってるけどね」

「まさか」

「いやいや、なんでもありなんだって。寺院の僧侶は本物で、もちろん、信者だっているんだぜ。悪党ってのは、色んなところにいるよね」

「……」

 ミカはコルウスの軽口を聞いて、根拠のない不安に襲われる。カーラがナハル・ニヴに捕まった、などということはないだろうか。

「あれ、どうしたの。急に暗い顔して。お友達に脱走者でもいた?」

「いや、なんでもない」

「相談に乗るよ。話してみなよ」

 コルウスは立ち上がると、尻の埃を払ってミカへ近づいて来た。

「どんな子なの。名前は」

「……」

「そんなに警戒しなくてもいいって。よし、分かった。君のお友達のこと、必ず調べて伝えるよ。だから、これからも仲良くしよう」 

 ミカは差し出された手を黙って見つめた。コルウスの話は貴重だった。だが、彼は信頼に値しないと直感が告げている。

「どうしたんだよ。だいじょうぶ、君に迷惑をかけたりしないよ。接触する時はこっそりと、誰にも見つからない場所で。ね?」

 へつらうような笑みを浮かべながら、コルウスは空いている方の手でズボンのポケットに隠していたナイフを抜き、ミカの胸を刺そうとした。

 隙をついたつもりなのだろうが、ミカにとってコルウスの動作は遅すぎた。難なく彼の腕を取って、自分の得物を胸に突き立てさせた。

「ちくしょう……」

 コルウスは胸を押さえながら、床に倒れた。

「イマーゴの玩具め、くそ、玩具、くそ……」

 ミカは死際に悪態を吐くコルウスを黙って見下ろした。動かなくなるのを確認して、踵を返す。

 繁華街にある夜遅くまでやっている酒場へ、ミカは足を踏み入れた。ボロボロの服で、その上返り血で染まる少年を気に留めないくらい、客は酔っ払っている。唯一素面の初老の店長は、関わらない方がいいと判断したのだろう、チラチラと彼へ視線をよこすものの、何も言わなかった。

 カウンターに座るアピスは、脇に立ったミカを見ると、麦酒の入った陶製のマグを掲げて迎えた。

「満身創痍ですね。それほどの強敵でしたか。あなたほどの力でも手こずるくらいに」

「ナハル・ニヴの戦士が二人いました」

「おお、それはそれは」

 酔っているからか、アピスはおおげさに驚いて見せた。

「なるほど、並の者では倒せないですね。もしかして、初めてじゃないですか? ナハル・ニヴの人形とやり合うのは」

「知っていたんですか」

「人形の存在をですか? いや、護衛がいるとしか聞いていません」

「……」

 ミカは疑わしそうにアピスを見た。これまでもずっと、同じ手口で窮地に立たされたのだ、信じろという方が無理だ。

「情報不足は謝ります。だから、そんな恐い顔をしないでくださいよ。中途半端な調べ方をした者には、後で私から厳重に抗議しておきます」

 ミカはアピスが言い募れば言い募るほど、嘘臭さを感じた。掘り下げて質問をしなかった自分も悪い。騙され続けて懲りないのは愚かだ。

「さあ、機嫌を直して。君と私の仲でしょう。座りなさい」

 アピスはミカの肩に腕を回して、隣の席に腰掛けさせた。

「どうでしたか、人形との初めての戦いは」

「戸惑いました。それに、自分と同じ境遇の子と戦うのは、いい気分じゃありません」

「世間的な基準ですと、優しさは美徳なのでしょうが、あなたには無用です。これから何度でも同じ事態に直面するでしょう。いちいち胸を痛めるのは、割に合いませんよ」

 アピスの説教は、気落ちするミカの癇に障った。

「いつも言っていますが、慣れですよ、慣れ。私だって飼育場に赴任した当初は、山のような家畜の死体を見せられて、食傷気味になりました。今は気にも留めませんが。ああ、でも臭いは未だに無理ですね」

 アピスはそう言いながら、店主に麦酒を追加注文した。

「無事任務をやり遂げたお祝いに、乾杯をしましょう」

「ぼくは飲めません」

「しかし、飲みたい気分ではありませんか?」 

 ミカは、店主が恐る恐る差し出す麦酒のマグを受け取った。使い込まれて縁が欠けた容器の中には、泡が浮かんだ珀色の液体が入っている。

「イマーゴに」

 アピスはミカのマグに自分のそれを合わせた。

「そしてあなたに」

 言いながらもう一度マグを重ねる。

「最後に私へ」

 アピスは顎に麦酒を滴らせながら、マグを煽った。  

 ミカは一気に飲み干した。苦いだけで、美味しさなどまるで分からなかった。

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