第1章 少年・少女編 6

 飼育場本棟の三階にある会議室は、アピス以下、調教師が揃っていた。月に一度の報告会は、彼らにとって気が重くなる行事だ。話をする者は誰もおらず、各々、作成した書類に不備がないか確かめている。やがて、ミズラッハがタコにそっくりな容貌をした白衣姿の者を伴って現れると、一同が立ち上がって出迎えた。

「座れ」

 上座に腰を下ろしたミズラッハが言うと、一同が着席する。厳つい外見に反して、声は若々しい。

「始めろ」

 ミズラッハの右隣にいたトンボ顔の魔物が、自分の育てている家畜の生育状況を説明する。やがて、アピスの番が来た。彼は席を立つと、自分の育てている家畜がいかに優秀かを身振りを交えて語った。

「アピス、お前の家畜は、この前任務に失敗したのではなかったのか」

「それです」

 アピスは厳しいところを突かれたにも関わらず、微塵も揺らがなかった。

「家畜共に敗因を問い詰めましたが、どうやら、護衛が相当腕の立つ者だったようです」

「どのように」

 ミズラッハは、卓上に組んだ手に顎を乗せて尋ねた。

「カーラが言うには、三本まとめて射た矢を、腕の一振りで叩き落としたそうです。それも二度」

「ほう、並ではないな」

「仰る通りです。任務に失敗した事実はお詫びしますが、そのような者を相手に生き延びたのは、むしろ優秀である証拠と言っていいのではないでしょうか」

「逃げ足の速さも評価に繋がると?」

「勝算もないのに、無理に戦って命を落とすより、遥かに賢い選択だと思います」

「確かにな。もういい、分かった」

 アピスは一礼をすると、腰を下ろした。表面上は平静を装っているものの、握り締めた手は汗でじっとりと湿っていた。

 その後も報告は続き、ミズラッハの左隣のバッタ顔の魔物の順番が終わると、沈黙が降りた。一同、主人が口を開くのを黙って見守る。

「順調に育っているようで安心した。だが、物足りない。兄達の飼育場では、洗礼者を作り出しているというのに、ここでは皆無だ。それなりに優秀では足りないのだ、地区を越えて名を馳せる存在でなくてはな。ポリプス」

 ミズラッハが、背後に控えていたタコ顔の魔物に目をやった。彼は一つうなずくと、前に進み出て甲高い声で話し始めた。

「他の地区に負けないよう、我々も家畜の洗礼者化を促進します。各自、担当の家畜から一名を差し出すように。期限は七日以内とします」

「しかし、メラン一族の血はあまりにも強く、生育途中の家畜には厳しいのではないでしょうか」

 セミ顔の調教師が焦りを含んだ声で異議を唱えた。

「ポリプスが調べたところによれば、兄達の家畜も、お前達の家畜と同じ程度の生育状況で洗礼者になれた。問題はない」

 ミズラッハの返事はにべもなかった。

「お言葉ですが、代理は何も、洗礼者でなくとも務まります。洗礼者の誕生など、むしろ稀。兄上達の件は、偶然の幸運がいちどき重なったに過ぎません。そのために、これまで育てた家畜を無駄に殺すのは、生産的ではありません」

「恐れながら、私も同意見です」

 バッタ顔の調教師も支持に回ったが、ミズラッハの一瞥で恐れをなし、視線を落として沈黙してしまう。

「兄達にできて、私にできない道理があるまい」

 ミズラッハの怒りを含んだ言葉に、一瞬白けた空気が漂ったが、彼は気付いていないようだった。

「もしも、ですよ。一人も生き残らなかったら、いかがいたしましょう」

 アピスの質問に、調教師達が揃って首を縦に振る。馬鹿げている。口にはせずとも、誰もがそう思っていた。

「お前達が育てている家畜は、その程度か」

「いいえ、まさか」

「散々、自分の家畜が優れていると報告をして、無能でしたとは言うまいな」

「もちろんですとも」

「ならばよかろう」

 ミズラッハはそう言い捨てると腰を上げ、ポリプスを伴って会議室を後にした。

 扉が閉まると同時に、残された一同から深いため息が漏れる。アピスはそんな同僚を冷めた視点で観察していた。無茶は今に始まったわけではないが、これほど特大だとうんざりするのは仕方がない。

「無理だ」

 セミ顔の魔物が頭を抱えてうめいた。

「家畜がくたばるのは俺の責任かよ、冗談じゃないぜ」

「キカーダ君、言葉を慎みなさい」

 アピスに注意されたキカーダは、怒りに任せて、卓に拳を何度も打ち付けた。

 とはいえ、アピスも同じ気持ちだ。物事には順序がある。メラン一族の血を飲ませるのなら、もっと段階を踏んだ方がいい。競争相手の兄達への嫉妬でまともな判断が飛んでしまうなど、まだまだ未熟だ。末であるがゆえに、功を焦っているせいもあるか。

 ……などと考えても仕方がない。アピスは額に手を当てた。メラン一族は選民思想が強い。とりわけミズラッハは、成長過程で万能感を捨てられなかった、面倒な存在だ。彼を諌められる者など、同じ一族で、かつ彼より上位の者以外ありえない。そんな伝など、どこにあるというのだ。

「さて、どうしましょうか」

 アピスは椅子に深く腰掛けると、胸の前で腕を組んだ。カーラは精神的に弱いが、才能を感じさせる。ミカは精神的に安定しているが、カーラと比べると能力が劣る。どちらを生贄に差し出すのが正しい選択なのか。

 そう言えば、久しぶりに暗殺の仕事が回ってきた。その働きぶりを見て決めるか。半ば現実逃避なのは承知している。だが、すぐには判断できない。

「では、お先に失礼します」

 意気を阻喪して誰も出て行こうとしない中、アピスは一人席を離れた。


 謹慎が解けて数日が経った。アピスが忙しいのか放ったらかしなので、ミカとカーラはずっと、稽古場で自主的に修練に励んでいた。

「一休みしようか」

 軽く息を上げながら、カーラは地面に足を投げ出した。相変わらず彼女の方が上手で、ミカは未だに勝てない。

「ミカ、フェイレさん達を覚えてる?」

「もちろん」

 樹脂を厚く塗った木の棒を手に立っていたミカは、陽が傾きかけた稽古場を見渡しながら答えた。幸い、誰の気配もない。

「どう思う?」

「うん」

「うん、じゃ分からないよ」

 カーラがミカを軽く睨め付けた。

「ぼくは、行きたい」

 仕事は選べるとフェイレが言っていた。カーラだって、もう辛い思いをしなくていい。

「あの人達の言葉が本当なら、ね。わたしはそれが恐いの」

「飛び込まなきゃ、嘘か本当か分からないよ」

「飛び込んで、裏切られたら?」

 ミカは、樹脂を厚く塗った木の棒を地面に突き刺して、カーラの隣に座った。

「その時考えよう。でも、心配ないと思う。フェイレさんは、ネブラではぼく達みたいな子も戦っているって、正直に話してくれた。ベヘモドさんも、来たかったら来い、って立ち位置だった。騙すつもりなら、甘い言葉を積み重ねて、すぐに引き入れたはずだよ。次があるかどうかなんて、分からないもの」

「……ミカって、案外大胆だね」

「カーラは、案外慎重だね」

「だって、考えるでしょ」

 カーラはムッとした顔で反論する。

「じゃあ、気持ちは同じでいいね」

 ミカは、そんなカーラを笑顔で受け止めた。

「ベヘモドさんからもらった玉は、どこかに落ち着いてから使うとして、問題は……」

「お薬か」

 カーラはあぐらをかくと、腕を組んで考え込んだ。決断をして気持ちが軽くなったのか、普段の調子を取り戻したようだ。

「確実に手に入れられそうなのは、アピスさんの腰のポーチだね」

 ミカは声を低めて言った。飼育場の本棟にある抑制剤を管理する部屋は、常時二匹の魔物が入り口を固めている。最も、彼らは人間が襲撃するなどと思っていない様子なので、空気は緩い。だが、それでも相手をするとなると、手こずるのは必至だ。

「やっぱり? 面倒だなあ」

「それしかないよ」

 ミカは腰が引き気味になったカーラを鼓舞した。師に当たる相手を倒せるかどうか。それは気がかりだ。やるとしたら、相手が油断している隙を突く以外ない。

「でも、ネブラの人、どれくらいで来てくれるんだろう」

 新たな不安に、カーラの気持ちが揺れる。

「僕たちの体のことを分かってくれてるから、そんなにダラダラしないと思いたいな」

「死なない程度に節約して待つしかない、か。二人でなら、なんとかなるよね」

「きっとね」

 ミカが気持ちを込めて応じた。失敗したら後はない。その場で命を絶たれるならまだ幸せだ。見せしめになぶり殺しにされる、という線だってありえる。

「よし!」

 カーラは気持ちを上げるように、自分の頬を両手でぴしゃりと叩いた。

「決行は、次のお仕事の時でいいね」

「了解」

 ミカはカーラの手を借りて立ち上がった。彼女と一緒にいると勇気が湧いてくる。きっとできる。そんな気がした。

 運命の時は、程なく訪れた。起床の鐘が打ち鳴らされ、ミカとカーラが目覚めてすぐに、アピスが彼らの部屋へ現れたのだ。

「おはようございます。いい朝ですね」

「どうしたんです? こんな早くに」

 ミカは肌着のまま、ベッドの縁に腰掛けて言った。

「もちろん、用事があって来たのですよ。開始は明日ですが、事前に耳に入れておこうと思いまして」

「珍しいね。いつもは出かけてから教えてくれるのに」

「身構えなくてもいいですよ、カーラさん。依頼自体は実につまらないですから。イマーゴと付き合いのある貴族からの依頼でして、彼の最愛の奥方が浮気をしているのです。彼はそれにたいそうご立腹で、浮気相手を殺して欲しいそうです」

「それだけ?」

 カーラは疑わしそうにアピスを見た。ミカも同じ考えだ。ならばいつもどおり、ただ行って来いと命令すればいいだけだ。

「それだけです。ただし、最初に浮気相手の家族を、家族の死を見せつけた後に本人を、というのが、彼の望みです。なかなかいい趣味ですな。今後更に、イマーゴへの協力を申し出た上に、前金もはずんでくれました」

「家族って、何人くらいですか」

 ミカは、内心うんざりしながら尋ねた。無関係の人を手にかけるなんて、最悪だ。

「奥方と子供四人。その中には赤子もいます。ね、つまらないでしょう?」

 どこがだ。さらりと言うアピスに、ミカは憎しみを覚えた。実際に手を下すのは、自分達だ。

「女、子供だからといって、深刻に考えなくとも結構。殺す相手に、性別も年齢も関係ありません。ただの肉の塊と思えばよろしい。とはいえ、こういう案件は初めてですから、衝撃はありますよね。だから、事前に知らせたのです。現場に行ってから躊躇ったり、できないと駄々をこねられても困りますから、今のうちに腹を括ってください。やりません、なんて言っても無駄ですよ。やらせる手段など、幾らでもあります。時間の無駄ですから、お互い無用な諍いは止しましょう。自主的な稽古は大いに結構ですが、今日は控え目にしてください。明日に響くといけません。それでは」

 言うだけ言うと、アピスは部屋から立ち去った。 

「朝からする話じゃないよね。一体、どういう神経してるの」

 カーラは自分のベッドの上で折り曲げた足を抱き、顔を埋めた。

「気分が悪いよ」

 ミカはため息を吐いた。仕事には慣れたと思ったが、無関係な人間まで殺せと言われると、胸がざわついてしまう。自分にもまだ、まともな心は残っていたようだ。

「別に、いいけどね」

 カーラは顔を上げると、ベッド脇の小物入れの引き出しを開け、皮袋を取り出した。中には例の黒い玉が入っている。

 いよいよだ。ミカも気が引き締まった。

 一日中、ミカは落ち着かなかった。だからこそ、余計な考えをせずにいられる稽古はうってつけだった。会話もろくに交わさず、汗が滴り、体から湯気が立つまで、二人は樹脂を厚く塗った木の棒で打ち合った。

「そうだ、これ、カーラに上げるよ」

 部屋へ戻る道すがら、ミカは首に下げていたペンダントを外すと、カーラに手渡した。

「いいの? これ、お母さんからもらった大切な物でしょ」

「カーラに持っていて欲しいんだ。それに、何かあった時にお金に換えられる」

 もしも失敗したとしても、カーラだけは必ず逃すから、とは口にしない。いたずらに不安にさせるだけだからだ。

「じゃあ、もらうね」

 遠慮がちに、カーラはペンダントを首に掛けようとした。慣れていないため、留め金具がうまく嵌らない。

「待って」

 ミカが手伝い、カーラの首にペンダントが下がる。トップのメダルを手に取り、見つめる彼女の瞳が、喜びで輝いている、

「どう?」

「似合うよ」

 ミカがそう言うと、カーラがはにかんだ笑みを浮かべた。


「ミカ、もう寝ちゃった?」

 その日の夜、カーラは自分のベッドからミカへ話しかけた。

「まだ起きてるよ」

 ミカは寝返りを打って、カーラの方を向いた。彼女の赤い瞳が、月明かりを映して光を帯びている。 

「わたし、ちょっぴり不安なんだ。失敗したらどうしよう、って」

「ぼくもだよ。だけど、余計な考えはよそう」

「そうだね」

 カーラはミカの方へ寝返りを打つと、毛布から手を伸ばした。

 ミカは、カーラの手を握り締めた。彼女の温もりが伝わってくる。

「今度は繋がった」

「今度?」

 ミカは不思議そうな顔をした。

「ほら、牢屋でもあったでしょ」

 カーラに言われて、ミカは思い出す。魔物の血を飲まされて苦しみ喘いでいた時も、鉄格子を通じて手を伸ばした。確かにあの時は、距離が遠くて届かなかった。

「ようやく眠れそう」

 そう言いながら、カーラは目を閉じ、しばらくして寝息を立て始めた。

 ミカはカーラの安らかな表情を見ながら、いつしか眠りに落ちていった。


「浮気は昼に行われ、夜は互いの家族の元へ帰ります。ですから、家族は先に片付けて下さい。召使いや下働きをどうするかは、お任せします。庭に番犬の類はいません。必ず、家族の死に様を見せてから始末するように、としつこく念を押されているので、厳守でお願いします」

 幌馬車に揺られながら、アピスは向かい側に座るミカとカーラに指示を出した。二人はいつも通り、地味な旅人の格好をし、水と弁当を麻の背負い袋に入れている、

 ミカは聞くふりをして、流していた。どうせ、実行などしないのだ。それより、どこで逃亡するか、だ。飼育場からはもう十分離れた。いつでもいい。

「アピスさん」

 カーラは不意に立ち上がった。

「なんです?」

 返事が終わるか終わらないかの間に、カーラはアピスの顎を殴りつけた。蜂顔の魔物は、ふっ、と短い息を吐いてその場に崩れ落ちる。

 御者の人間は、幌の中の異変に気がつかず、そのまま馬車を走らせている。

「うまくいったね」

 カーラはアピスのポーチをベルトから外して中を確認する。

「あんまり、入ってない」

 当てが外れたカーラは、顔をしかめる。 

「どれくらい?」

 ミカはポーチの中を見せられて口をつぐむ。抑制剤は十数個入っているが、二人で分けたら、せいぜい数日しか保たない。その間に、ネブラの救援は来てくれるだろうか。

「切り詰めるしかないね。行こう」

 ミカはカーラを促して、同時に馬車から飛び降りた。道を外れ、森の中を駆ける。次第に速くなり、知らずに笑みが浮かんだ。自由、これが。気持ちが軽かった。彼女の方を見ると、顔いっぱいに喜びを表している。

「少し、休もうか」

 川を飛び越え、崖を登り、息が切れるまで走ってから、ミカは手近な木の根本で腰を休めた。いくら魔物だろうと、もう追い付いてはこれないだろう。落ち着いてくると、後戻りできない恐怖がじわりじわりと胸の中から湧き上がる。それでも、後悔はなかった。

「やったね」

 カーラは額に汗の玉を浮かべながら、地べたに手足を投げ出して言った。

「これからどうする?」

「雨宿りできるところを探そう」

 落ち着いた二人が歩き出そうとした矢先、背後から素早く何かが迫り、振り返る間も無く、地面に倒された。

「どういうつもりですか」

 二人の頭を押さえつけてながら、アピスが言った。声色は抑えているが、怒りがビリビリと伝わってくる。

「その程度の薬で、何日保つと思っているのです? それとも、死ぬ前に自由を味わいたかったとでも言うのですか?」

 なんて力。ミカは歯を食いしばった。魔物の血で強化された力を持ってしても、押し返すのは容易ではない。自由のきかない体で、腰に下げたナイフをまさぐり、鞘から引き抜いた。そして、迷わずアピスの腕に突き刺す。

「うぬ……」

 アピスは呻き声を上げて、二人から離れた。腕から紫色の体液が流れている。

「カーラ、逃げるんだ」

「ミカは、ミカはどうするの」

「後から追う」

「嘘だ!」

 カーラは即座に応じた。顔が今にも泣き出そうに歪んでいる。

「お願いだ。ぼくの言う通りにして」

 ミカの気迫に押されたカーラは、口をつぐんだ。

「優しいですね、自分が盾になるつもりですか。ですが、あなた達二人がかりでも、どうにかなるか怪しいというのに、ミカ君だけでだいじょうぶですか」

「やっぱり、わたしも戦うよ」

「だめだ。行くんだ」

「決まりませんね。困った、困った」

 状況を楽しんでいるアピスを、ミカはありがたく思った。気が緩んでいる者は、全力を出さない。倒せなくとも、足止めできればそれでいい。

「約束して。必ずまた会えるって」

「約束する」

 ミカは誠実な表情で嘘を吐いた。次などないのは、自分が一番分かっている。

「きっとだよ」

 カーラは躊躇いがちに後ずさると、やがて背中を向けて駆けて行った。

「ええ、会えますとも。すぐに。私が連れ戻しますから。その前に、あなたにはきつくおしおきをしてあげましょう」

 アピスの爪が伸び、ローブの下の体が膨れ上がる。そして、牙をカチカチと鳴らして脅しをかけた。

 向こうは長い爪、こちらはナイフ。力に差があり、その上、武器でも劣る。自分が生き延びる前提で戦えば、ただ消耗し続けるだけ。確実に動けなくする方法は、たった一つ。ミカは心を決めた。

「どうしました、恐ろしくてなにもできませんか。ならば、私から行きますよ」

 アピスはミカと距離を詰めると、爪で薄く切り刻み始めた。

「さあ、来なさい。守っているばかりでは、私を倒せませんよ」

 殺すつもりはない、という意思表示はミカにとって幸いだった。彼は地面をつま先で蹴り上げた。大量の土を被って狼狽するアピスへ素早く接近する。

「姑息な手を!」

 後少しというところで、ミカは脇腹を爪でえぐられた。それでも構わず、アピスの腕にナイフを突き立て、反対側まで貫通させた。

「痛い!」

 アピスはミカを蹴りつけて退くと、腕を抑えた。

 まだまだ。ミカは苦痛で呻くアピスへ更に攻撃を加えようとした。

「させません!』」

 アピスの蹴りが、ミカの怪我をした脇腹目掛けて繰り出される。彼は身を低くして攻撃をかわしざま、足をナイフで切りつけた。

「ひい! 畜生の分際で!」

 アピスは地面に倒れると、ミカへ罵声を浴びせた。

 いけるか。と思ったのはさすがに過信だった。カーラを追いかけようという、捨てたはずの希望が再び湧き、ミカが踏み込もうとした時、アピスの爪が更に長く伸び、ミカの胴を貫いた。

「あなたは、ただでは殺しません。最高の苦しみを用意してあげます」

 回復能力を超えた痛手を受けて、ミカの意識が遠のいて行った。


 目が覚めると、ミカは飼育場の中庭に寝転がされていた。子供達が最初に魔物の血を飲まされる例の場所だ。体には指の太さほどの鎖が芋虫状になるほど巻かれ、身動きが取れない。アピスに刺し貫かれた傷は塞がっているものの、痛みが微かに残っていた。

 周囲は飼育場の魔物に加え、宿舎の子供達も並んでいた。

「おはようございます、ミカ君。よく眠れましたか」

 ミカの傍に立っていたアピスはしゃがみ込むと、彼へ顔を近づけて言った。切りつけられた腕と足には包帯を巻いている。

「まさか、あなた達に裏切られるとは思いませんでしたよ。せっかく目をかけてきたというのに、この仕打ち。実に傷つきますね。所詮は畜生、恩義など感じないのでしょうか。ミズラッハ様も、たいそうお怒りですよ」

「後悔はありません」

 ミカは言い切った。カーラが逃げ伸びてくれれば、それでいい。

「後悔はない? 結構」

 アピスが嘲笑していると、中庭の空気が変わった。

「これは、これはミズラッハ様」

 察したアピスが振り返ると、うやうやしく頭を下げた。

「こいつか、脱走を企てたのは」

 ミズラッハがミカを見下ろして言った。

「その通りです」

「もう一人は」

「まだ追跡中です」

「飼育場からの逃亡など、あってはならない事態だぞ」

「申し訳ございません」

 アピスの声はいつもと変わらないが、手が小刻みに震えていた。

「ミカと言ったか」

 ミズラッハはかがみ込むと、片手でミカの首を掴んで立たせた。

「貴様にはここで洗礼を施してやる」

 洗礼とは? ミカはそう問いたかったが、間近で放たれるミズラッハの気に圧されて一言も発せなかった。

 ミズラッハは爪で自分の指先を突いた。傷口から、紫色の血が溢れ出る。

 ミカは背筋が凍った。組織の頂点に立つ魔物の血、それは、今まで飲んだどの血よりも強力で、そして危険だ。

 アピスがミカの口に手を掛けてこじ開け、ミズラッハが血を注ぎ込む。喉に入った瞬間から、これまで血を飲んだときとは段違いの、突き刺すような痛みが走る。体をよじろうとするものの、鎖で抑えられてなす術がない。

「ミズラッハ様、もうよろしいのでは」

「まだだ」

 ミズラッハは聞き入れず、血はしばらく流し込まれた。ミカの全身の血管が青紫色に浮かび上がる。

「喜べ、生き残ったら、貴様の罪を赦してやる」

 ミズラッハはそう吐き捨てると、ミカを地面に叩き付けて踵を返した。他の魔物や子供達も、それを機に散っていく。

 痛い、痛い、痛い。ミカはのたうちまわった。血管はどす黒い紫色に変わり、肌は土気色を帯びた。苦しすぎて声も出ない。これならばいっそ、森で止めを刺された方がましだった。これほどまで追い詰められても、強化された体は耐え続け、死ぬことを許さなかった。

 二日目は雨だった。全身ずぶ濡れになりながら、ミカは悶え続けた。子供達は、遠くから無感動な視線を投げかけるだけで、手を差し伸べる者はいなかった。彼らにしてみれば、逃亡に失敗して見せしめにされた、惨めな存在に過ぎない。飼育場の恐ろしさを、改めて認識させられただろう。

 三日目、照りつける日差しに晒されながら、ミカはまだ息をしていた。体は痺れたように動かない。彼の顔に羽虫が止まり、身を休める。わずらわしくても、それを振り払う気力がなかった。

「驚きましたね、まだ生きていますよ」

 四日目、アピスが屈み込んでミカの様子を確認した。言葉に同情の色はなかった。

 五日が過ぎ、六日になった頃、全身の痛みは徐々に引いていった。

 七日目になり、ミカは空腹を感じた。彼はのろのろとした動作で転がり、石畳の隙間から生えた草へ首を伸ばすと、歯で千切って口へ入れた。青臭さが鼻をつくが、久しぶりの食事は美味しかった。彼は夢中になって草を頬張った。

 喉が渇いた。ミカは噴水へ行きたかった。しかし、拘束された体では身動きできない。腹立ちまぎれに体に力を込めると、鎖が弾けて自由になれた。

「……?」

 ミカは自分でしたことながら、戸惑いを覚えた。これまでと力の強さが違う気がする。とはいえ、今はどうでもよかった。

「……水」

 立ち上がったミカは水盤へ近づくと、縁に手をかけた。七日間体を動かさなかったため関節が硬くなり、均衡を崩して水面に頭から突っ込んだ。気にせず、思う存分飲む。乾き切った体が潤っていくのが、自分でも感じ取れた。

 そういえば、カーラはどうなったのだろう。魔物達が連れて来ないから、きっと逃げ切れたのだ。もうネブラに保護されただろうか。そうだと信じたかった。

 十分喉を潤したミカは、水盤の縁に腰掛け、昇りきった太陽を仰いだ。自分は、また生き延びた。初めて血を飲まされた時と同じく、喜びはなかった。ただ気怠く、とても腹が空いていた。

「ミカ君!」

 名前を呼ばれて正面を見ると、アピスが立っていた。

「おお、なんという!」

 アピスは感極まったように言うと、両腕を広げてミカを抱きしめた。

「試練を乗り越えたのですね! 君ならやってくれると信じていましたよ! お腹は空いていませんか? さあさあ、食堂へいきましょう。たまらなく臭い体を洗ったら、ミズラッハ様へご挨拶です」

「ぼくは、もう必要ないのでしょう」

「なにを言うのです。あなたこそ必要なのですよ! なにせ、洗礼者なのですから」

「洗礼者って?」 

「メラン一族の血を飲んで、生き延びた家畜をそう呼ぶのですよ。あなたは最上級の力を手に入れたのです。これからが楽しみですね!」

 清々しいくらいの変容ぶりに、ミカはただ呆れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る