第1章 少年・少女編 5

「さて、お仕事です」

 アピスは幌の付いた馬車の荷台で揺られながら、向かいに腰掛けるミカとカーラへ言った。舗装されていない道はでこぼこしており、時折三人の体が座席から浮き上がる。

「最近、うちの区域でイマーゴに批判的な女貴族が活動をしていましてね、我々と手を切るよう有力者に働きかけて回っているのですよ。気が強いのか、愚かなのか、脅かしても、丸め込もうとしても、聞く耳を持ちません。そこで、最終手段になりました」

「その人、まともだね」

 カーラは、弓を腕に抱きながら言った。それは体にそぐわない程大きく、あまつさえ、並の力では皮が剥け、肉に食い込んでもびくともしないような、太い弦が張られている。

「なぜ、そう思うのです?」

「だって、イマーゴと手を切れって言ってるんでしょ」

「前にも言いましたが、イマーゴは、数多の種族を束ねて、秩序を守っているのですよ。当然、人間もその恩恵に預かっています。我々が目を光らせているからこそ、世の平穏は保たれているのです」

「もしも、魔物が人間に悪さをしたら?」

「無論、イマーゴが相応の制裁をします。人間との関わりは、それだけではありませんよ。他の種族との繋がりがほとんどない人間が、彼らとお仕事の交渉をしたいとします。その仲介役を請け負うのが我々です。他にも運送や土木建築、金貸しなど、陰ながら様々な関わりを持っています。それが全部なくなったら、困るのは人間の方ですよ」

「初めて聞いた」

 熱を帯びるアピスの弁舌に対して、カーラの反応は冷ややかだ。

「まさか、暗殺だけでイマーゴが食べていたとでも? ご冗談を。暗殺は組織のシノギのごく一部、それも陰の稼業に過ぎません。秩序を乱す聞き分けのない者への、ささやかな実力行使です。我々は、全ての種族との共存共栄を、基本としているのですから」

「だったらどうして、ナハル・ニヴと仲が悪いの。彼らとも話し合えばいいのに」

「するべきところはしていますとも。そのためのあなた方ではありませんか」

「そうじゃなくて、全面的に仲良くすればってこと」

「互いが自分を正義だと思っているのです。歩み寄るのは困難というものでしょう」

「それをしたら、殺し合いなんて必要ないじゃない」

「どんな者とも分かり合えることを前提とすれば、あなたの言は正しい。ですが、果たして本当にそうでしょうか。分かり合えない者もいると捉えるのが、正しい判断だと思いませんか。あなたはこれまで、全ての人と仲良くなれましたか。飼育場であなたが友と呼べるのは、ミカ君だけではありませんか。それはなぜです? あなたの理屈と食い違いませんか」

「それは……」

 ベラベラと捲し立てるアピスに圧されて、カーラが口籠る。

「いずれは、ナハル・ニヴを叩き潰して、イマーゴが全てを取り仕切る。そこで初めて、理想的な秩序が出来上がる。私はそう思っています。途中段階で困難に直面するのは必然でしょう。話を戻してもいいですか」

「どうぞ」

 言い返せずモヤモヤが残っているのだろう、カーラは少し不貞腐れ気味に答えた。

「任務を遂行するにあたり、護衛に注意してください」

「どんな人達なの」

「女性が一人」

「一人? たった?」

「侮ってはいけません。手を結んでいる人間の組織を何度かけしかけましたが、護衛にことごとく跳ね返されました」

「そこらへんのコワモテなら、わたし達の相手じゃないよ」

「片手で放り投げられたとか、拳の一撃で骨を砕かれたという報告から察するに、ただの人間ではないでしょう」

「獣人みたいな?」

「恐らく」

「わたし達でだいじょうぶなの」

「報告から類推すれば、あなた達二人でどうにかなるはずです」

「だといいけど」

「その女貴族、フェイレというそうですが、今夜、我々にもナハル・ニヴにも属さない貴族の元へ赴いて、会合を開くそうです。途上で始末してください」

「会合の時間は?」

「夜です。女貴族は二頭立ての馬車に乗っています。馬の色は両方とも白。護衛の女性が御者をしています。短い黒髪をした、妙齢の方とか」

「待ち伏せすればいいんですね」

「ちょうどよく、屋敷へ行く途中に森があります。そこが狙い目でしょう」

 アピスはミカの問いにうなずいた。

「夜まで少々時間がありますから、我慢してください」

「だから、お弁当を持たせてくれたんだ

 カーラは背負い紐の付いた麻袋を広げた。中には水が入った皮袋、そしてバスケットには、皮をパリッと焼いた鶏肉とハーブを挟んだパンが入っている。

「薬も渡しておきますから、体調と相談して、適宜飲んでください」

 アピスは、二人に薬が入った小さな皮袋を、それぞれ手渡した。

 二人は、森へと続く一本道で下ろされた。初春の森は、瑞々しく柔らかい葉が生い茂り、隠れる場所には事欠かない。

「アピスさんはどうするの」

「私は、人間の町で時間を潰しますよ。適当な頃合いで戻りますから、吉報を持って来てください」

 アピスは荷台から手を振ると、人間の御者に命じ、町の方へ馬車を向かわせた。

「行っちゃった」

 カーラは遠ざかる馬車を見送りながら呟いた。

「お気楽だこと」

「会合が夜だから、ここを通るのは夕方くらいかな」

 ミカはマントフードを脱ぎながら言った。昼日中の日差しの下では、少々暑い。

「多分ね。関係ない人を間違って攻撃しないようにしなきゃ」

 カーラは手で顔を仰ぎながら、足元の石ころを蹴飛ばした。それは弧を描いて遠くへ飛んでいった。

 折り重なる葉の間から陽光が漏れ、コマドリがどこかでさえずっている。長閑な雰囲気の下、あどけなさの残る子供達は、女貴族を殺す場所を求めて森を歩き始めた。

「ね、どこらへんにしようか」

「ぼく達が隠れられるような、茂みがあるといいな」

「護衛は強いみたいだから、同時にね。私が先に弓矢で射るから、ミカはその後出て」

「分かった」

 流れるようなやりとりに、ミカはつい苦笑した。仕事の時は、不思議なくらい何も感じない。心の底に押し込んだ淀みが湧き上がってくるのは、決まって寝床に入ってからだ。

「どうかした?」

「慣れたなあ、と思って」

「言わないでよ。考えないようにしてるんだから」

 カーラは嫌そうな顔をすると、ミカを小突いた。

「ごめん」

 ミカは素直に謝った。

「ぼく達、これからもずっとこんな感じなのかな」

「これは通過点。本当の目的は、イマーゴの代理になることでしょ。忘れたの?」

「そうだった」

 見習いの間はずっと一緒だが、最後はカーラとも離れてしまう。彼女がいなくなってしまったら、自分は仕事に耐えられるだろうか。

「弓を使うとなると、見張りも兼ねて木の上がいいかな」

 カーラは木々を見回し、適した場所を探した。

「向こうから、見えないようにしなきゃだね」

「ぼくはどこに隠れよう」

 殺しを楽しむつもりはないが、完遂だけを考えてしまう。命を刈り取る行為は、自分の中にすっかり浸透していた。

「あ、あの木がいいな」

 カーラは一本のナラの巨木に目をつけた。葉が生い茂り、張り出した枝が道に伸びている。彼女は早速駆けて行って、幹をよじ登り始めた。

「ぼくも……」

 遅れを取ってはなるまいと、ミカも道を挟んだ反対側へ行き、身を隠せそうなナラの木を見つけて、自分の腕よりも太さのある根と根の間に腰掛けた。

「誰か来る?」

「誰も。暇だなあ」

 ミカの呼びかけに、カーラは体重を十分支えられそうな枝の上から応じた。葉に遮られて、彼の方からも半分くらいしか見えない。

「待つしかないね」

 背負い袋を下ろすと、ミカは食事を摂り始めた。具材は、昨日の夕飯の残り物だ。それを料理番のスースが改めて手を加えている。彼は見た目こそ大雑把そうでも、料理に手を抜かないので、いつも美味しい。

「あ、ずるい。わたしも」

 カーラもすぐに食事を始めた。こうしていると、まるで野遊びのようだった。けれども、二人が飼育場を出る機会は、殺し以外にない。

「ずっと思ってたんだけど……」

 咀嚼しながらカーラが話しかけた。

「スースさんって、豚も食べるよね」

「アピスさんがからかっても、気にしてなかったよ」

 今日は共食いですか? とアピスが言い、スースが、俺は豚じゃねえよ、と突き出た腹を揺らして笑いながら応じていた。聞く側からすれば、冷や冷やする光景だった。

「あの人、黒い笑いが好きだよね」

「わたし達、知らずに染まってないかな」

「否定できない」

 なにせ、飼育場で話ができるのは、カーラの他にはアピスくらいしかいないのだ。子供達は、近寄りがたい雰囲気を漂わせている者ばかりで、声を掛けづらい。他の魔物達は、そら恐ろしい外見に気圧されて躊躇ってしまう。料理番のスースは例外だが、口数が少ないし、話す機会もあまりない。

「なんだか、眠くなってきちゃった」

 唇に付いた脂を手の甲で拭ったカーラが、枝に腹這いになる。それにはミカも同意だった。ただじっと待つしかなくて、おまけに腹が満たされているとくれば、目蓋が重くなる条件は揃っている。 

「いいよ、カーラは寝ていて。ぼくが見張ってるから」

 ミカには分かっている。カーラは繊細な心の持ち主だ。だからこそ、人の命を奪う行為に耐えきれず、体調を崩してしまう。殺す相手を待ち続けている間も、精神をすり減らし続けているのだ。 

「ごめんね。ちょっと休ませて」

「落ちないようにね」

「だいじょうぶ、しがみ付いて寝るから」

 おおよそ暗殺者とは思えない間の抜けた姿で、カーラが眠り出した。

 ミカは木の幹に頭をもたれながら、目を閉じた。馬車が来れば、音で分かる。自分も気持ちを休めておきたかった。

「ミカ、ミカ」

「起きた?」

 陽が傾きかけた時、カーラが話し掛けてきた。声色に焦りがある。

「様子はどう」

「馬車が二台、屋敷の方へ向かって、一台が屋敷の方から来た」

「フェイレって人じゃないんだね」

「特徴とは違ったよ」

「良かった。ぐっすり寝てたよ」

「そろそろ準備して」

「了解。ああ、気が乗らない」

「さっさと済ませよう」 

 ミカは腰に佩いた剣を、自然と握り締めていた。刻一刻と時間が迫り、気持ちが引き締まる。

「あれじゃないかな」

 空が茜色に染まり、森が薄暗くなる頃、カーラが固い声で言った。こちらへ、客室付きの馬車が近付いて来る。

「見えた?」

「二頭立ての白い馬を、黒髪の女の人が操ってる」

 カーラは体を前に傾けて目を凝らし、特徴を告げた。

「間違いないね」

 ミカは剣を抜き、鞘を地面に置いて身構えた。耳を澄ますと、車輪の回る音と、馬が蹄で地面を蹴る音が聞こえる。

 カーラは矢筒を背負い、弓を手にすると、矢を三本まとめてつがえた。そして、鍛えた大人でも扱いづらそうな太い弦を、軽々引き絞る。目標がはっきりと現れた時、彼女は弦を放った。矢は唸りを上げて、御者の女性へ飛んで行った。まともに当たれば、なにが起こったのかも分からず絶命するだろう。 

 飛び出そうとしたミカは、目を見張った。矢は全て当たらなかった。黒髪の女性は、カーラの強弓から繰り出された矢を、なんと腕の一振りで払い落としたのだ。その上、片手で手綱を握り締め、暴れる二頭の馬を抑えている。

「嘘でしょ!」

 カーラは上擦った声で言いながら矢筒から矢を抜き、今度も三本まとめて射た。

「イマーゴの小鬼か」

 黒髪の女は痛ましそうに言いながら、二射目の矢も全て叩き落とす。

 初動では驚愕して動けなかったミカだが、カーラが次射を放った瞬間、気を取り直して走り出した。黒髪の女が、矢に気を取られている隙に切り伏せる。そのつもりだった。

 ミカが、黒髪の女に迫った時、彼の視界から相手が消え失せた。

「遅い」

「え?」

 動揺するのと同時に、ミカの体に衝撃が走った。瞬時に彼の脇へ移動した黒髪の女が、膝で彼のみぞおちを蹴ったのだ。 

「ミカ!」

 カーラが剣を抜くと、黒髪の女の頭上に振り下ろした。女は軌道を正確に読み、最小限の動きで避けると、細い喉を掴み上げ、地面で悶絶するミカの上へ投げつけた。

「やりすぎてはだめよ」

 客室の中から、おっとりとした話し方をする女性が降りて来た。歳は二十代前半だろうか、たおやかで、魔物が率いる犯罪組織と戦うよりも、舞踏会が似合いそうな雰囲気だ。

「分かっています」

 黒髪の女は、低く張りのある声で主人に応じ、ミカとカーラの前に立って牽制した。

「あら、あら、あら、可愛らしい暗殺者さんだこと」

 自分の息の根を止めようとした子供達を、フェイレが褒めた。

「く……」

 込み上げる吐き気と痛みで声が出ない。ミカは腹を抑えながら半身を起こし、カーラを自分の背中へ隠そうとした。

「ふん、相方を思いやるとは珍しい」

「そうね、健気だわ」

 フェイレは両手を合わせて嬉しそうだ。

「立て」

 黒髪の女は二人にそう命じて、腰を上げさせた。

 死ぬのか。ミカは覚悟をした。自分がこれまで殺めてきた者達と、同じ道を辿るのだ。せめてカーラだけは逃したかったが、力量に隔たりがあり過ぎて、難しいだろう。なにせ、黒髪の女は腰に佩いた剣を、鞘から抜こうともしないのだから。

「ねえ、あなた達、少しお話をしない?」

 フェイレは無防備に二人へ近づいて、優しく話しかけた。

 想像だにしなかった申し出に、二人はきょとんとする。

「下手な真似をしたら、首を捻じ切るぞ」

「おやめなさい、ベー。この子達が怖がるでしょう」

 フェイレはずれているのか、はたまたどこかやられているのか、自分を殺しに来た者達を抱きしめた。

「あなた達、お名前は?」

「ぼくはミカ」

 ミカはばつが悪いため、ぼそぼそと答えた。

「カーラ、です」

 カーラもまた、小声で自己紹介をする。

「ミカ君にカーラちゃんね。わたしはフェイレ。殺しに来たのだから、当然知っているわね。あちらはベヘモド。わたしは普段ベーって呼んでいるわ」 

 ベヘモドは冷たい表情で、ミカとカーラの動向に目を光らせている。

「二人一組で動いているところから察するに、まだ見習いでしょう」

「その通りです」

 ミカが素直に答えると、フェイレがうなずく。

「それにしても、私達の行動はどこから漏れたのかしら。嫌だわ」

「イマーゴの内通者か。おい、お前達は知らないのか」

「わたし達、命令しか聞いていません」

 カーラはベヘモドの圧に恐れをなしたのか、体を縮こまらせた。 

「だから、脅かさないの。カーラちゃん、ベーは怒っているわけじゃないのよ。ただ、お母さんのお腹の中に、愛想を落としてきてしまっただけなの」

「なんですか、その説明は。私は怒っているのですよ。出会い頭に竜も殺せそうな矢を射かけられたのですから。もしも当たっていたら、体に穴が空いていたんですよ」

「あなた暑がりだし、風通しが良くなっていいじゃないの」

「フェイレ様」

「冗談よ」

「そんな冗談がありますか!」

 ベヘモドは金色の目を釣り上げた。

「そんなに怒らないで。ところで二人とも、ネブラって知ってる?」

「ネブラ?」

 ミカはカーラと顔を見合わせた。初めて聞く単語だ。

「ネブラはね、イマーゴとナハル・ニヴと戦っている組織なの。人間もいれば、他の種族もいるわ。イマーゴやナハル・ニヴに所属していた者もね」

「本当ですか」

 俄然、ミカは興味が湧いた。

「私達が各地を回っているのは、ネブラの支持者や仲間を増やすためなの」

「そんな組織があるなんて、初めて聞いた」

 カーラは戸惑いを隠せない様子だった。

「調教師さんは、私達の素性を隠して、お仕事をさせようとしたようね」

「下手な知恵を、付けさせたくなかったのでしょう」

「彼ららしいこと」

「目的は他にもあって、あなた達のように組織に利用されている子を助けること。これまでも、イマーゴやナハル・ニヴにいた子達をネブラへ保護したことがあるのよ。あなた達が普段飲んでいるお薬もあるから、心配しないで」

「わたし達を……助ける?」

 カーラは不審と、にわかに降って湧いた希望の間で複雑そうな表情をした。

「突然言われても信じられないでしょうね。これまで出会った子達もみんなそうだったから、よく分かるわ」

 フェイレはそんなカーラの心中を察するように、穏やかに言った。

「助けるって、ぼく達をどうするんです」

「まずは、ネブラ・ケントルムという私達の拠点へ来てもらって、そこでこれからどうするかを考えてもらいます。戦うのはもう嫌だというのなら、任せます。できるお仕事は他にもあるから」

「ネブラが、イマーゴと違うって保証はありますか」

 カーラは信じたい、けど信じられないといった様子で尋ねた。

「来れば分かる」

「行った後で、騙されたって分かったらどうするの」

 そっけない物言いのベヘモドに、カーラが食ってかかった。

「そんなにイマーゴが好きなら、勝手にしろ」

「違う。わたしはそんなことを言ってるんじゃない」

「あなた達は、イマーゴやナハル・ニヴと対立しているんでしょう。詰まるところ、殺し合っているわけですよね」

 ミカはネブラへの疑問を呈した。突然、聞いたことがない組織の者が手を差し伸べて来ても、手放しで喜べない。

「その通りね。傍から見れば、共食いをしているだけと言えなくもない。けどね、私達は、彼らのように人間を含めた色々な種族を陰で支配したりはしないわ。それを止めるのが目的なの。無論、一から十まできれいごとは言っていられない。はかりごとだってする。だから、一点の曇りがない組織ではないわね」

「わたし達のような子も、戦っているの?」

「戦う意志のある子に限ってはね。彼らは、自ら手を挙げたのだから、利用されているわけではないわ」

「……」

 上目遣いでフェイレを見るカーラに、ミカは心の揺れを読み取る。

「出逢ったばかりの人を信じろというのも、都合が良すぎるわね。もっと時間をかけて、私達を知ってもらえればいいのだけど……」

 フェイレは頬に手を当てて眉を下げた。

 ミカも、この不思議な雰囲気の女性を信じたかった。だが、簡単に他人を信じていいのかどうか計りかねていた。

「助けたい、というのは事実だが、別にこちらが頭を下げて来てください、と頼んでいるわけではない」

「ベー、そんな言い方は良くないわ」

「救いを求める者には手を差し伸べるが、牙を剝く者には容赦しない。イマーゴの手先として、戦う意義もなく、死ぬまで飼われ続けるか、自分達を苦しめた相手に覚悟を持って立ち向かうか、選ぶのはお前達だ。ただし、来るからには組織の掟に従ってもらうし、泣き言は許さん。ついていけないと思えば、出て行くのは構わないが、後は自力で生きろ。金を払えば、抑制剤は融通してやる」

「ううん、きつい言い方だけど、つまりはそうなるかしら」

 ベヘモドの視線を受けて、フェイレは消極的な賛同した。

「あなた達は今、イマーゴ以外にも選択肢があるのだと知った。ピカピカの素敵なものではないかもしれないけれど」

「フェイレ様、そろそろ行かなくては、会合に遅れます」

 橙から紫、紫から青に変わりつつある空を見上げ、ベヘモドが言った。

「分かったわ。ベー、あれを二人にあげて頂戴」

「承知しました」

 ベヘモドは、腰のベルトに結びつけた皮袋を探った。取り出したのは、手を握れば隠れるくらいの大きさをした、丸くて硬そうな黒い塊だった。

「これをやろう」

 ベヘモドはカーラに黒い玉を手渡した。

「なにこれ?」

「私達が伝令に利用している生き物だ」

 ベヘモドが滑らかな表皮を軽くこすると、黒い玉が身動きし、背に羽根を持ち、つぶらな瞳をした、鼻面の長い動物になった。なにか用か、と問うように、首をもたげてベヘモドを見る。

「起こして済まない、まだ用はないんだ。寝ていてくれ」

 ベヘモドがそう声をかけると、再び元の玉に戻る。

「彼に用件を伝えれば、お前達がいる場所から、一番近いネブラの拠点へ向かうようにしつけてある。多少の時間はかかるだろうが、組織の者がお前達の元へ駆けつけるはずだ」 

「考えて、結論を出してね」

 フェイレは胸の前で手を振ると、客車へ戻って行った。

「お前の弓、大した威力だったぞ。気付くのが遅れていたら、死んでいた」

 ベヘモドはそう言い残して御者台へ上がると、手綱を握って発車する。

「……あの人達、信じられると思う?」

 立ち去る馬車を見送りながら、ミカが尋ねた。もしかすると、自分達はとんでもない幸運を逃してしまったのではないか、という気持ちが後から湧いて来る。今ならまだ追いつけるかもしれない。

「どうかな。本当に悪い人って、最初はすごく優しいよ。理解あるふりをして、信じさせた後に、手のひらを返して締め付けるんだ」

 カーラは黒い玉を握り締めて胸に当てた。

「あの人が言うように、考えよう」

「分かった」

 ミカは心残りはあるものの、カーラに従った。連絡ならいつでも取り合えるのだから、勢いで話に乗るよりも、賢い判断だ。

 そうこうしている間に、フェイレを乗せた馬車は夕闇に消えてしまった。

「アピスさんにどう説明しよう」

「困ったな」

 カーラに訊かれ、ミカは握り拳を口元に当てて考え込んだ。護衛に手も足も出ず、その上ネブラに勧誘されたなどと、口が裂けても言えない。

「護衛が強すぎたから逃げた、にしようか」

「格好悪いけど、それしかないか。アピスさんの情報不足も悪いんだし」

「それを認めるアピスさんではないけどね」

「仕方ない。帰ろう」

 カーラはナラの木に登ると、弓と矢を持って降りて来た。

「わたし達、世の中で何が起きてるのか、全然知らないんだね」

 すっかり暗くなり、足元もおぼつかない森をとぼとぼと歩きながら、カーラが言った。

「命令されて、殺すだけ」

「道具に知恵は要らないんだよ」

「話は後にしよう。アピスさんが待ってる」

 カーラはそう言いながら、胸元に黒い玉を隠した。森へ続く道の脇に、乗って来た幌馬車が停まっていた。


「調子はどう?」

 ミカは、ベッドに伏せるカーラの傍に立って話しかけた。

「つらい」

 カーラは仰向けで目を閉じ、絞り出すように答えた。

 二人は、任務失敗の責任を負って、自室で謹慎処分を食らった。それだけではなく、罰として日々支給される薬の量を減らされてしまったのだ。

 結果、全身の痛み、倦怠感、微熱が二人を襲った。死ぬほどではない、だが、日常生活を送るのもままならない。普段は当たり前に受け取っていた小さな錠剤が、自分達の命を繋ぐ鍵なのだと思い知る。

「いつまで続くのかな。もう三日だよ」

「分からない」

 ミカはカーラの額に当てた布を取りあげた。ベッド脇の小物入れに置いた桶に張った水に、布を浸してから絞る。彼女は自分よりも苦しそうだ。フェイレがくれた希望にすがるべきかどうか悩んでいるのも、一因かもしれなかった。

「ありがとう。ひんやりして気持ちいい」

 布を置き直すと、カーラはやつれた笑みを浮かべた。戻って来てから、ネブラの話は一度もしていない。けれども、ミカはずっと考え続けていた。結論は、まだ出なかった。

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