第1章 少年・少女編 4
殺しという名の実地訓練がない場合、ミカとカーラはアピスに剣を習うか、自主練習をする。今日は調教師殿が会議で終日不在なので、二人で稽古をすることにした。
飼育場の裏側に、円形の稽古場がある。家畜扱いされている子供達がよく使うため、地面は剥き出しで、雑草一本生えていない。
ミカは弾力性のある樹脂を厚く塗った木の棒を握ってカーラと対峙した。稽古用に作られたこの武具なら、加減をすれば打ち身ができるだけで、大事には至らない。
ミカは一定の距離を保ちながら、踏み込む機会を伺った。
カーラは表情一つ変えず、全身から静かな殺気を放つ。ミカが知る彼女とは、まるで別人だった。
空は雲一つなく、強い日差しが降り注ぐ。青白い肌は焼けやすいので、暑い季節は特に注意が必要だった。
先に動いたのはカーラだった。木の棒を受けたミカの腕に衝撃が走る。全く容赦がなかった。彼は歯を食いしばり、彼女の攻撃に耐えた。
ミカが攻めると、カーラはそれを尽く流して、自分が有利な方向へ変えてしまう。まるで水のようだ。
息が上がり、ミカが木の棒を握る力が弱まる。間髪を置かず強い一撃が入り、木の棒がくるくると回転しながら宙を舞う。
「はい、おしまい」
カーラはミカの喉元に木の棒を突きつけると、にこやかに言った。
「ああ、もう」
ミカはその場に仰向けで倒れ込んだ。まるきり歯が立たない。アピスと打ち合っている方が、余程手応えがある。実地訓練という名の殺しは嫌いだが、カーラとの稽古は楽しい。だが、ただの一度として、勝てたためしがなかった。
アピスもカーラの才能を評価している。嫉妬心、劣等感、そして強い憧憬。自分にもささやかながら矜恃はある。この複雑な感情は、決して本人に知られたくなかった。
「ミカ、強くなってるよ」
「そうかな」
実感はなかった。カーラにはいつでも、軽くあしらわれている気がする。
「打ち合う時間が長くなってるでしょ」
「手加減してくれてるからだよ」
「ひねくれたこと言わない」
カーラは木の棒の先で膨れっ面をするミカの頬を突いた。
「わたしの言うことが信じられない?」
「信じるよ」
「信じてる顔じゃないんですけど」
「ぼくは、どこがだめなのかな」
ううん、とカーラは腕を組んで考えてから、口を開いた。
「ミカはね、表情が分かりやすすぎるよ。もう限界、っていうのがすぐに出るもん。そうなったら、ねじ伏せ時だって思う」
「そうなの?」
なるほど、見計ったように強烈な一撃が見舞われるわけだ。
「わたしは無駄に力を使う余裕がないから、しっかり見てるんだ」
そう言って、カーラは自分の目を指差した。
「一撃一撃を大切にしてる、でしょ」
悔しいが、何をしても掌で遊ばれる。
「分かってるじゃない」
ミカはカーラが差し出す手を取って立ち上がった。
「もう少し、やる?」
「今日は……いや、やろう」
ミカは体に付いた土を払った。カーラに勝つための秘策は以前から考えている。それを試してみたかった。彼女は目がいい。相手の微妙な体の動きから先を読み、自分の有利な状況へ持ち込む。ならば、読みを誤らせてはどうだろうか。
カーラと打ち合いながら、ミカはここで決めるぞ、と仕掛けるふりをした。彼女が乗ってきたら、そこで返して渾身の一撃を決める。
そのはずだった。
なのに、いつの間にか、ミカの木剣は手から無くなっていた。
「ミカ、何かしようとしたよね。何かした、かな」
カーラは意外そうに言った。
「……何も」
ミカは目を逸らした。温めていた思いつきを試して見事に外したなどとは、恥ずかしくて言えない。
「嘘。わたし、一瞬驚いたもん」
「一瞬かあ」
たとえほんのわずかでも、格上を揺るがせたのなら、喜ぶべきだろうか。
「どういう手を使ったの」
「言わない」
「けち。言いなさいよ」
「言ったら、二度と通用しなくなりそうだもの」
「そんなにしょぼい技なら、最初から使い物にならないじゃない」
「しょぼくないよ」
「だったら、言いなさいよ」
うう、とミカは呻いた。口では叶わない。
「意識外し」
「なにそれ」
「カーラは先読みするのが上手いでしょ。それを逆手に取ろうとしたわけ。うまくいかなかったけどね」
「わたしを計算ずくで誘導しようとしたってこと? そう……」
カーラは先程の手合わせを思い出しているのだろう、虚空を見上げた。
「ミカも色々考えてるんだ」
見直した、というふうなカーラの表情に、ミカは少し照れる。
「それで、どうして失敗したか考えた?」
「え? それは、カーラが強いからでしょ」
「自分のものにしたいなら、しっかり考えた方がいいよ」
「カーラはどう思うの」
「わたしが全部答えたら、ミカのためにならないじゃない」
着眼点は悪くない、ということだろうか。ミカは改めて考え直す。
「ぎこちなかった、かな」
「近い、もう少し」
「わざとらしい」
「似たようなものだね。なにかしようとする匂いがした。ここに餌を巻いたよ、って。もっと自然にやらなきゃ」
「意識しすぎたのか」
敗因がようやく分かった。自分の考えばかり気にして、肝心の罠にかける相手を置き去りにしていた。それでは、悟られて当然だった。
「それ、面白いと思うよ」
「本当に?」
「うん。わたしは攻略法を考えようかな」
カーラは背中に手を回して体を傾け、上目遣いにミカを見た。
「恐いな」
今度は、自分が同じ手でやられるのではないだろうか。ミカは、手の内を晒したことを軽く後悔した。
「ね、久しぶりに探検しようか」
「もう疲れたよ」
唐突なカーラの提案に、ミカはあまり乗り気ではなかった。
「今日は二度と戻らないんだよ。何か新しい発見をしたいと思わないの」
「大体、調べ尽くしたじゃないか」
飼育場の見取り図を書け、と言われれば書けるくらい知っている。
「まだだよ。本棟の地下は見てない」
「西棟みたいに物置じゃないの」
「行ってもないのに語らない」
カーラはミカの脇腹をつねった。
「分かった、付き合うよ」
荒んだ空気に満ちた飼育場で、二人のように無邪気な気持ちを持ち続けるのは難しい。訓練を積み重ねた子供は大概、無感動で人形のようになるか、反対に自分の感情を制御するのが難しく、暴力的になる。
アピスが二人を扱いやすくて助かる、と常々口にするのも当然だった。かつてハズレを引いたと本人達の前で愚痴った過去は、既に忘れているらしい。
飼育場にいる魔物達は、家畜の動向には基本無関心なので、二人がなにをしようと、咎められなかった。ミカは当初寛大なのかと思ったが、放っておいても、問題ないからだと気が付いた。
なぜならば、自分達は魔物の血を抑制する薬無くしては生きていけない。逃げ出すなど不可能だ。だから、どうでもいいのだ。
その上、監視として配備されている魔物達は、強力な者ばかりだ。全身が石でできた、分厚い体を持つゴーレム、巨漢の人食い鬼のオーガー、蛇の尾と山羊の頭を背中に付けた獅子のキメラ。彼らに抵抗するのは、無謀を通り越して自殺行為だった。
二人は、本棟の隅にある地下へと続く石の階段を降りた。地下は湿っぽく、明かりはなかった。もっとも、二人は魔物の血の影響で、暗闇の中でも不自由なく物が見えた。
カーラは通路の左側に並ぶ部屋を、一つ一つ調べていった。蝶番が錆びているのだろう、木でできた扉を開ける度に、耳障りな音を立てた。ミカの想像どおり、中には樽や木箱が雑然と並んでいるだけで、取り立てて興味のわくものはない。
「何もないね」
「うん、つまらない。あれ?」
ミカの耳に、水音が聞こえてきた。中に入ると、他の部屋の壁に当たる部分がなく、代わりに錠が掛かった鉄格子があった。その向こうは水路で、岸辺には小舟が一艘係留され、流れに任せてゆらゆらと揺れている。
「外に通じてるのかな」
部屋に入ったカーラは鉄格子を握り締め、水が流れる方向を見つめた。
「多分ね」
隣に並んだミカには、カーラの考えが読み取れた。気持ちは同じだからだ。
「遠いね」
ミカはカーラの言葉に、ずしりと重みを感じた。
「ぼく達、毎日、薬を飲まないと生きていけないものね」
「それだけじゃないよ」
鉄格子から手を離すと、カーラは肩を落とした。
「この手はもう、血まみれだもの」
「……」
ミカは、慰めの言葉が見当たらなかった。カーラは体調を崩す頻度が増えている。それは、殺しへの葛藤のせいだろう。
「ぼく達にできるのは、ここで生きるか、生きるのを諦めるかの二つに一つだよ」
「嫌な選択肢しかないね」
「もう帰ろうか」
ミカはカーラの手を引いた。中途半端な希望は、何も知らないよりも残酷だった。
「あんまり、面白くなかった」
カーラは普段の明るさを取り戻すと、ミカの手を握りしめた。
「逃げられたとしても、お仕事を探して、住む場所を探さなきゃいけないんだよね」
「ぼく達を受け入れてくれるところなんて、あるのかな」
特異な外見と、魔物の血を抑える薬を手放せない体。そして、イマーゴに所属していた過去。外は外で苦労が多そうだ。
「ご飯食べて、寝よう」
「そうしよう」
ミカもカーラに同意した。
後日、ミカはアピスに本棟の地下にある水路について、さりげなく尋ねた。
「地下の水路? ああ、ありますね。どうして知っているんです」
「他の人が話しているのを聞いたんです」
ミカはさらりと嘘を吐いた。アピスに勘ぐられたくないからだ。
「あれはですね、元は川から物資を搬入するために使用していたようですけど、私達は、死んだ子供を流す用に使っていました。あんまりにも数が多いので、下流の村人から領主へ苦情がいってしまい、止めざるをえなくなったんです。仕方がないので、穴を掘って埋めていたのですが、面倒な上に、臭いが地中から漂ってくるので、今は人間に引き取ってもらっています。結構、お金がかかるんですよ。魚の餌にしたほうが、循環していいと思うんですけどね」
「……」
知らなかったとはいえ、とんでもない場所へ足を踏み入れてしまった。
相変わらず、血は継続的に飲まされた。調整も後半になると、強力な魔物の血を使用するため、かつてと違い少量ずつになる。
この段階で、もはや血を受け付ける限界に達した子供が出始める。そういった子供は、代理人候補として不適格の烙印を押されて降ろされてしまう。以後は人間相手の暗殺に従事するか、イマーゴと提携する人間の犯罪組織へ、護衛として貸し出された。
ミカとカーラは幸か不幸か、魔物の血を受け入れ続けた。体調が元に戻るまで時間がかかるようになり、その分苦しんだ。
薬を飲むのは毎日、それも、朝、昼、晩に一錠ずつになった。必要なのはミカ自身が分かっていた。薬を飲まないと、心がざわつき、体が火照ってくるのだ。更に時間を置くと気分が悪くなり、めまいがしてくる。
カーラは体調を戻すのに、更に時間がかかるようになった。それでも生かされていたのは、アピスの根回しと、彼女の才能がなせる技だった。どれだけ時間が空こうと、復帰すれば、正確さと圧倒的な強さで仕事を完遂するため、目こぼしを受けていたのだ。
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