第1章 少年・少女編 2

 ミカとカーラは一緒の部屋を与えられた。ベッドと身の回りの物を入れる櫃、それに小物入れがあるだけの簡素さだが、室内は清潔に保たれていた。待遇の変わり様に、二人共驚く。

 今後の行方は不安だったが、ミカは気の合う仲間が身近にいるのが嬉しかった。

「明日から実戦訓練だってね」

 ミカはベッドに寝転びながら、通路を挟んだ反対側のベッドに腰掛けるカーラへ話しかけた。

「実戦訓練って、人を殺すのかな」

「まさか」

「だって、わたし達、そのために生かされてるんでしょ」

「そうだけど……」

 ミカは自分の手の平を見つめた。自分が人を殺す? 想像が付かない。

「わたし、やだな」

「ぼくも」

「だけど、やらないとだめなんだよね」

 カーラはブーツの爪先を見つめた。

「他にお仕事ないのかな。わたし、殺し以外なら、雑用でもなんでもするよ」

 腹を括るしかない。とミカは思うが、それも言葉だけの決意に過ぎなかった。実際に手を下さなければいけない状況に直面したら、自分は耐えられるだろうか。


「さて、今日から訓練です。まず手始めに、狩りをしましょう。兎、鹿、狼、熊、森の動物達で腕を磨きます。捕獲した獲物は、料理長のスース君に渡すのが決まりです。少しくらいなら、その場で食べても構いませんよ。皮は業者に売りますから、なるべくきれいに殺してくださいね」

 アピスは噴水のある中庭で、ミカとカーラに訓示を垂れた。

 ミカがカーラを横目で見ると、安堵の表情を浮かべていた。多分、自分もだ。

 出かける前に、アピスは二人へ剣と弓、それに矢筒を渡した。ミカは刃物といえば、ナイフくらいしか使ったことがなかった。弓に至っては初めてだ。

「慣れですよ、慣れ。使いながら学ぶのが一番効率がいい」

 ミカの不安を表情から読み取ったのか、アピスがそう答えた。

 アピスは二人を伴って飼育場を出ると、街道へ続く一本道を逸れ、森へと分け入った。降り積もる赤や黄色の落ち葉を踏みしめて進んで行く。

「このまま逃げよう、なんて思ってはいけませんよ。すぐに捕まえてしまいますからね。お仕置きは厳しいですから、やるなら相応の覚悟をしてください」

 アピスは前方を向いたまま、冗談めかして言った。魔物の血で強化された人間の調教師をするのだから、それなりの実力を備えているのだろう。ミカは不用意に彼に抵抗するまいと誓った。少なくとも、今は。

 アピスは不意に足を止め、身を低くした。

「見なさい。兎です」

 ミカはアピス指し示す先へ目を凝らした。遥か遠くに茶色い毛並みの兎がいた。鼻をひくつかせて、後足立ちをしている。

「ミカ君から、やってみなさい」

「この距離からですか。もっと近づいた方が確実だと思いますけど」

「自分の力を知るにはいい機会です」

 ミカはアピスに教わりながら矢をつがえ、弓を引き絞った。狙いを定めて手を離すと、弦がしなり、矢が飛んで行く。矢はわずかに逸れ、兎の背をかすめて地面に深々と突き刺さる。

「外れちゃったね」

 カーラがそう言うのと同時に、兎がゆっくり倒れた。

「あれ、なんで?」

 ミカはカーラを伴って様子を見に行った。そして息を呑む。なんと、兎の背がえぐられていたのだ。

「分かりましたか。今の君は、人間の大人など比べものにならない程の力を有しているのですよ」

 後からやってきたアピスは、息絶えた兎の後足を掴むと、目の高さへ持ち上げた。

「ふむ、皮は安く買い叩かれそうですね」

 そう言うと、アピスはミカへ兎を手渡した。

「次はカーラさんですよ」

「うん……」

 カーラは乗り気ではなさそうだった。

「なに、野生の獣など、恐くはありません」

 恐れているのは動物ではなく、自分の力の方だ。ミカはそう感じた。

 何も現れなければよかったかもしれないが、しばらく森を進むうち、ミカ達は見事な角を生やした雄鹿が、もみの木の皮を食んでいるところに出くわした。

「あなたはナイフを使ってみましょうか。まずは、そっと近寄りなさい。そして、一気に距離を詰めて仕留める。いいですね」

 アピスに背を押されたカーラは、最初は躊躇いがちに、途中から意を決したらしく地を蹴り、風のように走り始めた。

 雄鹿がカーラに気付き、彼女へ背を向けようとした時には、刃が雄鹿の喉をかき切っていた。力の加減が分からなかったのだろう、倒れた雄鹿の首は骨を断ち、皮一枚で繋がっていた。

「どうです。大したものでしょう」

「……」

 カーラは血に濡れたナイフを手にわなないていたが、やがてその場に手を付いて吐いてしまった。

「最初はそういうものですよ」

 アピスは繋がっていた皮を手で切り離し、首から血が滴る雄鹿の角を持ち、もう片方の手で、前足の片方を持ち上げた。

「初日はこの程度にしますか。今晩は兎と鹿肉のシチューですかね。焼いてもらうのも悪くありません」

 ミカはなおもえずいているカーラの背をさすった。これが、魔物の力。ミカは、自分自身に恐れを抱いた。

「ああ、そうそう、血はこれからも飲んでもらいますよ。これまで以上に強い種族のものをね」

 アピスは雄鹿を引き摺りながら振り返ると、当然のように言った。

「あれで終わりじゃないんですか」

「甘いですね、ミカ君。まだまだですよ」

 アピスはからかうように、雄鹿の首を掲げて振って見せた。血の滴が、地面に降り積もった枯れ葉に飛び散る。

「イマーゴの代理になるには、その程度では足りません。もちろん、血が体に馴染むまでの間、訓練はお休みにしてあげますよ。よかったですね」

「そんな……」

「あなた達の体は血に慣れてきているはず。これまでほど、苦しくはないと思いますよ。もっとも、私自身の体験ではなく、他の子供達から聞いた話に過ぎませんから、保証はできませんが。さあ、いつまでうずくまっているつもりですか。帰りますよ」

 背中を向けて立ち去るアピスを、ミカは見送った。

「カーラ、行こう」

「ミカ、わたし、無理だよ」

 カーラはミカの腕を握りしめた。

「それは、ぼく達が判断できることじゃないんだ。拒否したら殺されちゃうよ。さあ、立って」

 カーラは涙ぐみながら立ち上がった。

「これからも、続くの?」

「続くんだ」

 ミカはカーラの肩を抱きながら歩き出した。


 狩りをする日々は一月ほど続いた。その間、魔物の血を二度飲まされて中断した。兎、穴熊、鹿、狼、様々な獣を屠ったが、ミカには正直物足りなかった。彼の力では、狼すら相手ではなかったからだ。認めたくはないが、慣れというアピスの言葉は本当だった。初めこそ気持ち悪かったが、次第にその感覚も薄れた。カーラは時々体調を崩すものの、最初の頃よりは慣れてきていた。

「そろそろ、兎や鹿は飽きたでしょう。今日は熊を狙いましょうか」

 ある日、飼育場の外に出たアピスがさらりと言った。

「熊、ですか」

 ミカは急に難しい課題を突きつけられ、内心尻込みした。

「熊です。昨日、スース君が飼育場の裏手へ生ゴミを捨てに行ったら、出くわしたそうです。美味しい匂いに釣られたんですかね。それとも、彼自身が美味しそうだったのか。ふはは」

 アピスの冗談を笑える余裕は、ミカにはなかった。カーラも押し黙っている。

「動物は味をしめたら、必ずまた現れます。三人で手分けして探しましょう。今回は、共闘して構いませんよ。ただし、弓で始末してはつまらないので、剣だけです。なるべく、毛皮は傷付けずに。内臓も薬として重宝しますから、腹部はあまり傷つけないで欲しいですね」

 はらはらと落ち葉が舞う森を歩きながら、ミカは熊と遭わないよう願った。反面、力を試したいという欲求もある。この葛藤も、アピスの計算通りなのだろうか。

「わたし、不安だよ」

 カーラは、腰に下げた剣の柄を両手で握り締めた。

「ぼくもだ」

 ミカは、せわしなく辺りを見回した。

「だいじょうぶですよ、あなた達は力だけでなく、耐久力も強化されています。熊ごときに殴られても、すぐに回復します」

 アピスは気楽に言いながら、額に手を当てて熊を探した。

「ふん、ケダモノ臭いですね。あちらかな」

 ひとりごちながら、アピスは足を速めた。二人は後に続く。果たして、そこに熊はいた。もみの木の根にある、赤い茸を食らっている。毛並みは焦げ茶色で、体長は二人を合わせたよりも高い。冬眠前で脂肪を蓄えているせいか、丸々としていた。

「おお、いたいた。なんだ、スース君の報告よりも小さいじゃないですか。彼、熊が後脚立ちしたら空が陰った、なんて大嘘吐いてたんですよ。それくらいなら、あなた達にちょうどいいと思ったんですけどね。ともあれ、出番です。やっちゃってください。どうしたんですか、ほら」

 アピスは愕然とする二人の背中を叩いた。

「行こう」

 気を取り直したミカは剣を抜くと、走り出した。余計な考えは動きを鈍らせてしまうので、目的達成に専念する。

 カーラも悲壮感を漂わせながら、ミカの後に続いた。

 二人に気付いた熊は、一旦は逃走しようとしたものの、無理だと判断したらしく向き直った。唸り声を上げて威嚇し、近づけさせまいとする。

「カーラは後ろへ回って」

 ミカは熊と正面から向き合いながら言った。間近で見ると更に大きい。彼は突進してくる熊を横っ飛びでかわし、剣を腰だめにして、脇腹へ突き刺した。刃は厚い脂肪にずぶずぶとめり込み、根元まで入る。

 熊は痛みで吠えながら体を捻り、前脚でミカの胴を薙ぎ払った。彼は宙を舞い、もみの木の幹に当たって地面に倒れた。

「ミカ!」

 カーラは跳躍し、なおもミカを襲おうとする熊の背に剣を突き立てた。熊は後脚立ちをし、体を激しく振った。彼女は素早く剣を抜き、今度は後脚を切りつける。

 均衡を崩した熊は仰向けに倒れた。カーラは熊の胸に飛び乗ると、動かなくなるまで繰り返し、剣を突き刺した。

「ミカ!」

 痙攣する熊から降りると、カーラはミカへ駆け寄った。抱き起こして揺するものの、頭が力なく左右に振れるだけだった。

「ミカ!」 

 カーラの声に、ミカの意識がゆっくりと戻る。彼女の涙が、彼の顔に当たって弾ける。

「だいじょうぶ?」

「うん。ちょっと意識が飛んじゃったけど、だいじょうぶ」

 木に激突した衝撃のせいで、まだ背中が痛む。殴られ、爪で抉られた部分は既に血が止まり始めていた。再生の速さには、我ながら目を見張る。

「よかった。死んじゃったかと思った」

 カーラはミカを抱きしめた。

「カーラは怪我しなかった?」

「わたしはなんともない」

「良かった」

 ミカはカーラの背に手を回した。

「ご苦労様でした」

 アピスが手を叩きながら、二人の元へ近づいてきた。

「熊程度、もっと効率良く、短時間で倒せないとだめですよ。力に頼って、やみくもに剣を振り回すのはいただけません。そのせいで、毛皮も内臓も状態が悪くなってしまいましたから、及第点は与えられませんね」

「初めてだもの。仕方ないよ」

「カーラさん、これが実際の戦いだったら、そんな言い訳ができますか? 初めてだから、相手が加減をしてくれますか? 冷静に相手を観察し、的確な攻撃をし、確実に息の根を止める。それが肝心なのです。半端な攻撃はかえって相手を興奮させて、面倒な事態を引き起こす場合があります。分かりましたか?」

「はい……」

「お説教はお終いです。念のため、ミカ君を救護室で診てもらいなさい。カーラさんは、返り血塗れで生臭いので、体を洗うこと」

 ミカを背負って飼育場へ戻るカーラを見守りながら、アピスは顎に手を当てた。

「案外、掘り出し物だったでしょうか」


 翌日は、アピスが二人の部屋へやってきた。手には水差しを持っている。

「さあ、血を飲みましょう。どちらからにします?」

「わたし」

 カーラが進み出て口を開けると、アピスが黒い液体を注ぎ込む。

 ミカはうずくまるカーラを抱き上げて、ベッドへ横たえた。

「お次はミカ君ですよ。どうぞ」

 ミカも大人しく従う。相変わらず、飲んだ瞬間から体が焼けるようだ。

「食事とお薬は持ってきますから、ご安心を」

 アピスは役目を終えると、床で膝をつくミカを放っていなくなった。

 ミカは、自力でベッドに横たわった。これで何度目か覚えていないが、以前より楽になった気は、まるでしなかった。

「このまま死んだら、二度と苦しまずに済むね」

「だけど、残念な気がする」

 ミカの呟きに、カーラが絞り出すように答えた。

「残念?」 

 ミカは、カーラの方へ体を傾けた。

「だって、いいように利用されて死んじゃうんだよ。つまんないじゃない」

「確かに嫌かも」

「でしょ」

「ね、カーラは、叶えたい夢ってある?」

「さあ、考えもしなかったな」

 カーラはぼんやりとした目で天井を仰ぎながら、返事をした。

「親と暮らしてた時も、姉さんに引き取られた後も、雑用を押しつけられてばっかりで、終わったら寝るだけだったから。ミカは?」

「帰る場所が欲しい。それと、ちゃんとした食事が毎日できたらいいな」

「すごい贅沢」

「贅沢かな」

「今、思い付いた。わたし、どこかへ行きたい」

 カーラは開け放った窓へ手を伸ばした。その先には澄んだ青空と、羽根を広げて悠々と飛ぶ鳶がいた。

「でも、無理だろうね」

「諦めちゃだめだよ」

「そうだ、魔物より強くなって、あいつらを倒すっていうのはどう?」

「いいね」

 冗談めかした提案に、ミカは同意した。

「取り敢えず、寝よう。苦しい」

 カーラはそう言うと、体を丸めて目を閉じた。 


「さて、狩りの時間ですよ。弓は要りません。ナイフだけで結構」

 朝食を終え、部屋で準備をしていたミカとカーラの前に現れたアピスが、そう言った。

 今日はすることが違う。ミカはすぐに察した。緊張を強いる生活環境に置かれていれば、ちょっとした変化にも敏感になる。カーラと視線を合わせると、不安を隠せない様子だった。

 アピスは鼻歌まじりに飼育場を出た。これまでのように獲物を探すのではなく、目的があるようにせかせかと森を歩き、飼育場の裏手へと回り込む。

「隠れなさい」

 アピスは二人に指示し、自らも木陰に身を潜めた。そして、森の奥を指し示す。

 そこには、緑色の頭巾を被った地味な姿の男が木陰から飼育場を伺い、手元の羊皮紙に何かを書き込んでいる。広く見渡せば、他にも二人男がいて、同じことをしていた。

「あれは?」

「見ての通り人間です。ここ数日、飼育場の周辺を偵察しているのですよ。調べたところ、ナハル・ニヴと関わりがあると分かりました」

「どうして飼育場を探っているの」

 カーラが疑問を呈すると、アピスは残念そうに首を振った。

「彼らは汚いので、陰では飼育場を潰したり、地域の責任者の任期が終わるのを待たずに暗殺したり、やりたい放題なのです」

「分かった、あの人達を捕まえればいいんだね」

 カーラは先読みして言った。表情に焦りが浮かんでいる。

「外れです」

 アピスは立てた指を振った。

「捕まえて痛めつけても、大した意味はありません。こちらは、お前達の動きなど察知済みである、と知らしめるのです。そうすれば、警戒して手出しをしなくなります」 

「その……まさか、ぼく達が、あの人を……?」

 ミカは上擦った声で尋ねた。動物はもう慣れた。けど、人となると話は別だ。

「当然。ケダモノ共に比べたら歯応えがない、実につまらない輩ですが、手始めにはちょうどいい。やりなさい」

「できません」

「ミカ君、私は最初に言いましたよね。でも、だって、嫌だ、できないは許さないと」

「だって、人ですよ」

 言った瞬間、ミカはアピスにしたたかに頬を叩かれ、地面に倒れた。爪が彼の頬を切り裂き、血が滲む。

「言い訳は許さないと言ったばかりでしょう。これは仕事なのです。魚を獲る、木を切ると同じです。漁師がお魚さん可哀想と思いますか? 木こりが木さんに斧を打ち込むなんて残酷だと涙しますか? しません。ただの仕事です」

「ぼくも人です」

「だからなんです? ケダモノだって、姿は違えど同じ生き物でしょうに。奴らは平然と殺すのに、人間は躊躇する。それはおかしい。所詮は狩りの対象。四本脚か、二本脚かの差でしかありません」

 アピスはしゃがみ込むと、ミカに顔を近づけた。

「くどいようですが、慣れですよ、慣れ。最初は罪悪感に苦しむかもしれませんが、そのうち、なんとも思わなくなります。淡々とこなして、帰って、食事をして、寝床に入る。きっと、そうなります」

「ぼくには、想像できません」

「調教師の楽しみは、あなた達家畜の変化を実感することです。苦労は、変化を厭い抵抗する家畜を従わせることです。それもまあ、一種の楽しみだと称する者もいますが」

 傍で聞いていたカーラが青ざめた顔で、ぶるぶると震えた。 

「ケダモノを狩るのは、ただのお遊びに過ぎません。これからが本番です」

 アピスはミカの襟首を掴んで立たせると、男達の方へ向かせて、背中を突いた。

「偵察者は、視界にいるのが三人。もう一人、どこかにいるはずです。差し当たって、あなたは三人を殺しなさい」

「ぼく……」

「できませんか」

 アピスはカーラへ近づき、腕を掴んで羽交い締めにすると、尖った指先を彼女の喉元へ押し当てた。

「やめて下さい!」

「この子の命運は、あなた次第です」

「ミカ、できなくても、わたし、恨まないよ」

 カーラは勇敢にもそう言ってのけたが、歯の根が合っていなかった。

「素晴らしい。そうしますか」

 アピスが指に力を加えた。カーラの皮膚が破れ、赤い血が溢れ出した。

「分かりました。だから、もうカーラを傷つけないでください」

 ミカは握り拳を作り、唇を噛んでうつむいた。いつかこの日が来るとは思っていたが、実際に直面すると、これほど苦しいのか。自分の力がどの程度か試したい、などという感情は、吹き飛んでいた。

「よろしい。身を隠しながら慎重に近づいて、一撃で仕留めなさい。他の者に悟られてはいけませんよ。逃げられたら、追うのが面倒ですからね。カーラさんは、ミカ君から目を逸らしてはいけませんよ。彼が人殺しに変わる瞬間を、見届けるのです」

 ミカは意を決し、身を低くして走り出した。幸い風が強いため、足音を消してくれる。

 一番近くにいた男は、近づきざま首に腕を回して骨を折った。命を絶った時、彼の中でなにかが終わった。

 ミカは、男を他の者達の視界に入らないよう木陰に隠し、二人目に近づいた。二人目は、彼の存在に気付いたものの、声を上げる前に喉を切った。

 そして、少し離れた場所にいた三人目は、ミカに気が付き、背を向けて走り出した。彼は後を追いかけた。距離はすぐに縮まる。

 追い詰められた男は振り返ると、腰に下げた剣を抜いて切りかかってきた。

 ミカは男の攻撃をかわすと、ナイフを腹に突き立てた。男の手からぽろりと剣が落ちる。しかし、最後の抵抗で掴みかかってきた。

 恐怖を感じたミカは、男が絶命するまで繰り返し刺した。

 足元に転がる死体を見下ろしながら、ミカは肩で息をした。興奮と、罪の意識と、気分の悪さがないまぜになり、頭が混乱していた。

「勘付かれたのと、一撃で仕留められなかったのは減点です。ですが最初ですから、大目に見て及第としましょう」

 アピスはカーラを引きずりながらやって来て言った。ミカの耳にはほとんど入らない。

「残る一人は、カーラさんにやってもらいましょうか」

「わたし……?」

「ミカ君はめでたく一線を越えました。あなたも続きなさい」

「アピスさん、ぼくが、ぼくがやります」

 我に返ったミカが、アピスに願い出た。

「あなたはもう結構ですよ。殺す以前と、以後とでは、気持ちが違うでしょう。もう、騒いだり、泣き言を垂れたりしないと分かっています。後は感情が動かなくなるまで、繰り返すだけです」

 蜂の顔をした魔物に表情はないが、あればきっと薄笑いを浮かべているだろう。

「さて、残りはどこでしょうか。ああ、いましたよ。ほら、向こうです」

 カーラは掴まれていた手首を振り払って逃れると、彼の横っ面を蹴り飛ばした。

「驚きました。ですが、相手が違いますよ」

 頬をさすりながら、アピスはいつも通りの口調で言うと、次の瞬間にカーラの喉を掴んで高く持ち上げた。

「聞き分けがありませんね。あなたは、潜在的な能力が高いように感じる。だが、精神面が弱いという欠点がある。さあ、駄々をこねていないでやるのです。さっきとは逆に、ミカ君を人質にしますよ。どうですか」

「アピスさん、やめて下さい」

 ミカはアピスにすがりつこうとした。

「動いてはいけませんよ、ミカ君。カーラさんの首をポキリと折られたくなかったらね。さあ、どうするのです」

「……やります」

「いい子です」

 アピスはそう言ってカーラを地面に落とした。

「では行きなさい。素早く、正確に、ですよ。無駄な動作は、相手に隙を与える。それは死に直結します」

 腹這いになり咳き込むカーラへ、アピスは滔々と語った。

 よろめきながら立ち上がったカーラは、まなじりを決し、地面がえぐれるほど踏み込んで、四人目の男の元へ向かった。

「今日はいい日です。二人の成長が見られたのですから」 

 アピスは満足げに首を縦に振りながら、カーラの後をゆったりと追った。ミカはぼんやりとそれを見送っていたが、自分も彼に続いた。

 ミカが追いついた時、カーラはこちらへ背中を向けて立っていた。足元には仰向けに横たわり、胸から血を流して息絶えた男がいる。

「心臓を一突きですか。やりますね」

 追いついたアピスは、前屈みになって死体を検分した。

「今日はこれまでにしましょうか。お疲れ様でした。死体はそのままでいいですよ。ケダモノ共が美味しくいただくでしょうから。そして、ケダモノ共はいずれ私達の食卓に上がる。素敵な循環ですね」

 アピスは悪趣味な戯言を残して立ち去った。

「カーラ」

 ミカはカーラの顔を覗き込んだ。彼女は死体を見下ろしながら放心していた。掛ける言葉が見当たらず、彼は、血に濡れたナイフを手から抜き取った。

「ミカ……」

 カーラはミカの首に腕を巻き付け、すすり泣き始めた。

 これからもずっと、ぼく達は傷付き続けるのだろうか。ミカはカーラをあやしながら、どんよりとした空を見上げた。

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