キマイラ




 唖然と、彼女と視線が交錯する。

 ボクの頭の中はまるで凍結してしまったかのように何も働かない。


 どうして。なんで。

 ──様々な疑問と困惑が混在する中で、ドプリと音がした。

 音が生じた場所は真下だった。つまり、自分の胸元。


「──え?」


 どこか現実感がない。

 呆けたような顔だと思う。ボクは、恐る恐る視線を下げる。


 白くて細長い彼女の腕が、ボクの胸を穿っている。手品なんかじゃないのは見て感じて理解した。

 右腕の、肘に近い辺りまで、彼女の腕がボクの胸に埋まっていた。


「鈍いなあ、気付いたなら、さっさと逃げなきゃ・・・。ま、俺様がそんな隙を作らせた訳なんだが」


 アハハハハ!と、狂ったような笑い声が遠くに聞こえる。

 

「あ・・・ああッ」


「アハハハハ!!──なんだ、キマイラに会うのは初めてか?まぁ見るからに初心者の冒険者、といった風情だものなァ」


 ニヤニヤと笑みを浮かべる女の子が、変わらず可愛らしい声音で、けれど凄惨な言葉を投げてくる。ボクは、その間も無様に喉を振るわせるだけだった。


「まぁ、こんな見え見えのトラップに引っかかってくれた感謝も込めて教えてやろう。キマイラは、喰った相手を取り込み、模倣するのさ」


 アハハと女の子が笑う。


「だから、お前の身体を貰ってやる。──この形じゃあダンジョンの外には出られなくってなァ・・・」


「ダンジョンの、外・・・?何を、するつもりなの・・・?」


「決まってる!血を、肉を、臓物を!!この腹に収めるのだ!!」


 ペロリと、彼女の赤い舌が唇を舐めるのを見て、ボクは在らん限りの力で奥歯を噛み締める。


「そんな事、させない・・・!」


「アハハ!残念だったなァ、もうお前は詰んでるんだよ」


 淡々と、事実を伝えるように彼女は続けた。


「一つの身体に二つも魂は要らない。お前はもう用済みだ。すぐにでも魂をくってやる。まぁしばしの猶予はあるが、せいぜいそれまで、心の奥底で消える恐怖に震えるんだなァ」


 アハハハハ!と響き渡る笑い声は、この世の不吉の全てを孕んでいるかのようだった。恐ろしかった。彼女の言う事は、何一つとして嘘がない。今から死ぬボクに、嘘を言う意味がないのだから。


 ──死ぬ。

 それを理解して、ボクはようやく身を捩る。

 死にたくない。死にたくなかった。


「ッッ!い、いやだ!!」


「いただきまぁーーす」


 無慈悲にも、ボクの抵抗なんて物ともせずに彼女は満面の笑みを浮かべている。

 ボクの胸に突き刺した腕はそのまま、もう片方の手でボクの肩を抱き寄せて、彼女が口腔を大きく広げて、ボクの首筋に犬歯を突き立てて──。


「んぎゃあああああ!!」


 バチンと音が鳴りそうな勢いで彼女が弾け飛んだ。

 まるで何かが拒絶するかのような反応。

 

 死を間際にして固まっていたボクの目の前で、つい先ほどまでボクを完全に殺そうとしていた怪物が、苦しそうに地面に向かってえずいている。


「おえっ!おえーッ!」


 地面と対面している女の子を尻目に、ボクは牙を突き立てられた自分の首元を抑える。ヌルリとした手触りがあった。恐怖で痛覚が麻痺しているのか、痛みはない。でも、掌を見れば真っ赤に染まっている。


 ──吸血鬼?ボクの血を、首から吸おうとした?なんで?ううん。それより、彼女がなんで弾き飛ばされたのか、だ!


(も、もしかして土壇場でボクの秘めたる聖なる力が・・・!?)


 なんてことを考えるボクの前で、ようやくえずき終えた彼女が、強引に口元を拭いながら吠えた。


「お前!!」


 ギンと凄まじい眼光で睨みつけられて、ボクは息を呑み──。


「──そんな歳で童貞かよ!?」


「ど、どどど童貞ちゃうわ!!」


「るせえ!俺様にはわかるんだよッ!──くそッ!騙されたぜ!まさか、その歳になってまで女を知らねえチキン野郎だとは・・・・!この俺様の優れた頭脳を持ってしても予想外だったぜ・・・!」


「そんなに言うほどですかねぇ!?」


 キリリと表情を改めた彼女が、何故かボクに向けて敬意を表するようにニヤリと笑った。


「まさか、俺様の唯一無二の弱点を突かれるとはな・・・。中々やるじゃねえか、お前」


 こんな土壇場で冗談を言うとも思えないから、たぶん本気で褒めてるんだと思う。でも、だとしても。


(まっったく褒められてる気がしない・・・!いや、当たり前なんだけどさ!?童貞褒められるって何さ!?)


「だが、悪いなァ。俺様は自分の弱点を理解するからこそ、対策も用意してある・・・!」


「ッ!」


 凄まじい速さで再び駆け寄ってくる。獰猛な表情を浮かべる彼女は、もはや怪物にしか見えない。ボクは腰の剣を抜こうとして──。


(だ、だめだ!!女の子を相手に剣なんて振れない・・・!)


 迷いは一瞬だった。

 だが、それだけで戦いの趨勢すうせいは決した。


 地面に押し倒されて、砂埃が舞う。

 両手首を抑えられたまま、上に乗し掛かられたボクにもう抗う術はない。


「アハハ!抜かったな!?これでお前は逃げられまい・・・!最大のチャンスをフイにしたな!?」


「くッ!何をする気だ!?」


「ふふん、簡単な事だ。俺様はメス。お前はオスだ。そして障害はお前が童貞である事・・・!ここまで言えば、答えは明白だろう!?」


「なッ、そ、そんな!まさか・・・!」


「そうだ!お前が今!考えた通りのことだ!」


 ボクの上に乗し掛かったまま、片手でボクの両手首を掴みながら、物凄く可愛い女の子が、空いたもう片方の手でいそいそと衣服を脱ごうとしている。ボクにのしかかって、ボクの上で。


 カァっと身体中に血が巡ったのがわかった。

 ま、まずい、まずいまずいまずい。


(ぼ、ボクはコトネの事が好きなんだ!こんなところで負けるわけにはいかない・・・!)


 鋼の意志で抵抗しなければ。ここで食われてしまえば、ボクだけじゃない。他の人たちだって、それこそコトネだって犠牲になるかもしれない!


 決意を秘めて、覚悟を決めて、ボクは決心を込めて起きあがろうとして──。

 その瞬間に、ボクが動いたという反動もあってなのか、布という拘束から逃れた二つの果実が、ボクの目の前で大きく揺れた。


「ンンッ!!?」


 起き上がった身体が、反発によって元の場所に戻される。

 瞬く間に鋼は紙になった。

 地面に降り立つ衝撃を後頭部で受け止めながら、ボクは思った。


 この子になら、食べられてもいいかも──。


「──っと、人化が時間切れか」


 シュゥゥと音を立てて、彼女の身体が変化した。

 現れたのは毛むくじゃらのライオンっぽい獣の姿だった。メスなのにたてがみはある。でも、人の面影は全くない。

 純白の毛並みと碧眼は変わらないが、しかし。


 ──完全無欠の獣だった。むろん、果実など原型すらない。


「ざっけんなァ!!」


「ぐはァ!!」


「・・・はっ!つい咄嗟に・・・!」


 人の姿から獣の姿に戻った際の一瞬の隙を突いて、世界を狙えるであろう渾身の右アッパーが決まった。

 その結果として盛大に仰向けに倒れ込んだ女の子──、もといライオンの姿を見て、ボクが考えるのは一つだけだ。


 もはや失われた唯一の機会。

 血涙を流さんばかりに炎を瞳に宿して、拳を構えて突っ込む。


「はぁああ!!」


「ぐっ!!お前、ど、どこにこんな力を・・・!?」


 ラッシュ。

 ひたすらに、命を燃やし尽くす勢いで猛烈な打撃を与える。


「これで、どうだァ!」


「ぐはァ!!」


 渾身の右ストレートが、怪物の腹部に決まった。

 だが。


「・・・ん?まるで痛くない、ぞ?」


 ポリポリとお腹を掻きながら、獣はニヤリと嗤った。


「ははぁ、さてはお前、レベルが相当低いな?」


「ッ!」


 ──レベル。

 ダンジョンの中でだけ意味のある数字。

 各種ステータスの上昇やスキルの獲得。ダンジョンを探索して魔物を倒す上で、必須とも言える数値の事だ。


 当然ながら、ダンジョンに初めて潜るボクのレベルは0。

 赤子同然である。


「ならば、この爪で切り裂いてくれるわ!!」


 ズン、と胸を貫かれた。

 それでも、諦めない。ボクはその腕を掴む。攻撃が致命傷にならない事は知っている。い、一度は諦めた命だけど、まだ抵抗の余地はある。


 ──何せ、彼女はボクを殺せないのだから。


「ま、まだまだ・・・!」


「あっ、やべ。普通に攻撃しちまったぜ」


「え?」


 ジンワリと、胸部が熱を持つのは錯覚だろうか。

 恐る恐る目線を下げれば、獣の腕が、ボクの胸を真っ赤に染めながら貫いていた。


「・・・がふッ」


 吐き出すのは、血?

 口元を拭った掌が真っ赤に染まっているのを見て、ボクは意識を途絶させた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る