第10話
それから、5年の月日が流れた。
川の氾濫の防止のためには、整備と貯水池が必要でそのためには、ユステル領の協力がどうしても必要だった。
そのため、僕は領主のメルビィを説得することにした。
メルビィとその夫のカセルは、僕の話を聞き二つ返事で了承してくれた。
しかし、条件がつけられた。
「エルビィと結婚して欲しい」
「エルビィとですか?」
メルビィの頼み事に僕は少しだけ戸惑う。
エルビィとはいい友人だとは思うが、お互いにそういった感情はない。
結婚しても悪い関係にはならないと思うが、エルビィはどう考えているのかわからない。
そもそも、エルビィと結婚してユステル領をどう管理していくのか。問題がいくつもあった。
「君なら誠実だし安心だ。リーナが何かしてきても靡いたりしないだろうし」
確かにリーナが再びエルビィの縁談話をダメにする可能性もあった。
「エルビィはそれでもいいと言っていますか?」
エルビィは恋人はいないと話していたが、それでも、どう考えているのか僕は知りたかった。
「ええ、もちろん。前の件がかなりトラウマになっているようなの。だから、むしろニコラス君が夫になってくれたらエルビィは幸せになれると思うの」
そう言われて、5年前の事が今も尾を引いているエルビィに同情した。
「エルビィさんが受けてくれるなら僕は構いません」
今は、エルビィに友人以上の気持ちを持てそうにないけれど、貴族の結婚というものはそういうものだから仕方ない。
それよりも、エルビィを不安がらせないように接しないといけない。
「ありがとう。これで安心だわ」
メルビィは両目に滲んだ涙を指で拭った。
きっと、彼女も今まで不安だったのかもしれない。
こうして、僕はエルビィと婚約することになった。
エルビィとの関係は良好だったと思う。
貴族とはいえ婚約する前に恋愛をするのは自由だ。
婚約中に肉体関係を持つ貴族も多く。たまに、婚姻をする前に妊娠してしまい。体裁を気にして「早産の子」と偽って生まれてくる子供もいる。
婚姻が前提なのだから肉体関係を持ってもいいのかもしれないが、僕は「もしも」の事があるかもしれないので、エルビィとの肉体関係は持たないようにしていた。
それがいけなかったのかもしれない。
「ニコラスは、私の事をちゃんと愛してほしいの」
エルビィはしきりにそんな事を言ってくるようになった。
「エルビィ、僕は君を大切にしたいと思っているよ」
愛しているとは言えなかった。友情の上に成り立っている関係なので、そういったものはゆっくりと育んでいけばいいと思ったから。
自分から手を繋いだり口付けをしたり、望めば行きたいところにも連れて行ったし、プレゼントも贈った。
自分なりに誠実に彼女に応えていたつもりだった。
しかし、エルビィにとっては、それでも不安だったようだ。
「ちゃんと愛されているっていう実感がわかないの。どうしても、どうしても、エドバスのことを思い出してしまって」
時折り、エルビィはそんな事を言って悲しそうな顔をした。
「リーナが怖い。また、大切な人を奪いそうで」
「エルビィ……、そうなるのは仕方ないよ。僕は君のことが好きだし、信頼してもらえるまで、ちゃんと話し合うし寄り添うつもりだよ」
その度に、僕は言葉や態度でエルビィに寄り添うように努力した。
「愛している」とは、嘘でも言えなかった。
偽りの言葉を連ねても傷ついたエルビィの心を癒すどころか、かえって傷つけると僕は思っていたのだ。
「ありがとう。ニコラス」
エルビィは、僕の言葉に寂しそうに微笑む。その度に元凶のリーナへの怒りが募っていく。
エルビィは、あの件について今も傷ついたままだった。
少しずつでもいいから凍てついた彼女の心が溶けていてばいいと思っていた。
けれど、エルビィは僕に対して不満だったようだ。
『愛されているのか実感がわかないの。考える時間をください。捜さないでください。私の代わりにリーナと結婚してください』
エルビィはそれだけ書き残して姿を消した。
僕はいつだって待つつもりだった。しかし、そうは言ってられない状況に気がつく。
……待っていたら貯水池の着工が遅れる。
エルビィとの本来の目的はそれだった。けれど、エルビィが戻ってくるまで待つしかない状況だと僕は考えた。
しかし、それを止めたのはカセルだった。
「リーナと結婚してくれないか」
「何を言っているんですか」
突然出されたリーナの名前に僕は戸惑った。
確かに契約書には、ユステル家とブック家との縁ができる事によって契約するとは記されている。
しかし、そんな事をしたらエルビィとリーナの気持ちを蔑ろにしているじゃないか。
「このままだと貯水池の着工ができない」
「ですが」
リーナと結婚したらエルビィを裏切ることになってしまう。
「両家のつながりがなければ、この工事はできないわ」
メルビィの言うことは正しい。しかし、そのためにエルビィに不信感を持たせてはいけない。
「エルビィを待ってからがいいと僕は思います」
「いいえ、リーナと結婚してください。エルビィが帰ってきた時にそれを解消すればよろしいです。それに、手紙にもそう書かれているじゃないですか」
そんな事をしたらエルビィが傷つく。それに、貯水池を作るためにした準備も8年かかったのだ。今更数ヶ月待つことくらい……。
「あの日の氾濫を忘れてはいけないわ。うちの領民も何人か被害に遭ったの」
メルビィの言葉に僕は、一番大切な事に気がつく。
そう、領民だ。
あの、氾濫はもう起こしたくない。仕方のない事ではないのだ。知識と技術さえあればそれが防げるならやるべきだ。
……両親は長く帰ってこない事を納得の上で僕を都市に出してくれた。
けれど、置き去りになったエルビィの心はどうすればいいのだろう。
「……ですが」
「もしかしたら、エルビィは試しているのかもしれません。ニコラス君がリーナと結婚してもその毒牙に打ち勝つ事を」
すとんとその言葉が腑に落ちた気がする。エルビィは、リーナのことをずっと恐れていた。
手紙にリーナの事を触れているのもきっとそうなのかもしれない。
リーナとは形式的な結婚をして、監視をつけて接触しないようにする。
何もない事を証明したら、エルビィの不安も少しは解消するかもしれない。
彼女にとって重要なのは、リーナに靡かないという事なのだろう。
リーナとの婚約はとんとん拍子ですすんだ。
久しぶりに会ったリーナは、荒んだ生活をしてきたのだろうかそれが顔に現れていた。
苛立ち混じりに嫌味を言うと、リーナも辛辣な言葉を返してくる。
僕は少しずつ腹を立てていた。
だから、僕はエドバスの事を持ち出すとリーナは意外な事を言い出す。
「初めて顔を合わせた」と、僕はそれが信じられなかった。
「……姉という婚約予定の女性がいて、14にも満たない子供に懸想するような男を素敵だと思えると思う?」
その瞬間、荒んだリーナの目に、聡明さと思慮深さを感じられる光が宿ったように見えた。
「私はあの時、13になったばかりだった!確かに身体は大きかったと思うわ。でもね、まだ釣りをしたり泥だらけになって遊ぶ事が好きな子供だった」
リーナの言う通り、彼女はあの時まだ13歳だった。
大人びて見えたけれど、まだ子供でしかなかった。
「……そうね。私はどうしようもない人間よ。産まれてきた事が間違いだったわ。両親も産んだ事を悔やんでいるでしょうね」
その自嘲は心の底から思っているように聞こえる。
あの時、僕はリーナの話をちゃんと聞いたのだろうか……?
いや、聞いていない。変わってしまったと思い込んで僕は一方的に詰め寄り逃げ出した。
思えば彼女と何年もまともに話をしていない。
「……君の話をちゃんと聞きたい」
僕は間違えてしまった。それだけは理解できた。
「私なんかのために時間を割く必要はないわ。言う通りに従うから帰ってちょうだい」
リーナの目には僕への失望が見て取れた。
きっと、彼女はもう僕に心は開かないだろう。
そんな気がした。
リーナの荒んだ雰囲気から、何かが起きそうで不安だった。
悪女の虚像 @keganiaoba
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