逃避

 夕暮れ、小田急の車内で窓の景色をぼんやりと眺める。鮮やかな紅に染まった空。星屑のような街の灯は儚い。

 列車は多摩川を越えようとしていた。多摩川はあまり好きでない。死んだ両親を思い出してしまう。



 父は可哀想な人だった。燕矢家の重圧に耐えきれなかった。自分の記憶には、父の表情は二つしか思い出せない。鬼の形相で怒っている顔と、子どものように泣いている顔。

 大学の卒業式の前日、父は夜更けに突然母とドライブに出かけ、第二京浜を多摩川大橋でトラックと正面衝突し、川へ落ちてふたりとも死んだ。



 もっといっぱい遊びたかった。家の重みが、いつも肩にのしかかる。

 電車はいつの間にか多摩川を越えていた。スマホを手に取ると、真人から連絡が来た。今日で一緒に飲むのは最後にすると書いていた。



 しばらく電車に揺られ、新宿駅に着く。二丁目の雑居ビル、地下のバーに行くとすでに真人が飲んでいた。真人はうなだれていた。

「ほら、マーくん、元気だしなって」

ママのミヤさんが太い腕で真人の肩を叩いていた。真人はずっとうなだれていた。隣にいることしかできない一緒に飲む。

 テキーラのショットを一気に煽った。もう何杯目か、わからない。

「真人、おれも、どうしたらいいかわかんない」

 滅多に吐かない本音を真人へ囁きながら抱きつく。真人が頭をガシガシ撫でられる。大きく骨が太い手。強引なやつだけど、嫌いになって別れたわけじゃない。

「もっとお前に構ってやりたかったけど、俺は凛々花と来月結婚する。ここに来るのも、最後」

 真人と別れたくなかった。真人の体温が、暖かい。真人と唇を重ねた。



 飲み終わったあと、バーの片隅で、真人はいつもは吸わないピースを口にくわえた。

「おまえ、ピースなんて吸うの」

 真人は滅多にタバコを吸わない。

「心の整理がつかねえんだよ。物心ついてから、十数年、ずっと、お前と一緒にいたのに。凛々花なんて二年前に越してきたばかり。それなのに結婚させられる」

 真人の声はかすれていて、手は震えていた。

「家の意向に逆らえないのは、燕矢も稲沢も一緒。お互い、千年続く家の跡取り。家のために生まれてきたんだ」

「ふざけんな。お前はもう親が死んだから、やろうと思えば自由に生きられるだろ。俺なんて、あと何十年生きたら、自由になれるんだよ」

 真人はタバコを灰皿に押し付けるともう一度清秋を抱いた。清秋の身体に、真人の目から雫が落ちてきた。

(バカ。弱気になってるんじゃねえよ……)

 真人を抱き返す。真人は子どものように大声で泣きはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る