羽岩神社社務所

 目を開けると神楽太鼓の横に倒れていた。いつの間にか気を失っていたようだった。

(夢だったのか……)

 唇に手をあてる。キスの感覚を鮮明に思い出して恥ずかしい。

(ルリハって言ってたな)

 装束に目をやると、いたるところが濡れている。触ると粘液がネバネバと染み出した。

 現実だったのか。ギョッとする。とりあえず、急いで洗濯しなければいけない。



 石室から出て湿った階段を昇ると、一気に視界が明るくなる。古びた拝殿の脇に出た。這い上がって、誰にも見つからないよう急いで歩く。息が弾む。粘液を吸った装束が鎧のように重い。



 境内は鬱蒼とした林に囲まれていて、外からは見えない。参拝客がいたら見つかるだろうが、早朝だから人の姿は誰一人としてみかけなかった。



 石畳の参道を歩く。脇に逸れると、木造の古い家が建っている。ここが社務所だ。

 勝手口のそばへ行って、水道の蛇口を開ける。近頃の装束は洗える化繊のものが多くなって助かる。

 装束に水をかけると大量の粘液が水に流されていって、排水溝にゆっくりと吸いこまれていった。

(うわ、めっちゃ多い……)

 急に恥ずかしくなった。



 ひとしきり洗った後、社務所に入って廊下を歩く。社務所は自宅と繋がっている。廊下の奥、家の居間からテレビの天気予報が聞こえた。おそらくヤツがすでにいる。

 ジャージに着替えたあと、居間に行くと男がテーブルで堂々とパンを食べていた。

「清秋、ようやく戻ってきたな」

 ウルフカットの黒髪。トカゲのようなミステリアスな顔。目の下には涙袋がはっきりしてる。稲沢真人いなさわまひと。幼なじみで、近所の矢折神社やおりじんじゃの神主。そして、元カレだ。



「真人、しょうがなかったんだよ。途中で転んで汚れちゃったんだよ。それと、勝手に入ってくんな」

「気をつけろよ。お前、昔から鈍臭いところあるから。あと、今日来たのはお前の手助けだ。感謝してもらいたいぐらいだ」

「わかってるよ。だけど、ウチに入るならせめてひと声かけてよ」 

 この社務所は羽岩神社と矢折神社で兼用しているが、家はさすがに俺のものだ。

「そんなことしなくていいだろ、今更。付き合ってた仲なんだし」

 真人は開き直った。ぐうの音もでない。

 真人はコーヒーを飲んで大きく息を吐いた。

「それに、俺、来月結婚するから。今だけでも自由にいさせて」

 真人の目はどこか遠くを見つめていた。

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