第1章 花屋敷の呪い児14
『でも貴方になら、名前を呼ばれてもいい。この魂を掴まれてもいい――いいえ、むしろ掴んでいて頂戴。私が貴方のもとから消えないように』
彼女は自らの真名を俺にだけ明かした後、契約を交わした。
『これから一生添い遂げる相手に、偽りの名を伝えるなんて嫌だわ』
まるで仙女のような微笑みを浮かべ、そう囁いた花猫の言葉を思い出す。
「ねえ、運んで頂戴。月鏡」
「もう休むのか? 食事は?」
「いらないわ。今は少しでも早く〝あの蠱〟に逢いたいの」
そう言うと、俺の首にスルリと腕を回してきた花猫を抱き上げる。
花猫の身体は、華奢で軽い。
毎回抱き上げる度に、そう思ってしまう。
「……ほら、着いた」
そうして花猫の寝室――寝台に辿り着くと優しく彼女を寝かせた。
袖の長い絹の衣服は、花猫が動く度にシャラリシャラリと音を立てる。
本当ならばこのまま褥を共にしたいとすら思うが、今はそれよりも先にすることがあった。
「……。持ってきたぞ」
別室に置いておいた壺。それは見紛うことなくあの『影の蛇』こと蛇蟲を封じた壺に他ならなかった。
「いいのか、開けて」
「ええ。開けて頂戴」
有無を言わさない花猫の言葉に小さく息を吐く。
このお姫様は一度言った言葉は頑として曲げない。
その目的が例えば――自分の身に降りかかる火の粉だとしても、言葉にしたことは喜んで実行に移すだろう。
(仕方のない……)
そう小さく思いながらも、俺は壺を花猫の寝台へ置くとそっと蓋を開けた。その直後のことだった。
シャ……!
空気を裂くような蛇の威嚇が室内全体に轟いた。
そしてそれは、あっという間の出来事だった。壺から飛び出した『影の蛇』は花マオへと飛びかかりその首筋に思い切り牙を突き立てたのだ。当然だろう。呪術師から解き放たれた時点で、この蛇の行き着く先は、対象を呪い殺すこと――それを邪魔されたとあれば怒髪天を衝くのも当然のことだった。
「可愛くて愛しい愚かな〝蟲〟」
だが花猫は、強力な毒すらもろともせず、愛おしげに影の表面を撫でながら言葉を紡ぐ。
「こんなに弱い毒で私を殺そうだなんて、なんて蒙昧なのかしら」
不意に影の蛇の首筋を掴むと引き剥がし、
「でも安心なさい。アナタは私の中で生き続けるの。――私がアナタを喰らってあげる」
そう言うや否や、今度は花猫は口腔を開けると、ズルリと影の蛇をその中に押し込めた。
「…………」
その様はいつ見てもおぞましく、妖艶で、神秘的で、愛らしい。
(まさに……毒を喰らい毒を宿し生きる仙女だな)
そんなことを思いながら、空になった壺を傍らに置くと床に伏した花猫の頭を優しく撫でた。
身勝手な人間どもの願いから、孤独な世界を生きてきた一人の少女。
その全てが愛おしくて堪らない。
「月鏡」
「なんだ、花猫」
不意に開かれた薄い唇から、俺の名前が紡ぎ出される。
その嬉しさに心躍らせながらも平静を装い、短く応えた。
「こんな姿の私でも、貴方は今でも愛してくれる?」
「当然だ、花猫。あの日、あの時、あの瞬間――〝契約〟を交わした時から俺の心は移ろいでいない」
「嬉しい。……愛しているわ、月鏡」
「当然だ。俺も……愛している。花猫」
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