五 私、メリーさん。いつでもあなたのそばにいるの。
「もしもし!」
「私メリーさん、今、公園にいるの」
「めりーしゃん? あたしあおい! あたしも今から公園いくの!」
ブツ。
電話は一方的に切られた。
受話器を持ちながら葵はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがて興味をなくしたのか台所の母親の元へ走っていった。
ガヤガヤと賑わうショッピングモールに、葵は同じ中学の友達二人と来ていた。今日は近く一緒に行く予定のプールに向けて、水着を買いに来ていた。
「水着ってどこにあるのかなー」
「たぶん右? にお店あった気がする」
慣れない館内を3人でうろうろしているとき、突然葵のポケットにある携帯が鳴った。折りたたみ式の携帯を開いてみるが、電話帳に登録のない、知らない番号が表示されている。
「はい、もしもし」
「私メリーさん」
「メリー? 誰? いたずらですか?」
「今、ショッピングモールにいるの」
葵は思わず携帯を耳から離し、辺りを見渡した。
「どしたん葵ー」
「電話だれー?」
友達から聞かれる。
「いや……知らない人……」
答えながら携帯をもう一度耳につける。
「私メリーさん、今、クレープ屋さんの前にいるの」
葵は咄嗟に通話を切った。後ろを振り返るとそこにはクレープを売っている小さな店がある。今は客がおらず、男の店員が暇そうに突っ立っているだけだった。
「葵? どうしたそんな青ざめて」
「いや……大丈夫……」
友達にはそう答えたが、心臓は早鐘のように鼓動を打っていた。
「あ、あの店だよ水着あるの」
「どこ?」
「クレープ屋の奥」
「ほんとだ。行こ、葵」
「うん……」
いつもよりバイトが長引き、すっかり暗くなった夜道を葵は早足で歩いていた。
ちらっと後ろを振り返る。さっきから一定の距離でずっとついて来ている人がいる。フードを被っていて、男か女かもわからない。
ストーカー? 嫌な単語が頭をよぎる。葵の通っている高校は地元でも有名な女子校で、実際にストーカー被害を受けたという話も聞いたことがある。
どうしよう。もし本当にストーカーならこのまま家に帰るのはまずいかもしれない。しかしこの辺りには入れそうなコンビニもない。
ポケットの携帯が鳴った。画面の表示は番号だけ。電話帳に登録のない人からの着信だ。
「……もしもし」
「私メリーさん」
「メリーさん……?」
中学生のときの記憶が蘇り、背筋が寒くなる。
「今、酒屋さんの前にいるの」
葵はついさっき、『鈴木酒店』の看板を見たことを思い出した。
「近くにいるの?」
後ろから足音がする。さっきのストーカー? うそ、近づいてきた?
「メリーさん?」
「私メリーさん」
足音が徐々に大きくなってきた。
「メリーさん? あなたなの? 後ろにいるの?」
「今、酒屋さんの前にいるの」
酒屋?
『鈴木酒店』はもうだいぶ後ろにあるはずだ。じゃあこの足音は? もうほとんど真後ろにいる。怖くて振り返れない。
「メリーさん! 助けて!」
葵は携帯に向かって思わず叫んだ。
携帯からブツっと通話が切れる音がした。同時に足音がなくなった。
立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには誰もいなかった。
受験票を握りしめ、坂を一歩一歩登る。
「今日もし合格だったとしてもさ、この坂を4年も登り続けるのはなかなかキツイよね」
一緒に歩く京子はのんきなものだ。もっとも、彼女は葵よりかなり成績がいいし、模試もいつもA判定だったから、心に余裕があるのだろう。
一方の葵は朝からずっと緊張状態だ。成績から見れば合格するかギリギリの大学。一応滑り止めの私立は既に合格しているが、できれば第一志望に通いたいところだ。
「おー、人集まってるね」
門の向こうにはすでに人だかりができていた。
「やっぱりネットで見ればよかったかな……」
「いやいや、どうせなんか書類とかももらうらしいし来たほうが早いでしょ」
そう言いながら京子はスタスタと歩いて行く。「ちょっと! 心の準備が……」葵が言いながら小走りでついていく。
「お、あった」
京子がこともなげに言った。指差す先には電車で散々確認した京子の番号。そしてもうひとつ、もう暗記してしまった自分の番号は……。
「……あった」
「あるねー」
「あった!!!」
葵は京子に抱きついた。「だから言ったじゃーん」京子も嬉しそうに葵の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「お母さんに電話してくる! ちょっと待ってて!」
そう言って葵は人混みを離れ、携帯を取り出した。その時、ちょうど着信が表示された。知らない番号だ。
「もしもし?」
「私メリーさん」
その声に記憶が蘇る。中学生の時、高校2年生のバイト帰り。冷や汗ですっと体温が下がる。
「メリーさん……あの、なんですか」
「今、ケーキ屋さんにいるの」
「ケーキ屋さん……?」
この近くにケーキ屋なんてあっただろうか。あまり詳しい訳ではないが、少なくとも道中では見なかった。
「メリーさん? ケーキ屋さんって」
ブツ。電話が切れた。
「葵ー」
後ろから自分を呼ぶ声がした。振り返ると京子が歩いてきていた。
「電話終わった? ちょっと人酔いしそうであたしも逃げてきた」
「いや……まだ……」
「あれ? 今電話してなかった?」
「うん……この辺にケーキ屋さんってあった?」
「ケーキ? 坂降りた駅の裏にあったような気がするけど」
「駅の裏……?」
「そうそう。あ、合格祝いに買っていく? あたしガトーショコラがいい!」
「……そうだね。行こっか」
門をくぐりながら改めて母親に電話をかける。電話越しの母はとても嬉しそうだ。
隣を歩く京子が道に立っている人からなにかのチラシを受け取った。それと同時に突然葵の肩をバンバンと叩く。
葵が電話しながら口の形だけで「痛いよ!」と抗議すると、京子はチラシの下部分を指差した。
『ケーキ1品10%OFFクーポン』
「よし」
引っ越しの荷物から最低限必要なものだけ取り出し、達成感を得た葵は布団に寝転がり、スマホを触りはじめた。ここまで頑張ったからしばらく休憩だ。まだ荷ほどきが必要な荷物がたくさんあることは一旦置いておく。
Twitterをダラダラと見ていたその時、画面に着信が表示された。「メリーさん」と、電話帳に登録された名前が表示される。通話マークをタップした。
「もしもし」
「私メリーさん」
「久しぶりだね、メリーさん」
「今、コンビニの前にいるの」
「うちの近くのローソン? いるならなんか買ってきてよ」
「私メリーさん」
「メリーさん、私明日からとうとう社会人だよー。不安でしょうがない」
「今、お酒コーナーにいるの」
「え! 飲んで紛らわせろってこと? だめだよー入社初日に遅刻しちゃう!」
葵はケラケラと笑う。
「私メリーさん」
「メリーさんまたね! 明日早いからもう寝る!」
今日はひどい雨だ。
けれど折りたたみ傘を取り出す気も起きず、葵はずぶ濡れになりながら歩いていた。ときどき前から歩いてきた人が驚いた様子で葵を見るが、すぐに視線をそらして何事もなかったかのようにすれ違って去っていく。
葵のポケットにあるスマホから着信音がした。葵はすぐに取り出して誰からの着信か確認する。しかし、表示されていたのは期待した名前ではなかった。
「もしもし」
「私メリーさん」
「メリーさん……ごめん。今日はちょっとしんどいや」
「今、あなたの家にいるの」
「メリーさん……」
「私メリーさん」
「なにが良くなかったのかな……。私も大樹もずっとお互い好きだったはずなのにさ……。私が悪かったのかな……」
葵の声はだんだんとかすれていった。頬を伝う涙は雨に流されていく。
「今、あなたの家にいるの」
「家……? ねえ、ずっとそこにいてくれる? 私もう寂しいよ。辛いよ。もうこんな思いしたくない」
「私メリーさん」
「メリーさん……助けてくれる……?」
「今、公園にいるの」
葵は立ち止まる。
「公園……?」
「私メリーさん」
「メリーさんも……私を待っててくれないんだね……」
葵は通話を切った。
主婦の朝は忙しい。朝起きたらご飯を作り、パートナーを起こし、玄関で見送ったら洗濯機を回す。朝の食器を洗ったら一旦休憩。いつもの通りスマホを取り出してゲームを始める。課金はしていないから、スタミナゲージが切れるまでのささやかな楽しみだ。
ゲームを起動した瞬間、着信が入った。葵は画面に表示された名前を見て思わず立ち上がる。
「もしもしメリーさん!」
「私メリーさん」
「メリーさん……よかった。もう電話してくれないかと思って」
「今、駅にいるの」
「メリーさん、私、前にひどいこと言って……ずっと謝りたくて……。それにお礼を言いたかったの。あの日、部屋をきれいにして、布団を出しておいてくれたでしょう?」
「私メリーさん」
「あ、でもお風呂は冷めちゃうから……あの、ごめん。入れなかった。シャワーは浴びたんだけどね」
「今、公園にいるの」
「本当にごめんね。若かったというかなんというか……。今から考えればたいしたことないことだったんだけど。あ、今はね、大樹より全然良い人と結婚して幸せに暮らしてる」
「私メリーさん」
「ねえ、覚えてる? 京子って。高校からの友達。あの子とね、なんとゴールイン」
「今、コンビニにいるの」
「コンビニ? うちの近くのファミマだよね? 駅からなんて遠かったでしょ? よかったらこのままうちに来てよ。メリーさん一回会ってみたい!」
「今、駅にいるの」
「いや戻ってんじゃん! なんでよ!!」
今日はやけに気持ちが穏やかだった。体の痛みも少ない。今朝注射してもらった鎮痛剤が効いているのだろうか。いや、もう痛みを感じる体力すらほとんどないのかもしれない。
ベッドのそばに置いたスマホが鳴っている。葵はゆっくりとした動作で手だけ伸ばして、スマホを取る。しかし画面がぼやけてなんと書いているかわからない。またゆっくりとした動作で老眼鏡を取り出し、かける。
葵は名前を確認して少し微笑み、震える手で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「私メリーさん」
「久しぶり……わたしはもうすっかりおばあちゃんだよ」
「今病院の前にいるの」
「そう……遠くまでありがとうね。ねえ……メリーさん」
「今1階にいるの」
「直接ね、お礼が言いたかったけど、メリーさんはシャイだもんね。だからね、電話越しで申し訳ないけどね、最期に伝えておくね」
「今4階にいるの」
「今までね、見守ってくれてありがとう」
「私メリーさん」
「良い、人生だったと、思う」
「今、あなたの隣にいるの」
葵の手が誰かに握られた。その温かさを感じながら、葵は静かに目を閉じた。
百合百景。 佐野 @sano192
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