二 女2人、部屋の中で遭難しました。

「うわー、ここが天国か……」

クーラーのリモコンを胸に抱きながら尚美が言う。

「天国は大げさじゃない?」

香織は少し笑いながら尚美へ言った。

「いやもう召されそう。もっと下げちゃお」

クーラーがピッピッピッと何回も電子音を立てる。

「ちょっとお腹壊しちゃうよ」

「冷えるまでだよー。冷えたら戻すから」

尚美がテーブルに置いたリモコンを見ると『18℃』と表示されていた。


 香織と尚美は大学時代の同級生。学部は違ったがふたりとも演劇サークルに所属していて、お互い大学で一番仲の良い友だちだった。

 卒業後、香織はマスコミ大手に就職、尚美は大学の修士課程へ。今日はお互いに忙しい中でなんとか休みを合わせた、久々の再会だった。

 駅で待ち合わせしてから居酒屋へ行き、香織は上司の、尚美は教授の愚痴を肴にひとしきり、でも大学時代ほど羽目は外さない程度に酔っ払った後、尚美の家で飲み直そうということになった。

「尚美は相変わらずロボット作ってんの?」

「ロボットじゃない! 介護用パワーアシストツールぅ!」

「ふーんなんかよくわかんないけどすごそう。さすが秀才様」

「すごいんだよ! カーボンナノチューブを素材にしたら強度を従来品の3.1倍~5.7倍にした上で……」

「あーわかんないわかんない。私文系だから」

「もーいつもそれじゃん」

尚美は口を尖らせる。香織はまあまあと言いながら尚美のグラスにチューハイを注いだ。尚美の顔は少し赤いが、まだ許容範囲だ。

「香織も大学院行けばよかったのに……」

「いやあ、そういうわけにもいかんかったでしょ」

「なんで? 教授にも勧められてたじゃん。卒論もなんか賞取ったんでしょ?」

「そうだけど。文学部の院卒女なんて誰も雇ってくれないよ」

「うーん……」

尚美はグラスのチューハイを一気に煽った。

「ちょっとあんたそんなに強くないんだから……」

「よし、わたしが養ってあげよう」

尚美の言葉に香織は思わず吹き出した。

「自分で稼いでから言いなさい学生さん」

「あと5年したら大手メーカーで年収一千万だよ!」

「簡単に言うねえ」

「だから予約!」

尚美が小指を香織へ出してきた。香織も笑いながら小指を絡ませる。

「考えとく。それよりもう寒くなってきたよ」

香織は立ち上がり、クーラーのリモコンを取って温度の上昇ボタンを押した。


何も音がしない。リモコンの表示も『18℃』のままだ。


「これ……なんか反応しないんだけど」

「え? 貸してみ?」

香織は尚美にリモコンを渡した。尚美がクーラーに向けてリモコンを向け、ボタンを押すがやはり反応しない。

「壊れた……?」

「え?」

二人が顔を見合わせる。

「18度だよ!! 凍え死ぬ!!」

香織が叫んだ。

「由々しき事態だ……」

「停止ボタンは!」

「効かないな……なぜか温度下げるボタン以外効かない……」

「どうするのー!」

尚美は部屋の端を指差した。ベッドがある。

「何?」

「とりあえず布団に入ろう」

「いや根本的解決になってないんだけど……」

「まあまあ、サークル時代の合宿を思い出して」

尚美がそそくさと布団に入る。

「ほらほら、あの時よりはるかにふかふかの布団だよ」

尚美が掛け布団を上げ、早く来いとばかりに隣のスペースをぽんぽんと叩いた。

「もうー……」

香織も渋々、といった様子だったが尚美の隣に収まった。

「なんで夏なのに羽毛布団使ってるの?」

香織が聞いた。

「そろそろしまおうと思いながらずるずると」

「ズボラだなぁ」

「誰かさんと違ってね」

「ほんとだよ」

ふふふ、と二人が笑う。

「二人並んで寝るなんて何年ぶり?」

尚美が香織に聞いた。

「うーん合宿以来だから……二年ぶり?」

「あれそんなに前なの! 時の流れは残酷だな……」

「そうだね。あの時尚美が山田くんのやる気の無さにブチ切れてさ……」

「う、その話は」

尚美が香織の口を手で塞ぐ。

「はくりょくしゅごかったにゃ」

塞がれてなお、香織は喋る。

「やめてー! 黒歴史!」

「へっへっへ」

「腹立ったんだよ! あのとき香織が部長でめっちゃ頑張ってたのにあいつがさ」

香織が口を塞ぐ尚美の手を掴み、下ろした。

「わかってるよ」

「本当に?」

「嬉しかった」

尚美の耳がほんのり赤くなる。

「いやあれは……あれは誰でもキレるって!!」

「まあ尚美がブチ切れてなかったら私がやってたかもね」

「そーでしょ!」

香織が布団から手を出して、尚美の頭をそっとなでた。

「ありがとうね」

尚美は目をつむり、少し頭を下げてされるがままだ。

「ねえ、香織」

尚美が言った。

「何?」

香織は手をゆっくりと動かしながら答える。

「ここがもし雪山だったらさ、私達このまま死んでるんだろうね」

「ずいぶん気温の高い雪山だね」

「例えばの話だよ。もし本当にこのまま死んじゃうとしたら、香織、死ぬ前にしたいことある?」

「えー、雪山でー?」

「そう」

「雪山だったらほとんどなにもできないじゃん」

「しょうがないよ。遭難しちゃったんだもん」

「なんで山登ったのよ」

香織はふふふっと笑いながら目をつむって考える。

「そうだなぁ……本、読みたいなぁ」

「本?」

「そう。中学の時に読んだお気に入りのやつもう一回読みたい。きっと山登りにも持っていってるよ」

「うわあ……根っから文系だな。死ぬ間際に悠長だねえ」

「死ぬ間際だからだよ。尚美は小説とか読まないの?」

「私は無理だなあ。国語嫌いだったし。主人公の気持ちとかわかるわけ無いでしょ」

「想像するんだよー。この状況だったらこうだろうなーって」

「だって想像したって本当のところは本人しかわからないじゃん」

「それはそうだけどさー……いや、それより尚美は」

「何?」

「何? じゃないよー遭難したら死ぬ前になにするの?」

尚美は「うーん」と言いながら目線を上へ向ける。少し、顔が赤い。

「考えてないのに聞いたの?」

「いや、そういうんじゃないけど」

尚美から歯切れの悪い返事が返ってくる。

「教えてよー」

香織は布団から手を出して尚美の両頬をつねった。

「きひゅ」

「へ?」

香織がつねった手を離す。

「キスする」

小さい、しかし力強い声で尚美は言った。

「誰と」

「誰って……二人しかいないんでしょ」

沈黙。

2秒。

3秒。

4秒……。

「香織」

「あ、うん」

「うんじゃなくて。香織とキスしたい」

「そうなんだ」

「そう」

また沈黙。

「……香織は」

「私?」

「いや?」

「嫌……ではないけど」

まるで子犬みたいだ。尚美のうるうるとした目を見て、香織はそんなことを思った。

「……尚美」

「なに」

「目つむって」

「え」

「早く」

言われたとおり、尚美がギュッと目をつむる。眉間に少ししわがよっている。


かわいいなぁ。


香織はそう思いながらゆっくりと唇を近づけた。


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「じゃあ……またね」

「またね」

玄関を開け、家を出る香織に手を振る。

バタン、と音がして、ドアが閉まる。

コツコツコツというヒールの音がだんだんと遠ざかる。

音が聞こえなくなったのを確認して、鍵を締める。

ふぅ、と息を吐く。


 想定通り、いや、想定以上に上手くいったといえるだろう。

 私は部屋に戻り、引き出しからクーラーのリモコンを取り出して「停止」と書かれたボタンを押した。クーラーはピーと電子音を立て、舞台装置の役目を終えた。

 リモコンの内部の構造はとても単純だ。ドライバーで背面のカバーを開け、中身を見れば、どの部分がどんな役割を持っているかすぐに理解できた。少なくとも、毎日大学でにらめっこしている機械達よりはよほど易しい。

 ベッドに座る。

 ネット通販で同じ型のリモコンを買い、温度を下げるボタン以外に機能しないようにするのは簡単だった。あとは香織がそもそもクーラーの電源を抜けば良いことに気づくかどうかだったが……さすが根っから文系の機械音痴。そんなことは考えもしなかったらしい。

 ベッドに仰向けに倒れる。天井の照明が少し眩しい。

 しかし……そこからは予想外だった。あわよくば香織とキスくらいはできるかと思っていたが、まさかあそこまでのことになる予定はなかった。

 目を閉じる。

 さっきまで自分がここで出していた声が思い出される。

「……うぇぇ」

勝手に声が漏れた。だめだ。私のキャラじゃなかった。恥ずかしい。

 香織はどうだったのだろう。なぜ『した』のだろう。


 そういう気分だったのか。

 雰囲気だったのか。

 流されたのか。

 それとも……。


 ため息をつく。

 やめよう。人の気持ちなんて考えてわかるものじゃない。

 その時、頭上から音がした。スマホの通知音。起き上がり、スマホを取る。

 香織からのLINEだった。

『次、いつ?』

完結な問いだった。

 カレンダーアプリを開く。『学会』『ゼミ発表』『論文提出締め切り!!!』色とりどりの予定は全て自分で書き込んだものだが、改めて見ると白色の少なさにうんざりする。

 画面の上部にまた通知が降ってきた。

『来週土曜?』

土曜日の予定は奇跡的に空白だった。問題ない。その隣の日曜日に『論文提出締め切り!!!』と書いていること以外は。

 5秒、天井を見て考えた。

 LINEを開き、メッセージを返す。

『ぜひ』

布団から出て立ち上がり、伸びをした。

「よし!」

机に座り、ノートパソコンを開く。さあ、早く論文の続きを書かねば。


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 外はすでに日が昇っていた。

 駅へ向かって歩きながら、スーツ姿で早足のサラリーマンと何人もすれ違う。私達があんなことをしている間も世の中は正常に動き始めていたらしい。なんだか不思議な感覚だ。

 尚美は今日のことをどれくらい前から計画していたのだろう。

 リモコンは私が帰ったあと修理するつもりだったのか、それとも2つ用意していたのかわからないが、ずいぶんと手の込んだことをするものだ。推理小説作家にでもなったほうがいい。

 こんな簡単な計画が私にバレないと思って仕掛けてきたのだからかわいい女だ。全く理系というのは、方程式は解くことができても人間のことはわからないのだろう。

 いや……わかっていても知らないフリをしているなら結果は同じことか。


 駅に着いた。ICカードで改札を通り、ホームに立って電車を待つ。

 向かいのホームには様々な人がいた。サラリーマン、中年の女性、大学生の男子グループ、そして、端の方に高校生のカップル。

 二人がカップルだとわかったのは手をつないでいたから。付き合いたてなのか、それとも周りに人がいて緊張しているのか、少し距離が離れているしお互い顔を見ずにまっすぐ前を向いている。なにか話している様子でもない。

 若いっていいわね、なんて言ってしまえばもうおばさんだろうか。私もまだ怖いものがないときに、お酒の力も借りず、妙な策略を練ることもなく、そしてそれに気づかないふりをすることもせずに、素直に自分の気持ちを伝えられればよかったのかもしれない。

 その時、カップルの男の子の方が女の子の手をぐいっと引いた。女の子が少しよろけながら男の子のほうへ近づく。女の子が驚いた様子で男の子になにか話している。声は聞こえないが急に引っ張られたことに抗議しているのか、理由を聞いているかだろう。

 男の子はなにか言葉を返し、ふたりとも赤面して下を向いた。何を言ったのかだいたい想像はつく。こちらまでなんだか恥ずかしくなってくる。

 5秒、天井を見て考えた。

 たかだか高校生に、大人が負けているわけにはいかないか。

 スマホを取り出して、尚美にメッセージを送る。

『次、いつ?』

来週土曜……と続けて送ろうとして手が止まる。確か尚美は日曜日に論文の提出かなにかで今は非常に忙しいと言っていたはずだ。来週土曜に予定をいれれば忙しさに拍車がかかることだろう。

「うーん……」

少しだけ考え、メッセージを送った。

『来週土曜?』

私が惚れた「秀才様」だ。論文かなにかくらいさっさと終わらせるだろう。

 電車が来た。あの高校生カップル、うまくいくといいな。そんなことを考えながら電車に乗り込む。

 その時携帯の通知が鳴った。

「……返事はや」

ああ、電車の中なのに。


にやけてしまう。

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