第三章 2 正体
夕方、雲秀は玉蘭と共に空き家の厨房にいた。外は雨が降り続いている。この雨は、玉蘭が沈火のため、降雨の術で招いたものだ。今頃は公堂の火もすっかり消えた頃だろう。
「師匠、公堂でいったいなにを調べていたんです?」
「村の記録を調べていた。もっとも、ほとんど火事のせいで燃えてしまったけれど……これだけは持ち出せた」
蒸籠で饅頭を蒸している雲秀に、玉蘭が懐から取り出した紙を渡す。冊子から破り取ってきたもののようだった。濡れている手を拭ってから受け取って目を通す。
「十三年前の記録?」
「ああ、その年の祭りに参加した村人の人数だ。二人増えている」
「それが……?」
雲秀は視線を上げ、首をわずかに傾げながら聞き返した。鈍いやつだなと、玉蘭が呆れた顔をする。
「出生の記録も調べたが、その歳に生まれた子どもはいなかった。つまりは、その二人はどこかから村にやってきた者ということだ」
「……つまり、それが悠月とその母親の二人だと? 確かに、悠月は父親のことを知らないと話していました。村の者も知らなかった……」
母親が生まれた子どもを連れて村に移住してきたのであれば、村人がその父親を知らなくても不思議はない。
「悠月の母親はこの村に、知り合いがいたわけでも、親戚がいたわけでもない。なのに、なぜ子どもを連れてやってきたと思う?」
「さぁ……わかりません。最初から天涯孤独の身だったのかも」
「そうかもな。そうでなければ……何かから逃げていたか、身を隠していたかだ」
「悠月の話では彼の母親は村人から尊敬されていたようですよ? あの廟の像も彼女を模したものだと聞きました。流行病の看病を我が身も省みずできるような人が罪を犯したなんて考えられない……」
「逃げる必要があるのは、罪人ばかりではないさ」
「……それはそうですが」
雲秀は竈の端にもたれながら、顎に手をやって考え込む。罪を犯したのでないのなら、いったい、誰からなんのために逃げて、この村に辿り着いたのか――。
「ほかに、何かわかったんですか?」
「いいや……なにせ、調べている途中で燃えてしまったからな」
「それなんですが、どうしてあんなに燃えるまで気づかなかったんです? もっと、早く逃げられたでしょう。僕は肝が冷えましたよ」
「心配したのか?」
「それは……しますよ。仮にも師匠なんですから」
「あの程度で、私が死ぬわけがないだろう?」
見くびるなとばかりに、玉蘭は眉根を寄せる。
「そうでしょうね。私の無駄骨でしたよ」
雲秀は額に手をやって、ため息を吐いた。この人なら、巨大な龍に踏みつけられたって平然と生きているだろう。
「ただ、ちょっとばかり気になって調べていたんだ。誰が火を点けたのか」
「誰って……この村には、四人しかいなんですよ? 悠月は僕と一緒にいましたし……」
言ってから、「義円さんが?」と呟いた。
「そうだろうな。わざわざ、自分で火を点けてから、お前に知らせに行ったのだ」
「師匠があそこで調べものをしているのを知っていて、火を点けた? でも、そうだとしたら……」
「知られたくないことがあったのだろう。そうでなければ、後始末だ」
「後始末……?」
雲秀が聞き返すと、玉蘭はニッと笑う。それから「そういえば……」と、窓のほうに視線を移した。
「悠月はどうした? 廟か?」
「いえ、公堂の焼け跡を見に行ったようです。何か残っていないかと……」
悠月はあの公堂で、村の長老と生活していたようだ。思い出の品もあったのだろう。
けれど、あれではおそらく何一つ残っていないだろう。
「一人にしたのか?」
「ええ……まあ、大丈夫だと……まさか、何か?」
「まずいな。行くぞ」
顔色を変えた玉蘭が厨房を飛び出していくので、雲秀は慌てて後に続いた。外に出れば、まだ雨が降り続いている。暗雲に覆われた空を、稲光が走っていた。
「どういうことです? あの義円という人の狙いは、悠月だったと?」
雲秀は玉蘭と並んで走りながら尋ねる。
「雲秀、お前の足では間に合わない。飛ぶぞ!」
そう言うなり、玉蘭が飛び上がって雲秀の襟をつかむ。えっと思った時には、雲秀の足も宙に浮かんでいた。
「う……うわあああっ、ちょっと、し、師匠っ!!」
あたふたして声を上げたが、玉蘭は無視して宙高く舞い上がる。どんどん離れていく地面を見下ろすと、目眩がしそうだった。
すっかり隅となっている公堂の庭に着地すると、すぐに玉蘭は辺りを見回していた。
けれど、そこには悠月の姿も、義円の姿もない。
「二人は……?」
雲秀もふらつきながら、その姿を捜したが見当たらなかった。
「まったく、のんびりしたものだ……っ!」
玉蘭が舌打ちして苛立たしげに呟く。それは、自分自身に向けた言葉だろう。
雲秀をつかむと、再び宙に舞い上がる。風と雨を切るように速度を上げて飛ぶ玉蘭の体に、雲秀は必死にしがみついているしかなかった。
鳥ではないのだから、人はもともと空を飛ぶようにはできないのだ。薄目を開けて見れば、村の民家の屋根が小さく見える。この高さから落ちれば、痛いくらいではすまないだろう。骨が折れた程度ですめば幸い、運が悪ければあの世行きだ。「ひええっ」と、情けない声が雲秀の口から漏れる。顔はすっかり引きつっていた。
玉蘭は「いた!」と、呟くなり急降下する。顔や体に、木々の葉や枝が当たる。悲鳴を上げた時には地面に放り出され、顔を水たまりに突っ込んでいた。これだから、玉蘭の飛雲術は苦手なのだ。これでは、悲運術もいいところだ。
呻いた後でのっそり起き上がり、泥水の垂れる顔を手で拭う。
「う、雲秀さ……っ!!」
呼ぼうとした悠月の口を、義円がその大きな手で塞ぐ。どう見ても、連れ去られる途中だった。雲秀と違い、両足でゆっくりと着地した玉蘭は、二人を見てニヤッと笑う。
「悠月を連れていってどうする気だ? 養子にでもするのか?」
「悪いことは言わん。関わらぬが身のためだぞ」
義円がこちらに向けた錫杖が、シャンッと鈴の音を鳴らす。その衣もすっかりずぶ濡れになっている。
「義円さん、公堂に火を点けたのもあんたか?」
雲秀は真面目な顔になって、一歩前に出る。助けを求めるように、悠月が涙ぐんだ目をこちらに向けていた。抑えられた口から、苦しそうな声が漏れる。
「なに、危害を加える気はなかったさ……」
「いったい、あんたは何者なんだ!?」
旅の僧というのは偽りの姿だろう。雲秀の問いかけに、義円は答えない。かわりに、口を開いたのは玉蘭だ。
「聞くまでもないさ。そうだろう? 皇帝の密使殿」
「皇帝の……密使!?」
雲秀が驚きの声を上げると、玉蘭が横目で睨んでくる。「気づいてなかったのか、阿呆め」と思っているのがその顔に表れていた。
「わかっているなら、足止めなど無用。このまま我らを行かせるほうが、そなたらの身のためだ。本来なら、その命ももらい受けるところ、情けで見逃してやるのだ」
義円はニタリと笑う。その腕はしっかりと悠月を抱えていた。
「ちょっと、待ってくれ。なんだってその皇帝の密使が、悠月を連れて行く? その子は何も罪を犯しちゃいないんだ。村の事件にだって関わってない!」
それとも、村の事件の犯人が悠月だと思っているのか。
「それとも……その子が村の生き残りだからか?」
あの山中に埋められていた子どもたちと同じように、悠月も連れていってどこかで殺すつもりなのか。となれば、半年前の事件の犯人は――。
「あんた、なのか……? 半年前に村人を殺したのは」
額に当てた手を離して、雲秀は思わずそう尋ねた。だが、なぜだと、頭の中で疑問がグルグルと回る。なぜ、皇帝の密使が村人と、その子どもたちを殺す必要があるのか。もしかすると、自分たちは何かとんでもない事件に首を突っ込んだのではないか。急に不安を覚えて、雲秀は玉蘭に視線を移した。
「王雲秀天知らぬままいるほうがいいこともあるのだ。少なくとも、そなたらには関係のないこと。首を突っ込む道理がない」
「そうだとしても、その子が連れて行かれるのを黙って見過ごすことはできないな」
「では、ここが己の墓場となったところで、恨んで出るなよ」
義円は錫杖をシャンと鳴らして地面を突いた。その瞬間、大きな鐘の音が鳴り響き、雲秀は咄嗟に耳を押さえる。頭が締め付けられるような強烈な痛みが走り、立っていることもできない。膝を折りそうになった時、玉蘭が印を結んでダンッと片足で地面を踏む。
玉蘭の術で義円の足下に亀裂が生じる。それを、彼は悠月を抱えたまま咄嗟に飛び退いて交わす。その視界に、雲秀が投げつけたものが目に入る。それを錫杖ではね除けた次の瞬間には、雲秀の剣が彼の横腹を捕らえていた。ざっくりと切れる手応えがあった。
義円の手が悠月を離すのを見て、雲秀はその腕をつかみ、自分のほうに引き寄せる。
大きく目を見開いていた悠月の顔に、血が飛んでいた。雲秀は悠月を庇いながら、剣を構えて後ろに下がる。
義円は横腹を押さえながら、呻いて片膝をついていた。足下の水たまりに、血の色が混じっている。
「そうであった……」
地面に突き立てた錫杖をつかんだまま、彼は声を無理に絞り出す。
「世に名高い幽玄医仙の唯一の弟子は、まだ若いながら剣の達人であると……まったく、忘れていた。不覚だな……」
雨に打たれながら、義円はハッと自嘲気味に笑った。
幽玄医仙――それは、玉蘭の通り名だ。誰が名付けたのかはわからない。雲秀が彼女と出会ったときには、もうその名前で呼ばれていた。人と幽玄の世界を行き来する仙女。
それが彼女だ。
「最初から、師匠の正体を知っていたのか……」
雲秀が下げた剣の先からも赤い滴が雨と一緒に流れ落ちていた。
「よりにもよって、この村に立ち寄ろうとするとは思わなかった。もっと、早く来るべきであった……生き残りがいたとは思わなくてな」
「あんたはいったい、何が目的で村人を殺したんだ……?」
「雲秀殿、言ったであろう。世には知らぬほうがよいこともある。まして、仙人であれば、汚れた人界のことになど関わるべきではないのだ」
笑うように言うと、義円はふらつくように立ち上がった。かなりの深手のはずだが、まだその気力が残っているとは驚きだ。
「いずれまた、どこかで……」
雲秀が「待て!」と、踏み込もうとすると、錫杖がシャンッと鳴る。
一瞬、視界がぐにゃりと歪んだかと思うと、雲秀も悠月も立っていられなくて尻餅をついていた。その視界が戻って辺りを見回すと、すでにそこには義円の姿はない。
「逃げ足の速いやつだな」
「師匠、逃がしたんですか!?」
「深追いする必要はない」
「また、どこかで襲いかかってくるかもしれませんよ?」
悠月の手を引っ張りながら、雲秀は一緒に起き上がる。すっかり衣が泥まみれだ。
「そうだろうな……だが、すぐではないさ」
悠月は「すみません、お二人にまたご迷惑を……」と、しょげてうな垂れている。
「いいさ、君が無事だったんだから」
雲秀は笑みを作り、その肩をポンッと叩いた。玉蘭には、後でじっくり説明してもらう必要があるだろう。
「雲秀さんが、あんなに強いなんて知りませんでした」
驚いたように悠月が言う。
「……誰にだって、一つくらい特技ってやつがあるんだよ」
「いい機会じゃないか。悠月をお前の弟子にしたらどうだ? 素質がありそうだぞ」
玉蘭がからかい半分に言うと、悠月が「えっ!」と瞳を輝かせる。
「弟子になりたいです! 僕も雲秀さんのように強くなりたい」
「勘弁してくれ。弟子を取れるような腕前じゃないんだ」
雲秀は慌てて手を振りながら。逃げるように離れる。いつしか雨が止み、葉に溜まった水滴が風がそよぐたびに落ちてくる。雲間に覗いた月が、闇一色に染まる山道を照らしていた。
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