第三章 1 火事
走りながら、公堂の方角に目をやると、黒い煙が風に流されているのが見えた。
道を曲がり、公堂が見えたところで足がすくむように止まる。
「雲秀殿!」と、ようやく追いついてきた義円が呼ぶのが聞こえた。悠月も遅れて息を切らしながらやってくる。
悠月も赤い炎に包まれてバリバリと燃える公堂を目にして、唖然とし膝から崩れるようにして地面に座り込んでいた。その口から、「おじいちゃんの公堂が……」と呟きが漏れる。
雲秀はグッと唇を強く噛むと、井戸に走り、桶に汲んだ水を頭から被る。
「師匠……師匠っ!!」
大声で呼びながら公堂に向かおうとするのを、仰天したように義円が止めようとした。
「雲秀殿、何をする気だ!?」
「人が……師匠が中にいるんだ……っ!!」
腕をつかんだ彼の手を払いのけて叫ぶように言うと、扉に体当たりするように中に飛び込んだ。その途端、煙にまかれてむせそうになる。袖で口を覆い、熱風の吹き付けてくる周囲をすぐさま見回した。
あの人のことだ。この程度の炎――無事なはずだ。
「師匠! 師匠、どこです!?」
崩れてきた天井の梁を咄嗟に飛び退いて避け、二階へと続く階を駆け上がる。二階もすでに火が回り、棚が勢いよく燃えていた。その熱と炎で肌が焼けそうだった。火が燃え移った衣を脱ぎ捨てて床の炎を必死に消すが、それでは追いつかなかった。
「どこ……です、師……っ!!」
声を張り上げたが、目の前が霞んできて、そのまま膝を床に落とした。煙を吸い込んだらしく息ができなかった。まったく、何をやっているんだとぼんやりとした頭で考える。きっと、よくたましく餅でも焼いて食べようとしたのだろう。そうでなければ、こんな火の気のない場所で火事など起こるはずもない。本当に、いい年をして世話が焼けるのだから。
「…………まったく、お前ときたら本当に世話の焼けるやつだ」
倒れて動けなくなった雲秀を、玉蘭が呆れ顔で見下ろす。それはこちらの台詞だと、咳き込みながら心の中で言い返す。同時に、やっぱり無事だったのかと心底ホッとしていた。
「ほら、起きろ。叉焼になりたくないだろう?」
「……あた……り……まえです…………」
掠れた声で返すと、玉蘭も安堵したようにニッと笑った。しゃがんで雲秀の腕を肩に載せ、重そうにその体を支えて立ち上がる。
「しっかり捕まっていろ。暴れるなよ」
その言葉に、雲秀は「まさか……っ!」と青ざめる。玉蘭は天井を見上げると、片手の指で印を結び、「飛べっ!」と強く言い放す。その瞬間、玉蘭と雲秀の体は浮き上がり、そのまま勢いよく天井をぶち破って空に舞い上がった。「う、うわああああああーっ!!」と、悲鳴を上げた時には、雲秀の目の前には青く広い空が一面広がっている。
玉蘭お得意の飛雲術だ。そうだった、この人にはこの術があるのだから、いくらでも一人で脱出できるのだったと、雲秀は思い出す。
「お、落とさないでくださいよっ! 絶対に!!」
雲秀は遙か下で炎に包まれている公堂を見下ろしながら、必死に叫んだ。師匠のこの飛雲術が、実は大の苦手だった。最初にこの術を使われた時、落っことされた経験が体に恐怖として染みついているからだ。下が川でなければ、今頃地面に叩き付けられて墓に入っていたことだろう。
「お前がジタバタ暴れるからだ。まったく肝の小さいやつめ」
呆れたように言いながら、玉蘭は笑っている。よく言うよと、雲秀は顔をしかめて師匠の小さな体にしがみついた。
「早く……早く、下ろしてくださいよ!」
「しょうがないな」
そう言うと、玉蘭は公堂の上を一回りしてからゆっくりと庭に降り立つ。ようやく地面に足がつくと、雲秀はぐったりとしてそのまま転がった。目が回って、吐きそうだ。
「雲秀さんっ!」
呆気にとられて見上げていた悠月が、駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうに顔を覗き込んでくる彼に、なんとか笑みを作り、頷いてみせる。
「そなたの妹君は道士であったのか!」
義円も駆け寄ってきて、「いやはや、驚いた」と丸い頭を叩いている。
「いや……まあ……そのようなもので」
「私は妹ではなく、こいつの師匠だ。それに……」
腕を組んで不本意そうな顔をする玉蘭の口を、雲秀は慌てて起き上がって塞いだ。
「ああ、ええ……まあ実はそうなんです。修行中の身なのですが」
そう言うと、「ほおっ、若いのになんとも才気がある」と義円は感心していた。
玉蘭は軽く睨んできたが、面倒な説明をさせられるのはご免だ。ただでさえ、この人は人騒がせな有名人なのだ。
「それにしても……いったい、なぜ火が……」
話を逸らそうと、雲秀はすでに灰になりつつある公堂の方に目をやった。炎の中で、柱や屋根が崩れ落ち、火の粉が煙とともに舞い上がっていた。
「わからぬ、この前を通りかかった時には、すでに火が回っていたのだ……すまぬ、もっと早くに気づいておればよかったのだが……」
「いえ、おかげで助かりました。もっと遅ければ、本当に助からなかったかもしれません」
雲秀は両手を合わせ頭を下げる。玉蘭は自分は悪くないぞとばかりに、プイッとそっぽを向いていた。
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