第一章 6 人影

 翌朝、日が昇る頃にはすっかり雨も風も収まり、空はカラッと晴れていた。

 地面に残る水たまりも、青く澄んで穏やかに流れる雲を映している。軒から垂れてくる滴を眺めながら、雲秀は不可解そうな顔をしたまた突っ立っていた。廟から出てきた玉蘭は、「ふわぁ、よく寝た!」とあくびをしながら、両手を上げて伸びをしている。その姿は寝起きの猫のようだ。雲秀はまったく暢気だなと、呆れて師匠の顔を見る。


「なんだ、寝不足なのか?」

「そうですよ。師匠ほど肝が太くないんです」

「臆病者め。修行が足らんのだ。私など、虎の背中の上だって寝られるぞ」

 玉蘭はえっへんと、胸を反らす。「師匠ならそうでしょうとも」と、軽く受け流して、視線を周囲に移す。この村を訪れた時は日暮れ時だったためひどく薄気味が悪かったものの、明るい光の下で見ればただの長閑な農村だ。無人でどの家も廃屋となっているなど、言われなければわからないだろう。


「師匠、昨日……廟を覗くような人影を見たんです。誰かいるんじゃないでしょうか?」

 本当に廃村になっているのだろうか。もしかしたら、例の事件の後に誰かが戻ってきたのかもしれない。それとも、自分たちの他にも村に立ち寄った者がいるのか。

「…………それは、生きた人だったのか?」

 玉蘭がいつもより真剣な声で尋ねながら、ジッと見つめてくる。雲秀は「え?」と、動揺したような声を漏らした。


「幽鬼かもしれんぞ。半年前亡くなった村の者の魂がまだ、己が亡くなったことも知らず、村を彷徨い歩いているのかも……」

「や、やめてくださいよ。驚かすのは!」

 ゾクッとして、悪寒の這う腕を思わずさする。この人が言うと洒落にならないのだ。なにせ、玉蘭は異界と人界の境を行き来することのできる仙だ。凡人の雲秀とは違い、人ならざる者も当然見える。

 からかいがいのあるやつだとばかりに、玉蘭は口もとに手をやってククッと楽しそうに笑っていた。雲秀は「人が悪いんだから」と、眉根を寄せて額にかかるほつれた髪を手であげた。


「猿でもいたんじゃないのか? そうでなかったら、きっと虎だな。うまそうな餌がないか探していたのかもしれないぞ」

「猿はともかく、虎なら僕が声を上げたくらいで逃げたりしませんよ」

「それもそうだな。ぱっくり食べられているはずだ。じゃあ、やっぱり幽鬼だな!」

 明るい声で言われて、雲秀は「はぁ~」とため息を吐いた。

 けれど、たしかにそうでなかったとは言い切れない。暗がりの中にチラリと見えただけだ。見えたといってもはっきり見たわけでもない。何か人のようなものの影が過ったような気がしたというくらいだ。それが見間違えではないという確証はどこにもない。臆病になっていると、柳が揺れるだけで幽鬼だと思うだろう。


「それよりも、雲秀。腹が空いた。もう朝餉の時間だ」

「そうですね……」

「今日の朝餉はなんだ?」

「ありませんよ。そんなもの……」

 素っ気なく答えると、「あ、朝餉がない、だと!?」と玉蘭は大げさに驚いてふらつくように後ろに下がる。

「そんな馬鹿な……朝餉がなくて、どうしろと言うんだ!」

「我慢するしかないでしょうね。この村に茶楼なんてないんだ。それどころか、住人もいない」

 この村に来る前に立ち寄ったあの茶店まで、戻るしかないだろう。それには半日かかる。

 玉蘭は「いやだ……っ!」と、唇を噛んで涙ぐむ。

「そんなことを言っても仕方ないでしょう? この村に来たがったのは師匠なんですから」

「いやだっ、いやだっ。朝餉が食べたい。甘いものが食べたい!」

 服をギュッと握って、玉蘭はプルプルと首を横に振る。見た目通りの童女ならその仕草も可愛いと思えるが、ここにいるのは百を超えた妖怪婆――ならぬ、仙である。

 本来なら仙は数日どころか、数年、数十年食べなくても生きていける。けれど、この師匠ときたら、食い意地が張っているため我慢できないらしい。辟穀をしているところも、会って一度も見たことはなかった。


「何か探してきますけど……期待はしないでください」

 廃村になって半年も経っているのだから、食べ物が残っているとは思えない。あったとしても、腐ってしまっているだろう。運が良ければ、米か餅米、麦の粉が残っているかもしれない。竈を借りれば、煮炊きはできる。それもなければ、近くの川で辛抱強く魚を釣るしかない。しかし、運秀はそれでいいが、玉蘭は肉や魚が食べられない。

「私も一緒に行こう。雲秀だけでは頼りないからな」

 玉蘭は編み傘を被ると、上機嫌にピョンピョンと水たまりを避けて歩き出した。そして、雲秀を振り返り、「早く行くぞ」と急かす。まったくこの人はと呆れながらも、雲秀は足を踏み出した。たしかに腹に何かを入れておく必要はあるだろう。


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