第一章 4 追想

『……秀……雲……秀』

 懐かしい柔らかな声が耳を掠める。

 吐息を感じて閉じていた目を開いた雲秀は、すぐにその場所が懐かしき生家の庭であることに気づいた。広い池が鏡のように青空を移し、穏やかな心地よい春の風が木蓮の香りをふわりと運んでくる。


 四阿の腰掛けに座り、本をめくっていたところ、日当たりのよさについうたた寝していたらしい。膝の上に開いていた本はいつの間にか足下に落ちていた。それを、「もう……また、こんなところで寝て」と、身をかがめて拾い上げたのは幼なじみだ。艶々とした長い黒髪を品よく飾っている簪につい目がいく。


 十六歳になった彼女に、自分が贈った簪だった。その日、雲秀と彼女――明蓉は両家の両親の取り決めによって許嫁になった。とはいえ、結婚をするのはまだ先のことだろう。お互いまだ年若く、なにより雲秀はまだ科挙を受験する学生の身でもある。両親は雲秀が試験に晴れて合格してから、盛大に祝言を挙げるつもりでいるようだ。


 だが、雲秀にとってはそれも気が重い。なぜなら、生まれつき特に秀才というわけでもなく、勉強好きというわけでもない。雲秀の父は知県で、その祖父は中央の高官だったため、生家のある南山県ではそこそこの名士として知られていた。当然、雲秀も王家の跡取りとして祖父や父に続いて科挙に合格し、立身出世を果たすものと周囲に期待されている。


 雲秀自信、他にやりたいことがあるわけではなく、気ままにぶらぶらしているよりは、まだ私塾に通って勉強をしている方がましなように思えて、受験勉強に勤しんできた。けれど、去年初めて受けた受験はさっぱり振るわず、結果は不合格。難関の試験だけに、一度で合格できるわけがないのはわかっていたものの、やはりがっかりしてしまい、今年もとりあえず受験はしてみるものの、去年以上に勉強に身が入らなかった。こうして本を開いているのも、勉強している風を装っているだけで、真剣に覚える気などさらさら起きない。


 勉強に向いていない性格なのだと、内心では半分諦めていた。けれど、そうなると、婚儀も遠のくわけで、いつまで待たせるかわからない明蓉には申し訳ない気持ちになる。

「体が冷えてしまうわ。お部屋で勉強したら?」

 まったくしょうがない人ね、とでも言うような顔をしながら、彼女は拾った本を軽く叩いていた。そして、「はい」とその本を返してくれた。

「いい天気だったんだ」


 弁解するように言うと、彼女は「そうでしょうね」とふわりと笑う。口もとに少しくぼみができていた。それがなんとも愛らしく、ついしげしげと見つめてしまう。明蓉のことは小さな頃から知っている。彼女の家と、王家とは親しく付き合いがあって、彼女も幼い頃から両親に連れられて度々この屋敷を訪れていたからだ。そのたびに、遊び相手になっていたのが雲秀だった。彼女は最初は勝手が分からなくておどおどしていたけれど、慣れてからは何かと雲秀の後についてくるようになった。雲秀も妹ができたようで、それが嬉しくもあった。

 それがいつしかすっかり成長して、今では立派な淑女だ。会うたびに、綺麗になっているものだから、すっかり面食らってしまう。

「今日は、楊おばさんと一緒に来たのかい?」

「ええ、お母様たちは観劇に出かけるそうよ。年甲斐もなくはしゃいじゃって……なんでもめっぽう美男子のお目当ての役者さんがいるんですって。二人とも目一杯おめかししていったわ。恥ずかしいったら……」

 明蓉は腰に手をやって、小さくため息を吐く。

「明蓉も一緒に行ってくればよかったのに」

「興味ないもの。観劇なんて……それに人が多いわ」

 彼女がストンと雲秀の隣に座ってきたので、つい少しだけ横に避ける。すると彼女がパッと雲秀の顔を見た。


「あっいや……ほら。誰かに見られるとまずいだろう?」

 許嫁とはいえ、まだ結婚前だ。仲睦まじくくっついているところなんて見られたら、使用人たちの噂の種にされかねない。そう思ってのことだ。

「私は気にしないわ……でも、雲秀が気にするのなら、別に離れていたっていいのよ」

 彼女はスイッと顔を上げて答える。膝の上で揃えられた両手は薄い爽やかな青色の裳を握っていた。

「あなたのほうが貞淑なお嬢様みたい」

 明蓉はからかうように言ってクスクスと笑う。

「ちび鳩が、随分と口達者になったもんだ」

 ギュッとその鼻をつまんでやると、明蓉はまさしく鳩のように目をまん丸くする。その頬がまっ赤に染まるのを見て、雲秀は笑いながらその手を離してやった。それから、「さて」と立ち上がる。


「風が強くなってきたから、部屋に戻ろう」

「お菓子があるのよ」

 同じように立ち上がった明蓉が隣に並んで、嬉しそうに言う。「それは嬉しいな。お茶にしよう」と話をしながら四阿を出る。その途端、吹き付けた風に彼女が羽織っていた肩掛けが飛ばされてしまう。「あっ!」と彼女は宙を舞う薄いその布に手を伸ばした。けれど届かず、肩掛けは池にひらりと落ちてしまう。

「雲秀は先に行っていて。私はあれを取ってから行くから」

 彼女はそう言うと、裳の裾を少し上げて池のほうに向かう。

「明蓉、危ないぞ。後で誰かに取りに行かせれば……」


 不意に空が暗くなり、風が雨を運んでくる。咄嗟に腕で顔を庇った雲秀は、耳に届いた悲鳴にハッとする。辺りを見回しても、明蓉の姿が見当たらない。

「明蓉……っ!! 明蓉……っ!!」

 雨に打たれながら大きな声で何度も呼ぶ。動悸が速くなって、焦ったように駆け出していた。不安と嫌な予感が胸に広がった時、池の水面を漂う明蓉の肩掛けが目に入る。その周辺の水が赤く染まったかと思うと、ぷっかりと何かが浮かぶ。それが目を見開いた明蓉だと気づいた時、両手で顔を覆い、わけもわからず絶叫していた――。

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