第10話 タロット絵師との出会い
ごくごく平凡な容姿をした青年は、深い深い森の中で溜め息を吐きました。
青年はどうやら狩人のようです。服は軽装ですが、弓と矢筒を携えています。
「ふう……やっぱりこの辺りはでかいのが多いな……」
彼が弓を構えるとその先には立派な牡鹿がいました。彼の目付きが鋭く、狩人のそれに変わります。きりきり、と弓に矢をつがえ、ずばん、と放ちました。
するとどうでしょう。矢は見事鹿の脳天を射ているではありませんか。一発で仕留めるとは、かなりの腕前のようです。
「うーん、これならまあ、いっか」
それから場所を変えて血抜きをし、狩人はようやく鹿を捌こうとしていました。
もう日はオレンジに空を染めつつあります。
「ふう。まあ、血抜きにも慣れてきたかな……まあ、師匠のおかげでもあるけど……あの人、俺いなくて生活できてんのかな……」
大きな鉈を鹿に下ろそうとしたそのときです。
きぃこ、きぃこ。
こんなもう夜になりかけの森で、普段なら聞こえてくるはずのない音がしました。彼の経験則でいくと、これは荷車を引く音です。
こんなところで行商人? いえ、旅に慣れた行商人なら、こんな獣の出る森の深くに不用意に入ったりなんてしません。もし通らざるを得なくても、昼のうちに通るはずです。
こんな日が落ちた時間に狩人以外の誰が、と狩人は考えましたが、思い直します。利かん坊の子どもなら、暗くなるぎりぎりまで森で遊んでしまうかもしれません。探検なんてした日には、森の奥深くに迷い込んでもおかしくないのです。
そうだとしたら一大事、と狩人は鹿を放って音のした方へ向かいました。彼はそれなりの訓練を積んで能力を持った狩人ですから、音のした方向がわかるくらいに耳はいいですし、方向感覚もあります。すぐに場所もわかりました。
しかし、見つけた人物にきょとんとします。
それはそれは可愛らしい少女だったのです。短い鶯色の髪に赤紫のリボンをつけた女の子でした。目は不思議な色をしています。森の木々より深い緑色でしょうか。いや、でも一瞬、夕陽のような橙に見えました。まるで違う色です……と、そんなことを気にしている場合ではありませんでした。
「君」
「?」
少女がゆらりと狩人を見ます。狩人の姿を映した目は紫色に変わりました。狩人の師匠の紫水晶のようなものとも違う、ビオラのような色です。そこには疲れが宿っていました。見れば、少女は少々窶れており、あまり顔色もよくないです。荷車を引いて歩くのがやっとといった感じで、息が上がっています。
まさかとは思いますが、狩人は出た結論を口に出します。
「まさか……一人で旅を?」
「……そうだよ」
少女は弱々しいながらも、さも当然といった様子で頷きました。狩人は吃驚仰天です。頭を抱えました。
「今夜はどうするの? 次の村まで遠いよ。日没にはとても間に合わないよ」
「その辺で野宿する」
「えええええええええっ!?」
何を馬鹿なことを、という思いが前面に表れた叫びが零れました。
「いやいやいやいや、ここ森だからね? 普通に獣出るからね? 熊とか出るからね?」
「大丈夫、ボク、強運だから」
「運でどうにかなるんだったら狩人はいらないよ……」
はあ、と大きな溜め息一つ。それから狩人は少女に手を差し伸べました。
「俺はサルジェ。狩人をやっているんだ。冬籠り用の小屋があるから、そこまで案内するよ」
「……ツェフェリ」
そう名乗ると、少女は狩人の方へ倒れ込みました。気が抜けたのと……よほど衰弱しているようです。
「あー、荷車と身一つって……まあ、そうだよね……」
仕方なさそうに、狩人、サルジェは少女、ツェフェリをおぶって歩きました。
これが、狩人とタロット絵師を志す少女との出会いでした。
ぱちぱちぱち。
目を開くと、火の弾ける音がしました。ツェフェリが見たのは天井。どうやらここは建物の中のよう。起き上がってみると、外で見覚えのある青年が焚き火と向き合って何やらしていました。
何故見覚えがあるのかといえば、すぐに思い出せました。
「そういえば、森で迷ってたら人に会ったんだった」
ツェフェリはあのとき一人で野宿すると強がりましたが、その前に体力の限界が来てしまったようです。まあ、仕方ないことでしょう。ツェフェリは村を出てからほとんどまともな食事にありつけていないのですから。
教会から売れそうなものは持ってきましたが、それでもその場しのぎ程度の稼ぎにしかならず……途中、いらないものをもらって何かに使えないか、と荷車に積んだのですが、変な壷や陶器ばかりで、どこにどうやって売ったらいいのかわからず、お手上げ状態だったのです。ツェフェリの第一の目的としては村から離れたいというものだったので、まずまあ歩きました。飲み食いはいくらかしましたが、ここ数日は歩き通しです。ここは大きな森だと聞いていましたから、ここを抜けたら、一段落つけるつもりだったのですが……思ったより森が大きかったようです。
何はともあれ、あの……サルジェという青年がツェフェリを介抱してくれたようです。小屋がどうとか言っていたような気がするので、ここがそうなのでしょう。他人のものを無断で使う……ような図太い人間には見えないので、ここは彼の小屋なのでしょう。こんな森の奥深くで暮らしているのでしょうか。
何はともあれ、突然倒れたことへの謝罪と介抱してくれたことへの感謝を述べなければならないでしょう。ツェフェリはかけられた毛布を軽く畳んで避け、外へと向かいました。
ひた、と一歩踏み出して気づきます。ツェフェリは裸足でした。ブーツなどは脱がされていたようです。まあ、いいでしょう。
小屋の扉を開け、サルジェに近づきます。サルジェはそこで偶然なのか、振り向きました。ばったりと目が合ったもので、ツェフェリは思わず固まってしまいます。こういう場面……サファリ以外の男の子と二人きりという場面はなかったので、戸惑います。どんな反応をしたら良いのでしょう。
そんなツェフェリを見て、サルジェが爽やかに微笑みます。
「目が覚めたんだね。よかった」
その笑みはツェフェリが見たことのないものでした。サファリは基本鉄面皮で、商売をするときだけ笑みを貼り付けている印象でしたし、ツェフェリに[虹の子さま]と媚びへつらう人々の笑みは欲にまみれていて、見られたものではありませんでした。
サルジェの笑顔は何のてらいもないものでした。純粋にツェフェリを一人の人間として心配している顔で、回復したことを喜ぶ顔でした。
そんな顔を見るのは初めてで、ツェフェリは狐につままれたような気分になりました。サファリもツェフェリに微笑みかけることはありましたが、彼の笑みにはいつもどこか陰があって、心から笑っているようにはどうしても見えませんでした。だから、こんな屈託のない笑顔を向けられて、物珍しさにまじまじと見つめていました。
髪が短いとはいえ、ツェフェリは可愛い女の子です。肩につくかつかないかで不揃いな髪でも、ツェフェリは美しく、サルジェの目には映りました。
「え、と、そんなに見つめられるとなんだか恥ずかしいな……」
「あ、ごめんなさい」
このときサルジェは自分の中で猛烈にツッコミを入れていました。
違うだろ、そうじゃないだろ、もっと色々なんか言うことあるだろ!?
……といった感じでサルジェの頭の中もそれなりに混乱を極めていました。そう、サルジェもお年頃で、こういう年頃の少女とあまり話したことがない初な青年だったのです。
「あの、ごめんなさい」
「えっ、なんでっ?」
ツェフェリから謝られるとは思っていなかったので、サルジェはいっそう驚きます。何を謝られているのかさっぱりです。
「言うこと聞かないで、突然倒れたりして……」
「えっ? それは大して気にしてないよ? それより具合はどう? 気持ち悪いとかない?」
矢継ぎ早に聞かれ、ツェフェリは緊張から固まってしまいます。ツェフェリとサルジェは初対面です。だというのに、この距離感の近さはなんでしょう? 不快ではありませんが、びっくりしました。
「ね、眠ったから、だいじょ」
ぐぅぅぅぅ……
どこか切なげに、ツェフェリの腹の虫が鳴きました。ツェフェリは途端に頬を真っ赤に染めます。
「お腹空いてるんだろ? ちょうど鹿が獲れたから、処理してたんだ。肉は美味いし、出汁もなかなかいいんだぞー」
言うと、サルジェはお椀に鹿で作ったらしいスープを盛って、ツェフェリの前に差し出しました。丁寧にスプーンまで添えてあります。
「い、いいの?」
「ああ。味見はしたから大丈夫だ」
「そうじゃなくて、アナタの分……」
「でかい鹿だったからまだたんとあるさ。ま、積もる話は食いながらってことで」
そうして、ツェフェリはサルジェと同じ焚き火を囲って、久々の食事を摂ることになりました。
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