エピローグ




 賢者メィリスについて話すとき、我々は常に彼女の持つ側面の少なくともひとつについては忘れ去れなければならない。

 なぜと言って、彼女はあまりにも多くの顔を持っているからだ。


 もしもあなたが歴史に興味を持っているなら――少なくとも本書を手にしたのが全くの偶然でないなら――きっとそのことに心当たりがあることだろう。教科書のそっちで見た『メィリス』とあっちで見た『メィリス』が同一人物であることを教師から教えられて驚愕を覚えるというのは、いつの時代の学生も通る道だ。もしもその全くの偶然により本書のこれまでの記述があなたにその最初の驚きを与えられたなら、これはこれで、なかなか面白いことだと思う。


 それを狙って、というわけではないが、このあとがきでは本文において語り尽くすことのできなかった彼女の側面に触れることで、さらなる学習のきっかけになればと期待するところである。


 実を言うと、彼女は多くの劇の登場人物にもなっている。たとえば『カルベリオ大公爵の契約結婚』。あれに出てくる『メィリス』はまさに彼女のことだ。この情報から必然的な理解が得られると思うが、カルベリオ大公爵にまつわる劇に現れる『メィリス』は全て彼女のことである。


 また、そうなるとふたりの最初の接点――最後の〈光継式〉についても触れなければならないだろう。

 本文中では賢者メィリスの最初の功績として、前巻においては賢者ロディエスが唯一後世に託した空前絶後の大事業として、あるいはこの『賢者の塔』シリーズに通底するテーマである『魔法技術で人々を救うとはどういうことか』を象徴する出来事として触れたところであるが、実を言うとメィリスは、ここでも別の顔を備えている。『最後の聖女』は、彼女の妹だったというのだ。


 血縁関係があったかは定かではない。また、賢者メィリスを巡る古い記述の中では、メィリスでなく妹が聖女に選ばれたというただ一点から『ふたりは不仲であった』とするものもあった。


 しかし近年になって、非常に面白い事実が発覚した。賢者メィリスは劇作家としての顔も持ち、なんと我々もよく知る、ある非常に有名な戯曲を手掛けていたのである。


 奇しくもその戯曲は、最後の〈光継式〉を舞台にしたものだ。


 ここまで言ってしまえばピンとくる読者もいることだろう。決して作家の手がけた劇の内容が作家自身の考えを表すものではないと文学者たちはしきりに口にするが、しかし百聞は一見に如かず。論文にせず、これが真実であると偽らず、心で思うだけなら、想像だって歴史の楽しみ方のひとつだ。


 ぜひあなたの目で直に確かめてみることで、賢者メィリスの時代に想いを馳せていただきたいものである。



 その戯曲のタイトルは――――





『大陸偉人伝 賢者の塔② 浮かれ者たちの時代』あとがきより】







 少しずつ日が高くなり始めた頃は焦りの気持ちも多分にあったが、飲食店が表に看板を出し始めたあたりから一周回り、アルセア・クィルテリアは奇妙な落ち着きの境地に入っていた。


「おねーちゃん! また遊ぼーね!」

「こらっ! 『また遊ぼう』じゃなくて『ありがとうございました』でしょ! すみません、うちの子が……」


 大陸には、フランタールと呼ばれる土地がある。

 その中で最も栄える街――と言ってもまだまだ王都とは比べ物にならないけれど、それでも多少は賑わった真昼の通りに、彼女は立っていた。


「もう、胸が潰れるかと思って。本当にありがとうございました、この子を連れてきていただいて……」

「いえ。私も楽しかったですから。また遊ぼうね」

「うん!」

「ああ、すみません。すみません……」


 ぺこぺこと頭を下げる母親に、もう一度「いえ」と慌ててアルセアは言う。反省の色のない子どもにはきっと後で母親からの雷が落ちるだろうけれど、一応自分からもと思って、


「でも、お母さんからはぐれちゃダメだよ。危ないからね」


 きょとん、とした顔をその子はした。

 それから、手を握った先の母親を見上げて、


「危ないの?」

「危ないの! あのね、外をひとりで歩いてたりしたら怖いおばけが――」

「いるの?」

「……いないけど」


 意気を落とした母親に、少しの笑みが零れそうになる。けれどすぐに、あまり笑っていいことでもないなと思ったから、


「こわ~い人はいるかも。さらわれちゃうよ」


 屈み込んで、がお、と手を開いたり握ったり。

 それでもやっぱり、きょとん、とした顔をその子はしていた。力不足を認めて、アルセアはヴァイオリンケースを手に素直に立ち上がる。


「それじゃあ、私はこれで。良い一日を」

「あ、よろしければお礼に何か――」

「お気持ちだけで。これから待ち合わせなんです」


 はにかんで伝えると、今度は母親もきょとん、とした顔をした。子どもとそっくりの顔で通りを見る。空を見る。何かを思い出すような間があって、


「すみません! それなのに随分長いこと、この子に付き合ってもらって……」


 不安が顔に出ていたから、明るく笑ってアルセアは応える。

 大丈夫ですよ。待ち合わせより早めに着くつもりでしたし。それに、



「親しい相手なので、このくらいなら怒りもしないと思います」






 結論から言うと、ちょっと怒っていた。

 新しくできた噴水広場のカフェテラスからこちらに駆けてくる彼を見て、アルセアが最初に気付いたのはそれだった。


「心配しましたよ。待ち合わせの場所にいないから」

「…………」

「何をニヤニヤしているんですか」


 ちょっと嬉しい怒られ方だったから。

 とは、まさか言えない。アルセアは口元を押さえて俯いて、「いや……」と短く言って、様々なものを誤魔化す。それ以上は追及してこないから、彼の取っておいてくれたテラスの席に、ふたりで歩いていく。


「待ち合わせの場所を間違えたのかと思って、あちこち行ったり来たりしてしまいました」


 空いた椅子にヴァイオリンのケースを置きながら、あれ、と思う。街の時計塔を確かめた。待ち合わせの時刻から十分程度。そこまで大きな遅れではないし、あちこち行ったり来たりするほどの時間はなかったのではないかと思う。


 そういうことを、伝えると。


「いつも一時間前には来てるじゃありませんか」

「――はあっ!?」


 恐ろしいことを平然とシグリオが口にしたから、思わず椅子の足がよろけるほどに驚いた。


「な、何っ。その、甚だしい言いがかりっ」

「……ああ。それじゃあ、そういうことにしておきましょうか」


 何が「そういうことにしておきましょうか」だとアルセアは思う。それではまるでいつも自分が待ち合わせの一時間前に着いているのは事実で、渋々それを見ないふりをしてくれているような言い草ではないか。


 事実だ。

 いつも、一時間前には着いている。


「なんっ、知って――」

「前にも言ったじゃありませんか。別に私は時間ぴったりに来ることを自分に課しているわけじゃありません。大抵いつも、十分前には着いていますよ。それなのにいつ来てもあなたが先に待ち合わせ場所にいるものだから――ああ、どうも」


 あらかじめ頼んでおいたのだろう、紅茶がテーブルに届く。店員がそれを並べてくれるのを見つめながら、内心でアルセアは羞恥に悶えている。


 知られている。どう考えても。

 その一時間前に着いた自分が、緊張を和らげるために街角で演奏をしていることまで、絶対に。


「……来てるなら。なんで声、かけないの」

「ルーティーンがあるなら邪魔をしては悪いかな、と。それに、あなたのヴァイオリンの音色も好きですし」


 シグリオはカップをつまむ。涼しい顔で口へと運ぶ。これはひょっとして、とアルセアは思った。さっきの怒りと地続きだろうか。遅刻をした罰として、見られたくないところを実は思い切り見られていたということを面と向かって打ち明けられているのだろうか。


 最近、多分これが得意なのだろうなと思うことがアルセアにはひとつある。


「……シグリオ。辺境伯と似てきたね」

「――んっ、ごほっ!」


 逆ギレ。


 けほけほとシグリオが後ろを向いて咳き込む。アルセアはそれに交代するように紅茶に口を付ける。随分歩き回ったから、喉が渇いていた。ソーサーの上にカップを下ろしたとき、思った以上に嵩が減っていた。


 シグリオが咳き込み終えて、こちらを向く。

 不毛な争いはやめましょう、という顔で、


「ちなみに、今までは何をされていたんですか」

「迷子がいたから、一緒にお母さんを探してた」

「ああ……最近、工事が多くて街並みも入り組んでいますからね。お疲れさまでした。すみません。変に突っかかってしまって」


 ううん、こっちこそ遅れてごめん。

 そう口にしながら、アルセアは思っている。逆ギレが上手いのも考えものだ、と。こういう形で平和を取り戻す経験を積んでしまうと、のちのちに悪い影響を及ぼしそうだ。封印しよう。たまに会ってたまに話すくらいの距離感ならともかく、そう遠くないうちに、


 そう遠く、ないうちに。


「――お客さん、どれくらい来るかな」


 あまり考え込みすぎると、また緊張してしまう。

 そう思って変えた話題の先は、これからふたりで向かうところ。


「相当来ると思いますよ」

 それを知ってか知らずか、あっさりとシグリオは答えてくれた。


「題材が注目を浴びているのもそうですが、王都の方で……」

「大公爵?」

「ええ。後援はあの方ですからね。方々で言いまわっているみたいですよ。『稀代の天才作家を手に入れた!』と」


 くすり、と彼が笑ったのは、どちらかと言うとその大公爵のはしゃぎぶりを想像してのことではなく、自分の顔を見てのことだったのではないかとアルセアは思う。また出してしまったのだろう。当然、という表情を。


 それからほとんど遅れずに、その客入りが何を意味するのかを理解して、ちょっとした憂鬱がぶり返した。


「……行かなきゃダメかな?」


 手渡された二枚のチケットと、そこに記されたタイトルのことを思い出す。

 よければどうぞ、といつものように素っ気なくメィリスが渡してくれたときは、思わぬプレゼントに喜びもしたけれど。


 冷静になってみれば、


「やはり気恥ずかしいですか」

「逆に、シグリオは?」


 ちら、とシグリオは周囲を見た。紅茶のカップを置く。実は、と声を潜めて、


「相当。最後まで顔を上げて見ていられないかもしれない」


 あまりにも深刻な言いぶりだったから、あはは、と声を上げてアルセアは笑ってしまった。釣られたように、向かいでシグリオも笑った。


 笑ったら元気が出た。いつものことだ。別に、ひとりだけでそこへ向かうわけじゃない。時計を見る。まだ開演まで時間はあるけれど、それこそ時間ぴったりに現れる必要なんてどこにもないはずだ。


「そろそろ行く?」

「そうしましょうか」


 ヴァイオリンケースを手に、ふたりは席を立つ。テラスから劇場まではそれほど遠くない。この賑やかな大通りを真っ直ぐに歩いていくだけだ。


 持ちましょうか、と左に立つシグリオが言った。

 平気、と答えながら、ふとアルセアは左の手が空くことに気が付いた。


 もう一度言うと、劇場まではそれほど遠くない。

 この左の手をどうするかを決めるだけの時間も、それほど長くはない。


 テラスを離れる。雑貨屋を過ぎる。長くやっているカフェテリアも同じく。その先には建設途中の空き地があって、その傍で子どもたちが次に何が建ってくれたら嬉しいかを議論している。旅装の老人が目を細めて通りの景色を眺めている。街の掲示板の前まで辿り着いたら、どうやら自分には勇気がないらしいと薄々気付いてしまう。


 それでも、と。

 手の甲を重ねるくらいならと、左の手を持て余していると。


 ぱっとその手が、向こうから取られた。


 じ、と見つめたのはその手ではない。その手を取ってくれた人の顔。如才のない笑みを浮かべて、けれどほのかに戸惑いのようなものも覗かせて、


「……こういうことで、合っていますか?」


 合っているとも、合っていないとも言わないまま。

 アルセアはその手を強く握り返して、ほんの少し大きく、それを振った。



 ふたりが通り過ぎる掲示板には、一枚のポスターが張られていた。

 それは、演劇の初回公演を知らせるポスター。つい最近に行われたばかりの世紀の大偉業の、しかしもっと個人的な部分に焦点を当てた劇。


 春の風に揺れる。


 ポスターには大きく、そのタイトルが書かれている。





『君を愛することはない、とふたりは誓ったけれど』





(了)

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君を愛することはナイト quiet @quiet

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