12話ー① 聖女と聖騎士



 剣の才能がある、と言われたことを覚えている。

 それが理由ですか、と訊ねれば、いいえ、と辺境伯は答えた。


 魔法の使い方が上手い、と言われたことを覚えている。

 だから私にしたのですか、と訊ねれば、いいえ、と辺境伯は答えた。


 計算が早い。いいえ。


 覚えが良い。いいえ。


 同じ失敗を繰り返さない。いいえ。


 笑顔と佇まいが人好きする。いいえ。


 背が高い。いいえ。人を頼れる。いいえ。人の話を根気よく聞ける。いいえ。物怖じしない。いいえ。引かない。いいえ。逃げない。いいえ。諦めない。いいえ。いいえ。いいえ。いいえ――



「では結局、どうして私を選ばれたのですか?」



 訊ねたのは、どんな日だっただろう。記憶の中には光が溢れて、眩くて、どんな顔をしていたかなんてとても思い出せそうにない。覚えているのは、そのとき辺境伯の指がゆっくりと動いたこと。その指の一本が、指し示したもののこと。



 流しに捨ててしまった水。


 空になったコップ。






 どんな気持ちだったのだろう、と最初に頭を過ってしまった。

 恥ずべきことに、とすぐに思ったのも、また恥ずべきことだったのかもしれない。


「そ、れは――」

 言葉を紡げなかったのは、メィリスから言われたことを呑み込むのに苦慮していたからではなかった。むしろ呑み込めていたから。呑み込んで、その上で、


「ええ。考え得る限り、最小限の犠牲です」


 それが最善の方法だと、わかったから。


 理解した上で彼女が――聖女様が、アルセアが選んだのだと、わかってしまったから。


「調律自体は恙なく終わると思います。あの巨影に〈影獣〉の構成素の多くが集中していますので、これ以上は大型の増援もないものかと。こちらが自主的に大崩れすることがなければ、他に死者を出すことなく終えることも可能でしょう」


 やはり淡々と、メィリスは言う。

 それから彼女は、集中のためにいつの間にか瞑っていたらしい瞼を開ける。顎を上げて、遥かな塔を見つめる。


「驚きました。彼女はおそらく、この千年で最も『聖女』に適した人物でしょうね。光の魔法の実用にかけては、賢者ロディエスすら凌駕しているかもしれません」


 何を他人事のように、と激高することができなかったのは。

 同じく自分もまた、それを『他人事』として捉える立場にあると、自覚していたからなのだと思う。


 戦局は優勢に傾き続けていた。巨影は動かない。大型を討伐し切って浮き駒になった辺境伯率いる遊撃隊は、次々に中庭の苦戦箇所を巡り、事態を解決している。特に大公爵の敷いた陣はもはやほとんど〈影獣〉を討伐し切り、後は散発的に湧いてくる後続を〈現象層〉に出現した端から斬りつけるだけだ。


 このまま行けば、確実に勝てる。

 儀式は完遂される。世界は救われる。


「どうにか、」

 ただひとり、その犠牲さえ許容できるなら。


「どうにか、ならないのですか」

「何がですか」

 返された言葉は、跳ね除けるように鋭い。けれど一度口から出た言葉は、もう止まらない。


「聖女様です。どうにか彼女が、生きて儀式を終えることはできないのですか」

「できますよ。儀式を止めればいい」


 本当に簡単なことのように、メィリスは言った。


「直接塔を上ることはこの場にいる誰にもできませんが、中庭の総員で攻撃すれば塔を壊すことくらいはできるでしょう。そうなれば聖女様も落下されると思いますので、そこを捕まえて保護すればいい」

「その場合、儀式はどうなるのですか」

「当然失敗に終わります」


 ただしここで止めるということは、と。


「三つの従基の調律を終えた段階での中断とは大きく異なります。少なくともあの巨影は必ず顕現しますし、一体では済みません。十年後には人類も百人くらいは生き残っているかもしれませんが、後は滅びを待つだけでしょうね」


 結局、とシグリオは思う。

 この状況に陥った時点で、全てが決まっていた。もはや選択肢などどこにもない。選ぶことなどできない。


「――あなたは、」

 口からついて出た言葉は、八つ当たりのようでもあったし、慰めのようでもあった。


「あなたはそれで、いいのか」

 ひょっとしたらそれは、自分に向けた問いかけだったのかもしれないけれど。

 代わりにメィリスが、答えにしてくれる。


「彼女が選んだことですから。私からは、何も」



 気付いたのは、また選ばれたということ。


 選ばなくてもいいように、彼女が先に、選んでくれた。






 いつの間にか自分がこれだけの力をつけていたことに、アルセアは感動の念すら禁じ得ないでいる。〈光玉・エルニマ〉を覆う暗雲に向けた光の魔力は、少しずつ、雨滴が地面を抉るように進んでいた。確実に儀式は完遂へと向かっている。もう、それほどの時間は要らないようにすら思う。


 けれど、それほどの時間が自分に残っているわけでもないと、わかってもいる。


 身体に力が入らなくなってきた。今はまだ座っていられるけれど、そうできなくなるのも遠い未来の話ではないだろう。倒れるなら仰向けがいいから、今から少し姿勢を整えておかなくてはいけないかもしれない。


 ついさっき、調律の最中にメィリスの気配を感じた。

 そのことをわずかに、頭の端でアルセアは考える。


 気付いただろうか。気付いただろうな、と思う。メィリスはこっちが気付いてほしいことにはあまり気付いてくれない人だけれど、どうでもいいところだけよく気付く人だ。そして素直で公正な人だから、訊かれたら答えてしまう。シグリオも今頃、自分が何を選んだかを知ったことだろう。


 どんな気持ちになっただろう。


 わかってくれるだろうな、とアルセアは思っている。きっと逆の立場だったら、シグリオもそうしただろうから。ひとつだけを失うか、他の全てを失うか。そんなの比べるまでもない。ましてその『ひとつ』が自分なら、なおさら。


 誰だって、こうするはずだから。

 自分の中に後悔はない。けれど。


 少しだけ、気にかかることがあった。こんな騙し討ちのようなことをして、シグリオは傷付いたりしないだろうか。


 世界を救うだ何だと言ったって、結局人が認識できる世界なんて、自分の目で見た範囲でしかない。そのことをアルセアは身をもってよくわかっている。教会学校にいた頃は教会学校の中だけが、聖女として儀式をこなしている間は教会の中だけが、彼に連れ出されればフランタールの領地のごく小さな一部だけが、手紙を読むようになればその手紙に記された範囲の生活だけが、自分が認識できる世界の広さの限界だった。


 だから、世界を思うのと大して変わらない深刻さで、彼のことも心配してしまう。傷付くだろうか。悲しむだろうか。できることなら――


「……ふふ」

 洩れ出したその考えに、自分で笑ってしまう。白々しい祈りで、言い訳だ。自分でわかっている。



 本当は少しだけ、傷付いてくれたらいいなと思っている。

 思った以上に、好きになったみたいだから。



 聖なる人には程遠い。自分で思いはするけれど、見た目には十分きっと、聖女らしいだろうから。


 さらにアルセアは、力を込める。

 光は、加速していく。






「おお――」

「光だ!」


 声に、ゆっくりとシグリオは顔を上げた。すると見える。塔の上。わずかに光の気配がある。それが少しずつ強くなっている。雨の日に街灯の明かりが、雲を下から照らすように。


「〈現象層〉で光の魔力が優位を持ち始めました。後はこの光が〈魔法層〉まで貫けば、儀式は終了します。この段階になると〈パラ・センス〉の解除も可能ですが、」


 必要なさそうですね、と唇は動いたのだと思う。

 けれどメィリスのその先の言葉を耳にできなかったのは、それよりも遥かに大きな声が辺りに響き始めたからだ。


「勝てるぞ!」

「〈光継式〉は成功だ!」

「聖女様万歳!」


 誰が言い始めたのかもわからない。確かなことは、それが伝播するだけの理由があったこと――その言葉を誰もが口にしたがっていたということ。


 それはあまりにも残酷な構図だったから。

 剣を握る手から、力が抜けていく。


「――若! 若、そっち!」

 その声が聞こえてこなければ、ひょっとすると取り落としさえしたかもしれない。弾かれたようにその方向を見れば、小型の〈影獣〉が飛び掛かってきていた。


 一閃。

 遅れて、その声の主が駆け寄ってくる。


「平気ですか!?」

 ニカ。彼が、ひどく心配そうに、扱いにだって慣れていないだろう長剣を握って。


「お疲れだとは思いますが、もうひと踏ん張りです! 元気な姿で聖女様をお迎えしましょう!」


 ぐ、と彼は片方の拳を握る。気遣って言ってくれたのだろう。よくわかる。けれど、よりにもよってだった。残り十分。


「……若?」

「――そうだな」

 その言葉があったから、もう決めなくてはならないと思った。


 張り上げる声のための、言葉を選ぶことにした。メィリスから聞いたことを全て口にする必要はない。士気を下げないように。もう十分を耐えればそれで勝利だと、最後の活力を与えるために。


 諸君、と聖騎士は、声を張り上げようとした。


「待って」

 その手を、ひとりの従者が引いた。


 驚いて振り向く。真剣な顔をした彼は、目が合うと不意に、力を抜いたように微笑む。諦めたような、呆れたような顔。


「なんだ」

「……見ればわかるよ。長い付き合いだもん」


 忘れ去られていた話し方。初めて剣を握った日を、彼を逃がすために〈影獣〉の前に立ち塞がった日を最後に――彼が従者志願として辺境伯の館に現れてからずっと聞いていなかった声音で、言葉は続く。


「全てを訊いたりはしないよ。僕はただの従者だし、君は聖騎士だ」


 でも、忘れないで。

 そう言って彼は、シグリオの手を握って、


「君は、シグリオ・『フランタール』なんだ。寄る辺なき人々の全ての願いを背負う人。僕たちの剣。盾。願い。希望。だから――」


 だから、と。

 彼は相手を信頼し切ったような、清々しい笑顔で言う。



「ひとりじゃないよ。忘れないで」



 それだけです、とニカが離れていく。戦場へと帰っていく。士気は高い。空が白んできている。〈パラ・センス〉がなくとも状況がわかるようになったのだろう。遠くの街から巨影へのどよめきと、それにも負けないくらいの祈りの声が聞こえてくる。


 過去のことを、シグリオは思った。初めて剣を握った日。その理由。


 もしもそれが、皆の願いと同じなのだとしたら。

 それは、どれだけ幸福なことだろう。


「……メィリスさん」


 小さく、シグリオは彼女に呼び掛ける。訊ねた。その願いを叶えるための方法を。


「本気ですか」

「本気になるかもしれません」


 シグリオ・フランタール。

 選ばれた『もうひとり』は自分の名を深く、深く心の中で唱えている。


 小さく、メィリスは頷いた。


「理論上は、確かに可能です」

 その言葉だけでもう、シグリオには十分だった。


「諸君!」

 この中庭のざわめきの中でも一際耳を引く声。手の空いた者が一斉に自分の方に向き直るのを見て、シグリオは思う。そういえば「声が通るからですか」と訊ねたこともあったなと。


「残り十分だ! その巨影が動く暇もない! 聖女様のご尽力のおかげで、この〈光継式〉は無事に終わる!」

「おお――」

「流石は聖女様!」

「聖女様万歳!」


 喜びの声が中庭を包む。歓喜は力に変わる。兵はさらに力強く〈影獣〉を押し切る。勝利は揺るがない。



「聖女様の命と引き換えに、だ!」

 わざわざ天秤を、もう一度傾けない限りは。



 そのとき向けられた全ての視線に、ふとシグリオは思うところがあった。初めからだったのかもしれない。自分がこの選択を最後まで取っていたのは、この選択の意味を知っていたからなのかもしれない。これを口にすることの意味を、こうして言葉にしてしまえば何が起こるのかを知っていたからなのかもしれない。


「だが、」


 フランタールに生まれた者ならば、誰だって知っている。

 結局のところ人はみな、同じものを願っている。



「そんな未来で、満足か?」



 天を揺らすような大音声が響き渡る。

 泣き出したいような、笑い出したいような気持ちで、シグリオは剣を握る。



 思い出した。

 誰にも、死んでほしくなかったのだ。


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