11話ー② 誰かの明日へ続く道



「――〈パラ・センス〉」

 空から星が消えたのと、その起伏のない声が響いたのは全く同時のことだった。



 凄まじい魔法だ、とシグリオは思わざるを得なかった。自分の話を参考にしたと聞いているが、まるで比較にならないほど洗練されている。全く視覚に支障はなく、むしろ中庭に集う兵たちが戸惑ったのは、一切の光がないにもかかわらず『いつものように見えている』という奇妙な体験によるものだっただろう。


 寸分の狂いもなくそれが展開されたから、その戸惑いがあってもなおシグリオたちは、奇襲のはずだった〈影獣〉を待ち構えて迎え撃つ形になる。


「若! 大型が二体です!」

「焦らずに行くぞ! 我々の作戦目標は『討伐』ではなく『防衛』だ! 聖女様が儀式を終えるまでの時間を稼ぐことに集中しろ!」


 応、と。

 先程までとは打って変わって、兵たちは勇猛な声を響かせて、その指示に応える。


 シグリオはぐるりと戦場を見渡した。観察。確かに報告のとおり、大型は二体。一体は目の前。もう一体は、


「――よし」

 小さく安堵の息を吐いたのは、それが大公爵の敷いた陣の近くに出現し、また辺境伯がそのカバーに向かう姿を目撃したからだった。


 都合の良い場所に出現してくれた。シグリオが立つこの塔の目の前を除けば、中庭で高い戦力を備えているのはあの場所だ。〈パラ・センス〉のおかげで視界も確保できている。大公爵であればあれを抱えて処理することは可能だろうし、辺境伯がいればそう戦力を削られることもない。


 他の戦場も、ひとまず初動で大崩れを起こしている様子はない。

 となれば、とシグリオは手の内に魔力を込め始めた。


「大型を先に片付ける!」


 このまま終わってくれるのが一番望ましいが、最後の儀式だ。何が起こるかわからない。ゆえにシグリオは後の懸念になりそうなものを今の段階で排除することに決めた。


「三つ数える、飛びのけ!」

「は!」「了解!」

「三、二――」


 一度戦ったことのある相手だ。

 二度目は、歯牙にもかけない。


 一、で兵が退避したのを確かめて。

 シグリオは、その剣を振る。


「――〈氷砕〉!」


 皮と肉を舐め取るのは、あの雨の日の水の嵐と同じ。

 けれど今度は、氷の礫が続くから。



 凄まじい破砕音が響いて、骨も残さない。






 自分でも笑ってしまうような話だけれど、アルセアはここ二ヶ月、ずっと走り込みをしていた。


 大聖堂の奥にある主基のためのこの聖塔は、これまで巡ってきた従基の塔よりも遥かに広く、高い。だから塔の頂点に辿り着くまでの時間を短縮すればするほど、塔の外で防衛をしてくれる人々が楽になると思ったのだ。


 剣を振るだの盾を構えるだのができるわけではない。けれど目一杯足を動かして走るくらいは教会学校にいたってすることはあるし、そんなに嫌いな方でもない。初めに「屋敷の周りで走り込みをしていいか」と訊ねたときシグリオはもの言いたげな顔をしていたけれど、最終的には時々、時間の空いたときには護衛も兼ねて一緒に走ってくれるようにもなった。


 おかげで、今は。

 これだけ高い塔にも物怖じすることなく、懸命に足を動かすことができている。


 塔の中はやはり足を踏み入れた瞬間、あの暗闇に包まれた。

 けれどもう足をひっかけたり、振動に体勢を崩したりして転んでしまうこともない。〈パラ・センス〉。メィリスがきっと外でかけてくれているであろう魔法は、この塔の中にまで及んでいるから。


 光の届かない吹き抜けの塔。入り組んだ通路。螺旋の階段。

 初めはもう少し、息を整えながら進むつもりだった。


 けれどアルセアの足はどんどんと高く上がり始める。腕の振りが大きくなっていく。苦しくはない。吸い込んだ息が一瞬のうちに肺を満たす。力がどんどん湧いてくる。足の裏が階段を蹴り抜くたびに身体が軽くなる。向かい風が額に当たって、余計なことが全部どこかに置き去りにされていく。


 最後の最後だから、何も心に残したくなかったのだと思う。


 一年前、これまでの自分をすっかり変えてしまったこの道は、二度目にはひどく短いものに感じられた。少しずつ頭の上にある空気の重さが減っていく。そのことを名残惜しく思うくらいには。もっと走っていたかった、と思うくらいには。


 けれど、進めば必ず辿り着く。

 あの日ヴェールを投げた場所。全てが始まった場所。


 塔の頂上。


 息を吸う。吐く。天窓は黒く塗り潰されている。言葉にすることも、思うことも、全てここに至るまでに済ませてきた。


 だから、もういい。






「始まった」

 メィリスの呟きは、シグリオに閃いたその直感に根拠を足してくれた。


 戦況は優勢だった。大型の片割れをシグリオが出現直後に破壊し、残ったもう片方も大公爵の一撃によって大きな損傷を受け、それを辺境伯が抑え込んで完全に無力化している。粘り勝ちを目指す戦場。怪我人こそ目に付くものの、戦力の低下に直結する重傷者はいまだほとんどない。


 だからこそ、伝えるべき言葉があった。


「全員警戒! 聖女様が〈光玉・エルニマ〉に魔力を注ぎ始めた!」


 何度も煮え湯を飲まされてきた。


 一連の儀式の中で、予想したとおりに済ますことができたのは二の従基に対するものだけだ。後は必ず、こちらの予想を上回る脅威が出現する。大型が二体に増えたのをそのうちと捉えて「これ以上はない」と考えられるならさぞかし心は安らぐだろうが、しかしこの大詰めに至って、シグリオはそれほど楽観的ではいられない。


 必ず、何かがある。

 果たしてその懸念は、杞憂で終わってはくれなかった。


「若! 何か巨大な――」

「展開しつつ距離を取れ! まずは見定める!」


 その光景に、シグリオは覚えがあった。


 いつまでも影が蠢き終わらない――先の秋に見た光景でもあり、つい先程に目撃したものでもある。大型の形成過程。想像していたより長い。危惧していたより濃い。恐れていたよりも、遥かに大きい。


「――ひ」

 誰かの唇から、声が洩れた。


 そのことをシグリオは責めない。どころか、この世の誰だって責められまいと思う。


 こんなものを見れば、誰だって。

 自分だって、怯えて叫んでしまいそうになる。




 塔よりも背が高い、どころではない。


 天を覆い隠すような、吞み込むような、途方もなく巨大な影がそこにあった。




「――――」

 この場で聖騎士が遂行すべき最大の役割は、決断を下すことである。

 それがわかっていてなお、シグリオは次の言葉を発することができなかった。


 影を取り囲んでいた兵たちが、じりじりと後退していく。地面に接しているのだからあの部分は足だろう。それだけで、ここにいる全員を踏みにじるには十分。雲のある夜ならその頭は途中で見えなくなっていたに違いない。倒れ込めば街の十分の一は一息に破壊され、腕を振り回せば王城まで瓦礫が吹き飛ぶだろうと想像できる。


 こんなものにどうやって抗うのだ、という思いと。

 ここで抗い切れなければ、これほどの獣が大陸に解き放たれていくこともありうるのだ、という恐れ。


「――臆するな!」

 かろうじて口に出したのは、そのふたつの思いと葛藤が生み出した、苦し紛れの言葉だったのだけれど。


 しかし結果として、それは適切な呼び掛けだったことになる。

 気付く。


「落ち着け! 相手は動いていない!」

 緊張と沈黙が支配する戦場で、シグリオの言葉は雷のように遠く響いた。


 たしかにその影は巨大だった。けれど、いつまでもその形を明確にしない。 

 そしてそれは単に形を取るのに時間がかかっているというわけではないように見えた。体積の膨張が止まっている。影は集まり切っている。けれどその影は影のまま、獣になって地に降り立つことがない。


 動かない。

 あれだけの影が硬直したまま、声のひとつも発さない。


「魔法隊。今のうちに大魔法の準備を始めろ。即時発射に対応できるように!」

「りょ、了解!」


 指示を飛ばしながら、目の前の状況が意味するところをシグリオは考える。これはこちらにとって僥倖であるのか、それとも爆発する前の燻りに過ぎないのか。できることなら前者であってほしいが、対応策は常に望ましくないもののために考えられるものだから、


「メィリスさん」

 専門家に、問いをかける。


「あれが何か、わかりますか」

「ここから見た限りでは、私も何も。お許しいただけるなら〈パラ・センス〉を用いて塔の中の状況を観測し、適切な意見を具申するための情報収集をします」


 迷いは一瞬だった。

 今更のことだ。彼女の使う魔法はすでに塔の中のアルセアにまで影響を及ぼしている。神聖なる儀式の場に、なんて寝言はもはや誰も口にはしまい。


「お願いします」

「承知しました」


 く、と彼女の周囲に渦巻く魔力が一段、さらに濃くなった。

 それを目掛けて小型の〈影獣〉がいくらか飛び掛かってくる。剣を二度、振るまでもない。目の前のあれと比べるべくもない。ただの一振りでそれらを両断し、まだシグリオは巨大な影から目を逸らさない。


 びくり、とメィリスの肩が震えた。


「何かわかりましたか」

 彼女ほどの人物に走った動揺。そのことに心を乱されそうになりながら、しかしこの場の指揮官として冷静を装ってシグリオは訊ねる。すると彼女は普段の通りに直截に、


「結論から申し上げると、あの影に危険はありません」


 そこから先に何も言葉が続かなければ、どれだけ気が休まったことだろう。けれどさらにメィリスの唇は動く。


「〈光玉・エルニマ〉は事前の想定を遥かに上回る出力に到達しています」

「その反発作用があの巨影ですか」

「はい。しかし巨大すぎるがあまり〈魔法層〉と〈現象層〉の間を通り抜けるのに時間を要しています。自律行動を始めるまで、推定時間は十五分」

「儀式が終わるまでの時間はわかりますか」

「推定十二分」


 ということは、と。

 ひとつの考えが、シグリオの頭を過った。


「アルセア様次第では、このまま小競り合いを続けているだけで儀式は完遂されるという認識でよろしいですか」

「ええ、合っています」


 メィリスは頷いた。

 けれどやはり、言葉は続く。



「ただしこの出力の〈光玉・エルニマ〉に対応する魔力を放出した場合、聖女様の命は確実に失われます。本人には、わかっていたことだと思いますが」



 この場で聖騎士が遂行すべき最大の役割は、決断を下すことである。


 中庭のどこかから、辺境伯がじっとシグリオを見つめている。


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