11話ー① 誰かの明日へ続く道



 最後の儀式は、冬の真夜中に行われる。

 だからその日、中央聖堂の一室でアルセアが目を覚ます頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 顔を洗う。服を着替える。髪を整える。ひととおりのことを済ませてから、窓辺に置いた椅子に腰かける。


 光が、街にぽつぽつと溢れている。

 窓に鏡のように映る部屋の向こうに、アルセアはその明かりを見ていた。


 指先に触れている。包帯が取れた。痛みもない。きっと、ほとんど元の通りに動かせるようになっている。けれどテーブルの上に置いた楽器に、彼女が手を触れることはない。


 できる限りのことはやったつもりだし、このまま行けば何の問題もなく儀式をこなせるはずだ、と思っているけれど。


 もしいつものように練習曲を奏でることができなければ、やっぱり少しだけ自信が損なわれてしまうだろうから、やらない。


 指先から手を離す。

 鏡の中で、自分が微笑んでいるのをアルセアは見つけた。


 ふと心に浮かんだ思いがある。自分はいつの間に、こんなに背丈が高くなったのだろう。こんな風に笑うようになったのだろう。自分の人生の中に、自分の知らない時間があったような気がする。自分が思う自分とは、すっかり違う誰かになっているような気がする。


 それを成長と呼んでいいのなら、何とも頼もしいことだと思う。


 鏡の中の聖女様に、アルセアは微笑み返した。


 椅子から立ち上がる。空気が冷たかった。儀式のことを思えば、魔力はできるだけ温存した方がいい。入口の近くにかけておいたコートを羽織る。それから少し考えて、やっぱりそれを脱いで、部屋の扉をそっと開けた。


 もしかしたらと思ったけれど、やっぱりそこにいたのはその人ではなかった。


 熱石が余っていたらもらえないか、と訊ねた。護衛はもちろんもちろん、と言ってポケットからそれを取り出す。もし足りないようでしたら机の引き出しの中にもいくつか予備がありますからね、と微笑みかけてくれる。それなら、とアルセアはその護衛の分を断って、頭を下げて丁寧に礼を言って、扉を閉じる。引き出しを開ければ、確かにそこにいくつかの熱石が置かれていた。


 机の傍に立って街を見下ろしながら、アルセアはそのうちのひとつを握る。じんわりと手のひらが温かくなる感覚に心を向けながら、思い返すのはあの夜のこと。



 もしかしたら「あなたが聖女でよかった」と言ってくれるかと、期待していた。



 結局、とアルセアは思う。メィリスを相手に姉さん姉さんと発揮していたような甘え癖は、最後の最後まで治らなかった。むしろやたらに周りから持て囃されたこの一年を経て、悪化したとすら言えるかもしれない。


 さっきだって、ちゃんと部屋の中を調べれば扉を開ける必要もなかったのに。

 扉を開ける口実が欲しくて、それをする前に動き出してしまった。


 顔を上げる。

 そんな甘え癖なんて何も関係ないというような澄ました顔をして、窓の向こうに自分が立っている。


 それならいいか、と静かに目を閉じた。


 大事なのはきっと、「どうであるか」よりも「どう見えるか」だ。






「悪いな。あそこで決起の挨拶をするのがお前ではなく、出しゃばりの王で」

 突然そんな言葉をかけられるから、夜冷えと相まって心臓が止まってしまいそうになった。



 儀式まであと二十分。すでに中庭で準備を整えていたシグリオは、遠くの街明かりを見つめ、夜の空を通ってここまで聞こえてくる王の声を聞いていた。あらかじめ知っていた話だ。大聖堂は城下にあり、空前絶後の大儀式を前にその城下の人々を勇気づけ、国の威信を強調する必要がある、と。


 振り向けば、そこにいたのは知った顔だった。

 カルベリオ大公爵。剣を佩いた彼が、皮肉げな笑みを浮かべてこちらを見ている。


「しかし一か八かの結果が出ないうちにお前をあそこに立たせるのも、というのが叔父上の判断だそうでな。身内からの評は気に食わんだろうが、有事には向かないが人は好いというのの典型で、あれでお前たちのことを考えているつもりなんだ」

「とんでもない。ありがたいことです」


 口にしてから、この手の人物は明け透けな言葉を好むところもあるだろうからと、


「ご配慮、痛み入ります。実際、城下で挨拶をしてから駆け足でここまで戻ってくるのは大変だったでしょうから。助かりました」

「叔父上はここまで戻ってくる必要もないからな。武勇とは無縁の人だ。と言って、王家の代表が俺ではお前も不安だろうが」


 もう一度、シグリオは「とんでもない」と感謝を伝えた。

 最後の儀式。〈光継式〉のために国の騎士たちを率いて参戦してくれたこと――さらに様々な調整の末に、カルベリオ大公爵を含めたかつての聖騎士候補たちすら、この場に集ってくれたことに。


 しかし大公爵は、ふ、とそれを鼻で笑い飛ばした。

 あの日馬車の中で、「所詮は身内の棒振り自慢だ」と本音のように呟いたときと、似たような表情で。


「全てが終われば、次の……は聖女か。そのさらに次の挨拶役はお前だぞ。今から存分に言葉を練っておけ」

「生憎、今はその余裕が。しかるべきその時が来ましたら、幸福の副作用として存分に悩むよう、未来の己によく言い含めておきます」

「――正直に言うとな。俺はフランタール『公爵』が後継者を『辺境伯』とした心境が、よくわかる」


 驚いて、シグリオは周りを窺った。

 密室の馬車とは訳が違う。開けた場所だ。誰が耳を澄ませているかもわからない。あまり軽率な物言いは――と。そんな気持ちを知ってか知らずか、さらに大公爵は続けた。


「『たまたまそこにいた』者より『選ばれた』者の方が信頼に足る。当たり前の話ではあるが、」


 そこで言葉は一度途切れる。

 街の方から、拍手の音が響いてきたから。


 大公爵も、そしてシグリオも同時にその方角の空を見た。今日の夜をみな、眠ることなく待っているのだろう。月と星が淡く、むしろ夜の底に灯る街明かりの方が明るく輝く夜。


 とん、と胸のあたりを拳で押される。

 顔を戻すと、もう大公爵は背を向けていた。


「俺もそろそろ持ち場に就く。『たまたまそこにいてよかった』と、価値を証明できるようにな」


 お互いに、と幸運を祈れば、彼は片手を挙げて応えた。


 もう一度、シグリオは夜を見上げる。

 ゆっくりと歩き出した。






 ノックの音に、外を確かめてからアルセアは扉を開く。

 見慣れた聖職服だったから、少しばかりの安心があった。


「そろそろお時間です。聖女様」


 どこかで見たことがある、という程度の相手ではない。中央聖堂の首脳のひとりだ。この場所に移動してきてからそれなりの時間が経つし、何度か打ち合わせもこなしてきた。それなりに親しみもあり、信頼に足る相手。


 それでも、いつもと流れが違うことには少しばかりの緊張も覚える。

 最後の儀式だけは、これまでの三つの儀式と違ってもう少し細かな規定があるのだ。


 それは、たとえば。

 塔へ入るまでの付き人を、聖騎士ではなく教会関係者と定めることであったりするのだけれど。


「はい。準備はできています」

 もちろんあらかじめ知っていたから、アルセアは慌てない。


 どうぞよろしくお願いします、と口にして、それからは眠ってしまったように静かな廊下を、ゆっくりと歩いていった。






「ご縁がありますね」

「ええ。あなたが来てくださったら安心ですね。本日はよろしくお願いします。メィリスさん」


 誰が来ることになるかと思っていたが、予想したとおりに彼女が選ばれたらしい。

 聖塔の前、フランタールの一団に紛れるようにしてメィリスの小柄な姿はあった。


 挨拶もそこそこに、改めてシグリオは自らの率いる一団に目をやった。事前に取り決めた配置は順守されている。一声、激励の言葉をかければ、彼らは頷いた。不思議と落ち着いた顔をしているのは、ほとんどが先の三の従基に対する儀式で死線を越えた者たちだからか、それともそれよりもっと以前、フランタールという土地に生まれたがためか。


 あるいは彼らもまた、この日を願って千年を生きてきた人々の代表として、ここに立っているからか。


「一応、情報の伝達に齟齬が発生していないかを確かめてもよろしいですか」

 念には念を、と言いたげに隣でメィリスは切り出した。


「三の従基に対する儀式で起こったあの暗闇は、〈光玉・エルニマ〉の放つ光への反発作用として現れます。発生タイミングとしては、聖女様が塔の中に入場した直後。その間は炎や魔法灯、また月も星も光源としては機能しません」


 シグリオは頷いて応える。

 この最後の儀式に当たって、己が担当する箇所――塔と聖女を守るにおいて、もっともネックとなるのはその現象だった。


「そこで、私の魔法を用いてこの中庭にいる全員に〈パラ・センス〉……疑似的な視覚を付与します。おおむね先の儀式で聖騎士様が〈影獣〉を捉えたときと同じような作用で、魔力の共振によって周囲の物体を知覚できるよう、魔法フィールドを展開します。ご本人ですから、その説明で足りるでしょうか」

「ええ。私の拙い説明から短期間でここまでの大魔法を仕上げてくださったこと、感謝申し上げます」

「いえ、仕事ですから。もう少し時間があれば〈パラ・センス〉の負担を軽くして私自身も戦闘に参加できたのですが、残念ながらそこまでの改良は間に合いませんでした。発動中は、フランタールの皆さんに護衛をお願いすることになります」


 もちろんです、とシグリオはもう一度頷いた。

 そのことがあるから、メィリスはこの場にいるのだ。


〈パラ・センス〉の発動中、彼女は想像も及ばないような膨大な魔力を発し続けることになる。それはつまり、雨の中あの塔の前で魔力を放ったシグリオと同じ。〈影獣〉を引きつけてしまうことも意味する。アルセアとメィリス。ふたりをそれぞれ別の場所に置くよりも、戦力を集中させて一箇所で守り抜くことを選んだ。


 しかしいざとなればこの塔の前は、決死隊の群れとなる可能性もある。


「もしもの際は――ああ、ちょうどそこにいますね。見えますか、メィリスさん」

「辺境伯ですね。先ほど挨拶をさせていただきました」

「そうですか。であれば重ねてのご説明になりますが、もしものときは彼の隊と一緒にこの場を離れてください」


 指したのは、辺境伯が率いる遊撃隊だ。

 当然彼らもまた、フランタールで長く戦ってきた兵たちで構成されている。今回集められたのは大陸中の精兵ではあるものの、何が起こるかは誰にもわからないし、シグリオはこの場所を離れるわけにもいかない。遊撃隊はいざというときの強敵討伐の浮き駒として、あるいは今言ったように緊急のカバー役として中庭を動き回る手筈となっている。


 わかりました、と隣でメィリスが頷く。


 そのとき不意に辺境伯が振り向いて、目が合った。


 彼は、何も言わなかった。ただじっと、あの心の奥底まで見透かすような瞳でこちらを見つめてくるだけ。それだけで思い出される言葉が、記憶がある。


 このまま進みます、と。

 アルセアと出した結論を、一番最初に彼に伝えたとき。


 いつもの書斎にいた。さっきまで書類を読むのにかけていた眼鏡を外して、ゆっくりと机の上で手を組む。ほんの少しの雪が降る窓を背に、彼の唇が動く。



 ――そうと決めたなら。

 ――シグリオ・フランタールとして、恥じることない結果を出しなさい。



「そろそろ始まりそうですね」

 メィリスの言葉に、シグリオは我に返った。


 いつの間にか辺境伯はいなくなっている。代わりに、誰に命令されたわけでもなく中庭は静けさに包まれ始めていた。雪に風を吸われた日のように、ほんのわずかな身じろぎが、服の擦れ合う音が、ひっそりと響く。


 時計を見た。三分前。

 足音が聞こえてくる。


 星が光を放つ音が耳に届きそうなくらいの静寂が、この場所を支配する。その雰囲気が街まで伝播してしまったのか、空の下が丸ごと静まり返っている。通りで祈る人たちの膝が石畳と擦れる音。長くを生きてきた老人が暖炉に薪をくべる音。赤ん坊の泣く声。それを父母が抱き寄せる手のかすかに震える音でさえ、ここまで伝わってくる。


 努めて平静を保とうとしながらシグリオもまた、その静けさの中で他の者たちと同様に、その場所を見ていた。


 扉。

 音を立てて、それは開いていく。






 目は、見つめたいもののために動く。

 だからアルセアは扉が開いた瞬間、一番最初にそのふたりの顔を見つけた。


 驚いたのは、ふたりが隣り合って立っていることだった。事前に聞いていた説明から、どうやらその役割を得たのはメィリスらしいと気付く。当然だ、と得意になるような気分。胸を張りたくなる気持ち。自分の好きなふたりが隣り合っているのを見たときの、ちょっとした幸せ。


 そういうものが、唇の端から洩れ出してしまいそうになって。

 押し込めるようなものでもないと思ったから、そのまま微笑んでしまった。


 ここまで自分を連れてきてくれた聖職者は、すでに道の脇に逸れている。頭を少しだけ下に傾けて、きっともう二度と自分の顔を見ることはない。一方で、潜った扉の真っ直ぐ向こうには、そのまま塔への入り口がある。誰に案内される必要もない。


 踏み出せば、もう戻れない。


 でも、そう決めたのは自分だから。

 自分の足で、アルセアは踏み出した。


 たった十歩の、一番短く、長い旅路を行く。


 靴裏が地面から離れた瞬間に、何か途方もなく大きな、大切なものを失った気がした。それが一歩目。四歩目。けれどそれは、生きていく上で誰しもあることなのだと、ただそれが自分の場合はひどくわかりやすく現れただけなのだと気付く。六歩目。冷たい風に晒されて、かえって自分の身体に熱が宿っていることがわかる。


 七歩目で、すれ違う。

 名残惜しさにゆっくりと歩けばよかったものを、それで足の動かし方も、背筋の伸ばし方も急にわかるようになってしまった。


 八、九、十。思い残すところはある。あるけれど、もういい。振り返ることはない。自分は振り向かない。



 振り向けば、きっと楽しい日々だっただろうから。


 新しい一歩を踏み出して、聖女は塔へと入りゆく。


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