10話ー② 君を愛することはない



 大公爵の送迎と称していくらかの会話をして、戻ってきた頃にはもうすっかり冬の陽はない。暗闇の広がる夜。門兵に声をかけて通りすぎる。玄関のドアは冷たく、吐く息は白い。


 結局。

 予想していたのとほとんど変わらない――あるいは、少し良い状況になった。


「若! おかえりなさい!」

 玄関の戸を閉めると、ととと、とニカが駆け寄ってくる。目線で訊ねた。彼女はどうした。目線で答えた。お帰りになられました。


 そうか、と息を吐いた。

 ニカに特段慌てた様子がないなら、無事ふたりの面会は終わったのだろう。帰り道の心配くらいはさせてほしかったが、かえってそれが彼女にとってリスクにもなりかねない。


 そして、陽が沈んでもまだ、自分にとっての今日という日は終わっていない。


「聖女様は?」

 訊ねれば、すぐにニカは答えてくれた。脱いだコートも受け取ってくれる。まだ音楽室におられます。


 一目、会っておかねばならないと思った。

 今日あったことを、伝えなければいけない。


 廊下を歩いた。足取りは重かった。身体はだいぶ良くなった。けれど日に日に背負うものも、引きずるものも増えていく。


 彼女の方は、どうだろうか。


 ノックをすれば、「どうぞ」と声がした。


「失礼します。遅くに申し訳ありませんが、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「はい。構いませんよ」


 アルセアは、ピアノの前に座っていた。

 窓の傍。灯された明かりのおかげで、かえって外は見えない。硝子が鏡になって、部屋の中が映り込んでいる。自分がそこに所在なさげに立っているのが、シグリオの目に映った。


「今日はありがとうございました。また、その……すみません。連れてきていただいて」

「ああ、いえ。今回は私はほとんど何も」


 先にアルセアがそう言って話し出す。だからシグリオが口にする次の言葉は、自然と決まった。


「どうでしたか。随分と難しそうな図面でしたが」

「大掴みな機序は理解できました。実際の作用の部分は細かい計算が絡んでくるので、時間をかけてじっくり詰めていこうと思います」


 あっさりと言ってのけた彼女に舌を巻く。果たして自分との違いは、光の魔法に関する基礎知識の問題だけなのか。南の聖堂で聞いた言葉を思い出す。あのお姉さんと比較されるだけで大したもの。


 それで、と。

 やはり彼女から、先に切り出した。


「何かありましたか。今日はお忙しくされていたようですけど」

「……実は先ほどまで、もうひとりお客様がいらしておりまして」

「国の?」


 ええ、と頷く。そこまでの話は――今日までは国への意向照会の返事を待つという話までは、彼女と共有している。


 だからこの後にどんな結論が出されるかも、当然わかっている。


「国は、これまでの私たちの働きを高く評価しているそうです。この千年の中で最も大きな苦難に見舞われながら、しかし常に結果をもたらし続けている。今代の聖女と聖騎士として、これ以上の適任はないと」

「光栄ですね」

「ええ。ですから、全てを私たちに委ねると」


 わかっていて。

 シグリオは、言った。



「決めましょう。進むか、止まるかを」


「進みましょう」



 ふたりの間では、すでに結論の出ている話だったのだ。


 アルセアは、ずっと一貫していた。怪我から目を覚ましたときから、ずっと。初めてこの選択肢を与えられたときから一瞬たりとも悩まなかったのではないかとすら、シグリオには思える。


 彼女に迷いはない。信じがたい真っ直ぐさでその目標に突き進もうとしている。もしかすると、と心当たることもある。


「何度も重ねての確認で恐縮ですが、可能ですか。儀式の完遂は」

「ええ。可能だと思います」


 メィリスが言っていたとおり、彼女は。

〈光玉・エルニマ〉に直接触れた聖女は、確信を得ているのかもしれない。


「予想外のことばかりが起こりますから、『絶対に』とは言えません。でも、分の悪い賭けのつもりもありません。今日、こうして新しい情報も得られましたし、解析を経て前の三つの儀式よりも予測精度は高くなりました。『計算通りであれば必ず』くらいのことは言えますよ」


 一方で、シグリオにはそんな確信はない。

 けれど同時に、彼女の言う『確信』を大いに信じるだけの関係は、すでに構築されてしまっている。


 初めからだ。彼女は初めから、第一の儀式からずっと一貫して、この儀式の成功のほとんど全ての理由を担っている。ただ静かに祈るはずだった人が、あらゆる苦難を撥ね退けて、希望の光を絶やすことなく守り続けている。


 第三の儀式のような命の危機を乗り越えてなお――それ以上のものが待つであろう最後の儀式を真正面から見つめて、決してその輝きを鈍らせることがない。


 だから、シグリオは。

 彼女が「できる」と言うならば、それを本当にするために必要な全てのことをする準備がある。


「……心強いお言葉です」


 それは、聖騎士として。

 フランタール辺境伯の跡継ぎ――この大陸で最も強く〈光継式〉の成功を願う人々の、剣と盾として。


「やりましょう。〈光玉・エルニマ〉への干渉こそできませんが、あなたがそれに集中するための万難を排し、お支えします」

「はい。よろしくお願いします」


 では、ただのシグリオとしては?


 それ以上、議論することなど何もなかった。聖女は成功への強い自信を持って儀式の続行を決めた。聖騎士もそれを疑うことなく、彼女を守り続けることを決めた。シグリオには自覚がある。自分たちはそれぞれ『問題を解決する力』を非常に強く持つ。後はただ、弱音のひとつも吐かずに全ての努力を尽くして、運命の日を迎えることになる。


 それでいいのだろうか、と戸惑う気持ちがその場に少しだけ足を止めさせる。

 その少しを悟られないように、言葉を紡いだ。


「そういえば、あれから指のお加減はどうですか」


 訊いてから、訊くべきではなかったかもしれないと思った。

 純粋な心配から出た言葉ではあるが、彼女の指に巻かれた包帯の一際白いことは、奇妙な不安をシグリオに与える。それも音楽室での問いかけだ。意識させることでかえって落ち込ませてしまうかもしれない。そう思ったが、放った言葉は矢と同じで、後から掴み取れはしない。


 けれど彼女は、ふふ、とそれを笑った。


「気遣いできる人だ……」


 何かを思い出すような、懐かしむような顔。それからすぐに彼女は、あ、と取り繕うような顔でこちらを見て、


「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ。楽器を触るのはちょっとまだ控えてるだけで……そちらこそ、大丈夫ですか」


 私よりずっと酷い怪我だったと思いますが、と気遣ってくれる。


「ええ、平気ですよ。怪我慣れをしているので、回復が早いんです」

「痛みなんかも?」

「ええ。もう全然。……いえ。今のは流石に嘘ですね。痛くはありますが、あまり動かずにいると身体が固まってかえって悪くなりますから。このとおりあちこち歩き回って身体を慣らしているところです」


 恐らく最後の儀式までには完治すると思うが、変にここで嘘を吐いて後から情報伝達に齟齬が生じても困る。そう思って素直に状態を伝えれば、彼女は、


「……あの。ひとつ」

 お願いしてもいいですか、と。


 控えめな調子で、呟いた。


「構いませんよ。何でもお申し付けください」

「いえ。申し付けるとか、そういうことではないんですけど……ピアノって、弾けたりしますか」


 う、と仰け反りそうになった。

 弾けなくもない。貴族の嗜みのひとつだから。だが、


「アルセア様と比べれば、とても『弾ける』とは言えないレベルですが。楽譜が読めて、音が出せる程度です」

「本当ですか?」


 でも私も全然ピアノの方は、とアルセアが言う。

 これは嘘だろうな、と直感的にシグリオは思う。申し訳ないが、そういうところのある人だ。


「実はちょっとだけ、鍵盤を押してほしくて」


 彼女は言った。実を言うと最近、心を落ち着けるためにここに来て、片手でも弾ける楽器を触らせてもらったりしている。けれどそれをしているうちに、音に物足りなさを感じ始めてしまった。特にこの楽譜などここで初めて見たものだから、実際にどんな音が鳴るのか気になって、落ち着くために来たはずなのにかえって落ち着かなくなってしまっている、と。


「それでよければ、ここのところだけ……ただのお願いなので、もちろん忙しければ全然」


 困ったことに。

 シグリオは珍しく、忙しくなかった。


 国の意向を伝えられたその日ではあるけれど、動き出すための準備はすでに万端で、しかし実際に動き出すには時間帯が遅すぎる。明日に向けて英気を養うのが今日の日を埋めるために最も優れた選択だ。


 そして、その英気というのは自分のものだけを指して言うのではない。


「ここだけと言わず、お付き合いしますよ。今日はもう、やることもありませんから」


 言って、シグリオは笑みを作る。アルセアの瞳が、僅かに広がる。


「本当ですか?」

「ええ。何をするにしても明日からです。その明日の朝に寝不足にならない限り……それから、あまりの下手さに音楽室を追い出されない限り、『お願い』にお応えしますよ」


 とんでもない、とアルセアは言う。ありがとうございます、と言って頭を下げる。上げる。笑っている。


 その顔を見ると。

 よくもまあロディエスには、『賢者』なんてぴったりの呼び名がついたものだ、と思う。


「ただ、本当に期待しないでください。非常に手際は悪いです。譜読みも遅いですし」


 全然大丈夫です、とアルセアが言う。ふたりでピアノの傍に寄る。鍵盤の蓋を開けて、シグリオは手で指し示す。椅子にどうぞ。アルセアが座る。


 それから彼女が、口に出して言う。


「こちらにどうぞ」

 長い椅子の、残りの半分のスペースを指して。


 流石に、とシグリオは思ったが、言葉を失ったおかげで口に出さずには済んだ。

 しかしよく考えてみれば、長く付き合うと言った以上は、それにピアノを真剣に弾く以上は、座らざるを得ない。他から椅子を持ってくるという考えも頭の中にはあったが、結局、


「では、失礼します」

 浅ましさが勝って、その椅子に座ってしまう。


「譜読みが苦手なら、実際に動きを見た方が早いかもしれないですね。私が逆の手で一度弾いてみるので、それを覚えてもらえれば」

「なかなか難しそうですが」

「大丈夫です。細かいことは抜きにして、押すことだけを考えてもらえればそれで」


 そう言って彼女が奏で始める。手加減してくれたのか、短い小節の終わりで音は歩みを止める。鍵盤から彼女の手が離れる。続けて、という意味だと受け取って、シグリオはその真似をする。


 同じ弦を鳴らしてここまで違うか、と愕然とするような音だったけれど。


「完璧です。それじゃあもう一度お願いします。今度は、」

 合わせますから、と彼女が言えば。


 それこそ魔法のように、音に色が付いた。


 ほんの数小節で、だからほんの数秒のことだった。

 その余韻が部屋の中から静かに去っていくまで、さらに数秒。それから、


「私、」

 彼女は、ぽつりと呟く。


「あなたを聖騎士に選んで、よかったです」


 返すべき言葉が、そこにはあるはずだった。


「……この程度で、喜んでいただけるなら」

 けれどそれをシグリオは、口にはできなかった。



「いくらでもお付き合いしますよ。聖女様」

 心の底では、アルセアが聖女でなければよかったのにと、そう思っているから。



 初め、シグリオはあの特約についてこう思っていた。婚姻はかつて、あるいは今でも強烈な力を持つ政治的な行為だったから。〈光継式〉を通しての権力の拡大を防ぐために、あの規定が作られたのだと。


 今は違う。

 ロディエスは、ここまで見透かす力を持っていたから『賢者』と呼ばれたのかもしれない、と思う。


「本当ですか? 私からお願いしておいてなんですが、本当にご無理のない範囲で大丈夫ですよ」

「いえ。かえってこちらが学ばせていただいてありがたい機会です。……実は、こういう貴族的な教養には苦手意識が強くて」


 尊敬できる人だ、と思う。


 志を同じくしているから、仲間意識もある。苦難を共に乗り越える中で、その顔と声に安心感を覚えるようになった。同じように彼女にも、自分がそれを与えられたらいいと思う。優しくしたい。少しでも傷つかないように願う。幸福を祈る。



 たとえ片側からでも、愛なんて気持ちを覚えてしまえば。


 世界を守るために、その背を押せなくなってしまう。



 隣で彼女が、嬉しそうに相槌を打っている。それじゃあ、と自分の言葉を正面から受け取ってくれて、譜面の次の場所に指を差す。彼女の手が動く。遅れて自らの手を動かして、また奏でて。


 そういうことを繰り返しながら。

 時折彼女の横顔を見つめて。あの日立てた誓いのことを思い出して。水面にきらめいた光が、彼女の頬を照らしたあの一瞬を、瞼の裏に閉じ込めて。静かにシグリオは心の中で言葉にして、確かめる。



 君を愛することはない、と。


 自分でも信じていない嘘で、今すぐ彼女をどこかへ逃がしてやりたい気持ちを、塗り潰す。


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