07話ー② ふたりで遠くへ



 馬車はゴトゴトと揺れて街道を行く。

 隣では物珍しそうに聖女が通りを眺めている。彼女がこちらを見ていないことを確めて、シグリオはそっと息を吐いた。


 素直に頷いてくれるとは思わなかったが、素直に頷いてくれて助かった。

 何せあの屋敷には、聖女様にお待ちいただくための適切な部屋がなかったのだから。


 フランタールへの賓客は、大抵の場合は辺境伯が居を構える本邸を訪れる。だからこの別荘地で、シグリオは気を抜いていた。聖女様の突然の訪問に、普段使いの書斎を慌てて片付けて応接室として仕立て上げなければならないほどに。


 狭い部屋にふたりきり、というのも良くはない。

 かと言って「ここでお待ちください」と告げて部屋を後にしてしまえるほど、些末な書類ばかりを置いた部屋でもない。


 だからこうして、時間つぶしに連れ出した。

 本当は彼女も疲れているのではないかとか、教会学校の出だと言うのならそれほど豪勢な部屋が用意できずとも、かろうじてマシな一室を宛てがった方が彼女も嬉しかったのではないかとか。


 そういうことも、思うけれど。


「このあたりは本当に家、家、家、あちらが飲食店で……と。そのくらいしかなく、後は街の建築の紹介になってしまうのですが」

「いえ、良ければ聞かせてください。興味があります」

「そう言っていただけると救われます。フランタール領の全域に言えることですが、このあたりは海が近く――」


 ほとんど背を向けるような形のアルセアの表情を、シグリオは窺っている。


 自分にとっては馴染み深い、けれどきっと人から見れば『殺風景』とすら言えるだろう景色に車窓から熱心に視線を注ぐ、その顔を。


 警備の関係上、まさかそこの飲食店に入ってみましょうとは言えない。

 街の数少ない雑貨屋も食料品店も、『聖女だから』というよりもむしろ『顔の知られた自分が女性を伴って』という点で、ひっそりと見て回ることもできない。


 けれど、もしかすると。

 すぐに帰らずともこの調子ならと、そう思ったから。


「この道を真っ直ぐ行くと、海があります。そろそろ屋敷の方でお部屋の準備も整ったかと思いますが――」


 委ねてみれば。

 彼女はやはり、何の変哲もない街並みを不思議なくらいに見つめたまま、こう答えてくれる。


「海まで、見ていきたいです」






 何もないところだと聖騎士は言ったけれど、アルセアにはそうは思えなかった。

 むしろ彼がほのかな自信を覗かせていたこの場所――見るべきものがあるとしたらここくらいだろうとでも言いたげだったこの景色の方が、ずっと何もない場所に見える。


 海。

 秋の、けれどすでに冬の訪れを察したかのような静かな灰色の海の前に、今、アルセアは立っていた。


「足元にお気を付けて。波の飛沫で、岩場がよく濡れているんです」


 海と聞いてアルセアが想像するような景色は、そこにはなかった。

 輝くような太陽も。宝石のように青く輝く水面も。白い砂浜も。跳ねる魚も。


 その傍で、笑い合う人々の姿も。


「これがフランタールが『辺境』伯領と呼ばれる由縁ですね。大陸の端の端、南の陸地限界の多くが、フランタール領に属しています」


 隣でそんな風に語るシグリオの優美な表情はいつもと変わらないはずだけれど。

 それでもアルセアは、その海から吹く冷たい風に髪を抑えながら、彼の横顔に『いつもとは違う何か』を見出している。


「……と、」

 その彼と、目が合った。

 するとすぐさま、少し困ったような顔に変わって、


「あまり聖女様に長居させるような場所でもありませんね」

 ここに来たばかりだというのに。もう戻りましょうか、とでも言いたげな声色で言う。


「ご覧いただいた通り、このあたりは何もない場所です。と言って、実はフランタール領の全体を見回しても『何かがある』と呼べる場所は少ないのですが……手紙が返ってくるまでの間は、お暇になってしまうかもしれませんね」

「何もなくは、ありませんでした」


 意外そうに彼が、目を開く。

 実際、アルセアにとってその言葉は誤魔化しでもなければ嘘でもない。ここに来るまでに目にした光景を思い出しながら、彼女は言う。


「これまであまり、外に出たことがありませんでしたから。聖女の任に就いてからも、多くは聖堂の中に滞在していましたし」


 強いて記憶の中から取り上げるなら、〈聖女選定の儀〉に向かったあの道中くらいだろう。それ以外は厳重に警備された馬車の中、ひたすらあの戸惑いの中に身を置いていたから、


「人が、自分の知らない土地で生きているところを、こんな風にまじまじと見る機会はあまりありませんでした。連れてきてくださって、ありがとうございます」


 驚いたような顔。

 それから彼にしてはひどく小さな声で、「いえ」と続く。アルセアは自分の言葉を呼び水にして、さらに続ける。


 伝えたいと、思っていたこと。


「謝らなければならないことがあります」

 聖騎士が身構えるのを、アルセアは感じた。だからこれ以上、妙な間は置かない。



「あなたに酷い態度を取って、申し訳ありませんでした」



 最近思い返すのは、聖女になってからの自分の振る舞いのことばかりだった。

 余裕がなかった、とは単なる言い訳だと思う。全く違った価値観が人生に現れて、振り回されていた。けれどそのことは、他者に対してああいう不愛想を働いていい理由にはならない。


 まして。

 きっとこの人は、初めから自分の力になろうとしてくれていたのだから。


 三秒。頭を下げ続けて、何の声も聞こえない。

 四秒。きっとこれ以上下げ続けていれば上げるタイミングを失ってしまう。だからゆっくりと、アルセアは身体を起こしていく。


 五秒。

 シグリオの『あの顔』と目が合った。


「あ、」

 彼は、それを取り繕うことも忘れたままで、


「申し訳ありません、聖女様に――頭を」

 きっとこれ以上は、自分から謝罪の意を伝えることも迷惑になるだろう。


 そう察せるくらいの狼狽をアルセアは感じ取った。だから「いえ」と短く応えて、それ以上は何も言わない。言い訳もせず、ただ。


 ただそこで、ふたり、佇んでいた。


 耳を澄ましてようやく聞こえてくる程度の音しか、そこにはなかった。

 風が空に帰っていく音。ずっと遠くの沖で波が立つ音。背にした街で、落ち葉が石畳を擦る音。家の中で火にかけたケトルがぽつぽつと沸き立つ音。子犬のくしゃみ。その横で、子どもたちがひそひとそと大人に内緒の打ち明け話をする声。


 す、と隣で、服の僅かに擦れる音。


「……もう一度だけ、訊いてもよろしいでしょうか」


 はい、とアルセアは答えた。

 珍しくシグリオは、言葉を口にしながらもこちらを見ていない。けれど視線の先に集中しているわけでもないのだろう。自分の心の中だけに注意を払っているような、そんな顔で言う。


「どうして、私を聖騎士に選ばれたのでしょうか」


 もう一度、と彼が言った意味が、アルセアにもわかった。

 覚えのある問いかけだったから。


 一の従基に対する最初の儀式――〈光継式〉の始まりの直前に訊ねられたことを、覚えていたから。


 だから答えは決まっている。

 けれど、


「最も能力に優れた人がその任に就くべきだと、今でも私は思っています」


 答え方は、前と違う。


 お互いのことを少しだけ、知り合った気がしていたから。


「事前に資料を読み込んでいたんです。剣術も魔法の扱いも、それから実戦経験も。全てあなたが突出していると思いました。だから、選んだんです」


 伝えれば、聖騎士は思案顔になる。

 一秒と待たずに「それは、」と口を開いて、けれど結局、その後に続く言葉は少しの沈黙の後に放たれる。


「聖女様は、このような事態を想定されていたと――」

「あ、いえ」


 思わぬ想像だったから、アルセアはすぐに遮る。もちろん、そんな予言じみた能力は備えていない。


「意図したものではないんです。ただ、」


 最も優秀な方を選んだら結果として、と。

 この偶然の幸いを口にしようとして、アルセアはその途中、はたと声を止めた。


 偶然?


「ただ?」

 シグリオが続きを促す。けれどその続きをアルセアは、すぐには理解できないでいる。


 偶然がなければ、どうだったのだろう。

 こんな風に〈光継式〉に不測の事態が生じていなければ。これまでの例のとおりにつつがなく、事態が進行していくだけだったら。


 剣術も魔法も実戦も、聖騎士には必要なくて。

 それなら代わりに、何が必要になっただろう。


 あのときの自分は、本当にそれを知っていたのだろうか?


「ただ、自分の中で」


 東の聖堂で、メィリスと話したときに自覚したはずのことが。

 今このとき、それよりもずっとはっきりとした形を見せてくれた気がした。


「信じていただけなんだと思います。『聖騎士』はきっと、こんな人だって」


 もしかしたらあのときあの場には、シグリオよりもずっと聖騎士に適した人物もいたのかもしれない。


 選ぶことも選ばれることも、ひどく曖昧だった。全ての先を見通すことはできない。全ての前提を知ることはできない。選び取るための指標が、指標に基づいた選択が、選択がもたらす結果が、常に正しいとは限らない。


 人の能力はきっと、人の目くらいのものでは、測り切れない。


「でも、」


 ちっぽけな物差し。

 岩場に打ち寄せるほんの一瞬の白波を見て、海の全てを想像することの自惚れ。




「今はあなたを選んでよかったと――そう、思っています」

 それでも今、アルセアはそうして言葉にすることができた。




 海風が吹いた。ちかっ、と波間に紛れて光が彼女の頬に差す。

 髪が乱れる。指先で押さえる。一瞬のこと。けれどその言葉を伝えたときにシグリオがどんな顔をしたのか、その一瞬だけ、アルセアは確かめることができない。


 だから思い出して、少しの焦りを覚えたりもしていた。


 東の聖堂。二の従基に対する儀式の前。彼が言ったこと。



 ――――唐突に『選ばれる』ことの戸惑いが、私にも……



 重荷だろうか。

 自分にとって聖女の役割がそうだったように、今のこの言葉は、シグリオに何かの戸惑いをもたらしてはいないのだろうか。そういうことを思って、アルセアは何かをすぐに言わなくてはならないような、そんな気がしていた。


 もしも風が吹かなければ。

 きっとそんなことを思う必要は、なかっただろうに。


「フランタールの辺境伯は、」


 風が止む。

 シグリオがこちらを、真っ直ぐに見つめている。


「世襲制ではないんです」

「……え?」

「貴族の間では公然の秘密です。教会でもきっと、世情に詳しい方はご存知でしょう。少なくともこのフランタール領では、ほとんど誰もが知るところですから」


 その告白が意図するところを、導くところを、すぐにはアルセアは掴めない。

 世襲制ではない。貴族が?


 では、目の前の彼は?


「『何もないところ』と何度も言いましたが、それは文化的にフランタールが劣っているということではありません。単に、多くのものを置くことができないんです」

「……というのは?」

「〈影獣〉の発生頻度に、地域差があるのはご存知ですか」


 はっきりとそれを聞いたことはない。

 けれど現象としてはいかにもありえそうなことに思えたから、アルセアは頷いて、


「フランタール領は、〈影獣〉が多いのですか」

 話の誘いを、ようやく捕まえる。


 シグリオは頷いた。

 一説には、と彼は言った。日の傾きによる日照時間の少なさに由来している。また別の説では、海の中から姿を現した〈影獣〉たちが初めの陸地としてこの地に上陸しているのかも、と。


「大切なのは、常にこのフランタール領は〈影獣〉の脅威に晒されてきたということです。〈光継式〉が確立する千年前までは、ここは治める者のいない、どの国の領土とすら認識されていない地でした」


 想像ができなかった。

 かつてはこの大陸も、いくつかの国に分かれていたとは聞いている。けれど、『国にすらならなかった』土地があることが。


 その土地に今は、見てきた限りの人々がいることが。


 暮らして、生きていることが。


「しかし――……」

 彼はさらに語った。〈光玉・エルニマ〉の力で〈影獣〉の力が鎮められてから、王弟のフランタール公爵がこの地を治めるようになったこと。彼が晩年に、自らの騎士の中で最も優秀と認めた者を養子とし、その地の領主としての権限を継がせたこと。


 その領主が改めて、フランタール『辺境伯』として封じられたこと。

 以来、その後継者は必ず養子として、フランタールの家に迎え入れられてきたこと。


「〈影獣〉の被害は多岐にわたります。単純な物理的損害はわかりやすい例ですが、危険な『可能性』は物流も滞らせる。群れになればあれらは獣を食らい尽くし、森を枯らすこともある。ここには奢侈の余裕がないんです。特に、〈光継式〉の前は」


 言葉のひとつひとつが、記憶と重なっていく。

 アルセアの頭の中にあった地図が、現実の光景と重なって立体を描いていく。


「単純な話です」

 きっと今までのシグリオなら、笑ってそれを伝えたのではないかと思う。


 けれどこのときだけは――彼は決して、その真剣な表情を崩さないままで、



「フランタール辺境伯の跡継ぎであるということは、『この地を守る力を持つ者』として『選ばれた』ということです。……少なくとも私は、そう考えています」



 ずっと前のことだったのだ、とアルセアは思った。


 彼の戸惑いは、自分よりずっと先にあった。顔を合わせるよりも、ずっと前。

 ひょっとすると今の自分より背丈の低かったころに、与えられたものなのだ。


「……と。話が冗長になってしまいましたが」

 そこで、不意に。

 シグリオは、いつもの笑みに切り替わる。


「私が申し上げたかったのは、まさにこの聖騎士としての職責は自分に向いたものであると……失礼。自惚れめいていますね」


 とにかく、と言葉を探している途中で、彼は話を切り上げたように、


「聖女様からそのようなお言葉をいただけて、本当に誇らしく思います。これからも期待を裏切らぬよう、誠心誠意、務めさせていただきます。……夜が近付いて、冷えてきましたね」


 戻りましょうか。

 そんなことを言って、背中を向けてしまう。


「――最後まで、」

 だからその服の袖を、アルセアは捕まえた。


「聖女様?」

 驚いた顔で彼が振り返る。

 もう一度目が合う。ひどく熱いものに触れたように、彼が瞬きをする。


「最後まで、聞かせてください。あなたの言いたいことを、全部」


 少しの逡巡。

 それから彼は、袖を捕まえるアルセアの手に、そっと自分の手を添えた。袖から指が離れる。自由になった彼の身体が、彼女に向き直る。


 膝を突く。


「あなたは、私たちの希望です」

 誓いを立てる、騎士のように。


「この地だけではなく、この大陸に生きる全ての人々の、明日を灯す光です。……それがどれほどの重責であるか、全てがわかるとは、決して申しません。この世に聖女の任を受け、今を生きているのは、あなた様おひとりなのですから」

「……はい」

「だから、お支えいたします」


 触れた指先に。

 夜のランタンのように、熱が灯った。


「全ての人々が迎える、より良き明日のために。ただ選ばれたから、それだけではありません。私自身の、自分の意思で」


 太陽が、水面の向こうに沈んでいくその一瞬のこと。

 水平線の向こうに射した橙色の陽を浴びて、彼は。



「私があなたの騎士になる」

 誓いの言葉を、口にした。



 手の甲に、彼の額がつく。慣れない仕草。けれどアルセアは決して自分の手を動かさなかった。


 彼が手を離す。どれだけ練習したのだろう。そうと教えられてからもまるで他の貴族たちと区別が付かないほどの――あるいはそれを上回るほどの優美さで、彼が立ち上がる。


 寒いでしょう、と外套を貸してもらって、再び馬車に乗る。


 行く馬は夜の気配に静かになって、ゆらゆらと夢の中に揺られているように、窓の外を街灯が流れていく。いくつかの他愛のない会話をした。明日になればきっと忘れてしまうようなこと。けれどきっと、『話をした』ことだけはずっと忘れないでいるような、そんなこと。


 フランタールの邸宅が近付いてくる。

 灰色の町に、それでも人々の息遣いが満ちている。


 その景色を見つめながらアルセアは強く、強く思った。



 願わくば、この旅の終わりに。

 彼もまた――自分が聖女でよかったと、そう思ってくれますように、と。



 その望みの果てまでに、どんな苦難が待ち受けているかも知らないで。


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