08話ー① その灯りの意味を



「ちなみに、覚えておられます?」

 打ち合わせの終わりに投げかけられた言葉に、シグリオの反応は遅れた。


 窓の外の曇り空から視線を戻す。対面に座しているのは、南の聖堂の司祭だ。今日の夕暮れを少し過ぎてから行われる三の従基に対する儀式。その副担当者。


「ええと、」

 言われてシグリオは、相手をまじまじと見た。中年の女性。笑って、自分の顔を指差している。ということは単純に今の問いかけは「自分を覚えているか?」ということだろう。


 そして曲がりなりにも辺境伯の後継者である自分に対して、この振る舞い。

 自分の素性を知っている――それもおそらく、幼少期に面識がある。そう推測して、記憶の箱を逆さにしてみれば、


「あ、」

 思い浮かぶ人が、ひとりいた。


「もしかして、左腕の」

「そう!」

 言えば、彼女は太陽が弾けるように大きく頷いた。よく覚えてられるもんだわ、と半ば本気の感心の口調とともに。


「あれからどう。傷の具合は」

「おかげさまで、改めてお伺いする機会もないくらいには。その節は大変お世話になりました」


 ふふ、と彼女は笑う。知ってたけどね、とも。


「大活躍の噂はこのあたりにいればいくらでも聞こえてくるから。まさかあのときの小さな子が聖騎士にまでなっちゃうとは思ってなかったけど」

「後遺症もなく綺麗に治していただけたおかげですね。思えば咄嗟のときは、いつも左で勝負を決めているかもしれない」

「それ、辺境伯様から教わったユーモア? ……聖女様は、頼りになるでしょう」


 急な話の転換だったけれど、シグリオはそれほど大きな違和感を覚えることはなかった。腕の話はきっと、この話をするための枕だったのだろうと思ったから。


「ええ。熱心に魔法訓練に取り組んでいただけていますし、心もお強い方ですから。お仕えし甲斐があります」

「でしょう。元々安心感のある人選だとは思ってたけど、こういう事態になっちゃったから余計にね。こういうのも怪我の功名って言うのかな」

「元から有名なんですか? 教会内部で、彼女は」

「お姉さんの方がね。てっきりそっちが聖女様になるものだと思ってたけど、負けてない妹分がいるって噂もあったから、『ああそっちが』って。年齢を考えなくても、あのお姉さんと比較されるだけで大したものだし」


 ほう、とシグリオは興味深くその話を聞きつつ、同時に納得もしていた。アルセアとメィリス。ふたりから得られた情報を総合すると、確かにそういう姿も見えてくる。


 しかし教会内部の人間から、そうした客観的な太鼓判を捺されたとなると、


「ではあとは、聖女様を守る騎士次第というわけだ」

「あら。余計なプレッシャーかけちゃった?」

「辺境伯の養子になってからずっとかけられていますから。もう慣れましたよ」


 と、とシグリオは口を押さえた。領内の、それもある程度事情に通じた相手とはいえ、あまり素直に物を言いすぎるのも良くない。下手に口を滑らせないうちに、と椅子を引く。


「あの血まみれの小僧がそのプレッシャーでどれだけ成長したか、勇猛な背中でお伝えして恩返しとさせていただきましょう。次代の辺境伯ここにあり、ということで」

「何言ってんの。恩返しなら綺麗な背中を見せてくれないと。あたしら年寄りは子どもが傷付くところなんて一個も見たくないんだから」


 子ども、とシグリオは苦笑する。

 昔を知っている人間からすれば、確かにそう見えてしまうかもしれないが、と。


「妙齢のレディの前では果敢な姿を見せて好感を得たいところですが、」

「はっ」

「……鼻で笑われてしまったので、仰られたとおりを目指すことにしましょう」


 窓の外に横目を遣りながら。

 大事の前の奇妙な静けさの中で、シグリオは言う。


「何事もなく終わってくれるのが一番ですから」


 雨が降りそうだ、と思った。






 残り八小節。

 完全で、完璧な音。


 部屋にまだ残る音の余韻に瞑目しながら、アルセアはヴァイオリンの重みを手にして思いに耽る。不安なところはある。心残りもある。


 けれど、コンディションは万全だ。

 現時点でのベストに、自分は立っている。


 自分の努力に、胸が張れる。


「……はい。どうぞ」

 それから彼女は、聞こえてきたノックの音に、誰何もせずに入室を許可した。


 もうすっかり耳慣れた音だった。扉を叩くときの骨の感じ。テンポ。実際に扉を開けて、こちらの姿を認めて話しかけてくるまでのわずかな間の取り方。


「ご支度は整いましたか。聖女様」


 振り向いたときにそこにある顔にも、もう慣れた。

 漠然とした安心感すら、覚え始めてしまうくらいに。


「はい。楽器をしまって、それから出るつもりでした」

「では、ともに参りましょう。……屋敷にご滞在の間も、よく弾かれていらっしゃいましたね」


 お好きなんですか。

 弦を緩めながらケースにそっと収める間に、かけられた問い。きっかけは、と語り出せば、自分の尊敬する姉にもできないことが――あるいは全く興味を向けない分野があって、たまたま自分にはその素養があったとか、そういう流れになるのだけど。


 今は、そういうことを抜きにして、


「ええ。好きなんです」

 素直に、その言葉を伝えた。


 そうですか、とシグリオは笑った。この秋の間、ひとつアルセアは気付いたことがある。一見如才ない彼だけれど、確かにずっと一緒にいれば完璧でないところもいくつかは見えてくる。たとえば貴族らしい反応のバリエーションをあまり持っていないのか、次の言葉を考えるまでの間をとりあえず微笑んで保たせようとするところとか。


「いいですね。待ち時間に何かできるものがあるのは。私なんか、なかなか落ち着くところがなくて」

「ええ。それに、練習曲ならある程度決まったルーティーンもありますから。直前にもいつも通りにこなせると、小さいですがその日の分の自信がつくんです」

「お、」


 その割に、こういうところでは簡単に素の顔を出してしまうところとか。


「羨ましいな、それは……」


 あまりにも心からの言葉のように呟くから、つい笑ってしまった。


 しかしそれと同時に、演奏を終えたときと同じくらい心が軽くなるのもアルセアは感じた。ひとりじゃない――重圧を感じるのも、この仕事を終えようと力を尽くしているのも。


 ケースの蓋を閉める。ぱたり、と優しい音がして、これも音楽に含めるとしたら最後の最後まで良く響いた。


 きっと上手くいく、と心の中で呟いた。


 また震え出してしまわないように、細い手首を自分で握り込めながら。






 塔の中へ入ってゆくアルセアの背中を見送る。

 それを契機に、周囲に配置した兵と聖職者たちの緊張が一段、さらに濃くなるのをシグリオは感じ取った。


 午後六時。秋の夕方で、特に日照時間の少ないこのあたりはすでに日は傾いて、聖堂を囲う外壁の向こうに消えている。九割近くを雲が覆う空の下ではもはや景色は夜と変わりなく、ぽつぽつと掲げられたランタンが自然光に代わって視界を照らし上げている。


 東の聖堂、二の従基への儀式にしたのと同じように。

 南の聖堂、三の従基に対するこの儀式もまた、一度目の反省を踏まえて、厳重な体制で臨まれていた。


 まずは塔の崩落を防ぐための補強作業。かつて繊細な印象だったその姿は今や見る影もない。外観よりも実利を取り、一見すれば無骨にすら映る。


 また、この中庭の外縁を囲む壁は街からの視線を遮るかのように高く積み上げられた。本堂へと続く道もまた、いくつかの緊急通用路を除けばバリケードによって固く封じられている。


 ここより他にどこにも逃さず、封殺することを期した構え。

 想定された敵の名は――少なくとも今のフランタールを生きる人々であれば、誰もがよく知っている。


「そう固くなるな」

 自分のことをあえて棚上げするようにして、シグリオは呼びかけた。


「安心しろ。私がついている」


 大口を叩けば、ふ、と年配の兵たちを中心に笑いが洩れてきた。若は頼りになりますなあ。だろう。そこまで言えば若者たちも、それから事情を知らない聖職者たちまで同じく心を軽くしたらしく、緊張がもたらす不要な固さが空気に溶けていく。


 実際、とシグリオは思う。

 問題になると思われるのは、この三の従基の儀式ではない。最後に残す主基こそもっとも大がかりな儀式になるはずなのだ。できることならここは、ふたつめの儀式と同じように怪我人も最小限に抑えて、弾みをつけていきたい。


 大丈夫。

 東の聖堂では、ひとりの重傷者を出すこともなく儀式を済ませることができたのだから、と。


 剣柄に軽く触れたとき、ぽつ、と雨の滴がシグリオの袖を打つ。

 降り出すのと、ほとんど同時のことだった。


「――来たか」


 日暮れの直前の薄闇が、中庭のある一点で濃くなった。


 ぐねぐねと、それは蠢き始める。生理的な恐怖は、直接剣を交えるようになって十年が経ってなお拭い去ることができないのだから、もはや諦めるほかない。ふ、と短く息を吐いて、シグリオは剣を抜き放った。


「皆、訓練通りに落ち着いて――」


 あるいはそうした生理的な恐怖感こそが、シグリオの状況判断をより俯瞰的なものに変えていたのかもしれない。その言葉を言い切らないうちに、異変に気付いたのだから。


「……待て。様子がおかしい」

 影が、蠢き終わらない。


 経験則との異なりが、違和感を生み出した。影が動き出してから、〈影獣〉が形を取るまでの平均的な時間を遥かに超えている。どこまでも影が濃くなる。膨れ上がり始めている。遅れて周囲も気付き出した。その異変が、目に見える形で現れる。


 見上げるような、そんな大きさだった。




「――――ォオン――」

 深海に響く海鳴りのような、奇妙な音が中庭を満たした。




 体毛のない、黒く滑らかな身体。流線形でありながら、毒を持つ魚のように要所が尖る胴。四足は肉喰らいの虫のように鋭く、かぱ、と開いた顎は空を呑み込むように広く、深い。


 その口の中には、聖者を串刺しにする棘のように、美しい牙がびっしりと生え揃っている。


 あまりの威容に、中庭からは音が消えている。

 フランタールの歴戦の兵たちですら言葉を失って、剣を握る力すらも失いかけて、立ちすくむ中。



「――あれは、私がやる」

 シグリオは、堂々と言ってのけた。



 しかし、と反駁する声がした。若、と自分を呼ぶ声も聞こえた。その間決して目の前の化け物から目を逸らさずに、一言だけシグリオはそれに答える。


「後のことは、全て任せる」

 集中させろ、と。


 引き留める声は止んだ。一拍遅れて、フランタールの兵団が展開を始める。視界の端でよく見慣れた〈影獣〉が形を成し始めるのも捉える。あんなものが恋しくなるとは、と自嘲する間もなく、それはシグリオの意識の中から消えてく。視覚が集中する。遅れて残りの四覚も。


 顔に、いくつも輝く金色の目。

 その中に反射する、自分自身と目が合う。



 次の瞬間、中庭から全ての明かりが消えた。


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