07話ー① ふたりで遠くへ
1
「若~! 大、大、大、大評判ですよ!」
少しのうたたねから目を覚ますと、ものすごく近い距離に、ものすごい満面の笑みを浮かべたニカの顔があった。
「…………」
「あえっ。な、なんですか」
ぐに、とその頬を片手で挟み込む。しばらくあわあわと戸惑うニカをぼんやり見つめて、それからゆっくりと思考が回り出す。
十三時。
それでものんびり眠れるくらいには、涼しい季節がやってきた。
「そうか。それは何よりだな」
手を離す。ひょい、と長い脚を振るようにしてシグリオはソファから起き上がる。ニカが用意してくれていたらしいコップを手に取って、水を含む。口の中にそれを巡らせながらシンクに向かう。
「本当ですよ。見てください、この手紙の山!」
べ、とその水を吐き出してから、改めてコップを傾ける。
じゃん、と言うように両手を控えめに広げて、ニカがテーブルの上のそれを見せびらかしている。
確かに、手紙の山だった。
それもひとつひとつに、それほど見覚えのない封蝋の施された。
「こっちは商家のベルドリット子爵からで、こっちは内務次官のアンミュラ伯爵から。こちらの四通は辺境伯仲間の皆さんからのものですし、これなんか、なななな、なんと……誰からだと思います?」
「ヒント」
「偉い方です!」
「神様かな」
「惜しい! カルベリオ大公爵からです!」
いやあすごいですねえ、と。
子犬が初めて家に来たときのような笑顔でその手紙を見つめるニカに、シグリオは少しだけ悩む。今のうちに言っておいてやった方がいいだろうか。いいだろう。よし言おう。
「調子が良いときは誰でもちやほやしてくれるものだからな。悪くなると目も当てられないが」
「どうして若はそんなにひねくれた人になってしまったんですか?」
案の定、その笑顔が一気に『がっかり』に変わる。わずかな罪悪感は、ニカの言いぶりに相殺された。コップを置いてシグリオは自らその手紙の山に歩み寄る。そのうちの一枚を無造作に拾って読む。
どうせ辺境伯に宛てた手紙だから、自分が目を通す必要もないのだけれど。
「ほら、見てくださいここ。『〈影獣〉から塔を防衛する様は、まさにフランタールの一騎当千を物語るがごとしと聞き及んでおります』……みんな、すごく褒められてますよ!」
「そうだな。みんなが褒められるのは嬉しいことだ」
「それにほら、こっちも。『塔の耐久強化をお決めになった聖騎士殿の果断ぶりは、まさしく若かりし頃のフランタール辺境伯の姿を彷彿とさせ――」
「塔が壊れたのを見て『塔を強くしよう』と思わない人間がどこにいるんだ」
はいはい、とシグリオは手紙をテーブルに戻した。えー、と不満げな視線を向けられるから、くるりと背を向けて見ないふり。肩を回す。次にやることは何かあったか、と頭も回す。
三の従基は地元のことだから、それほど忙しいわけでもないな、と。
再確認がもたらした安堵に、少しだけ心地よくなった。
「でも、調子が良いことは喜ばしいことですよね!」
ニカの言葉も、それを後押ししてくれる。
「二の従基の儀式では怪我人すら出ませんでしたし。聖女様も流石のお手並みです。儀式の後は、それでもお疲れのようでしたが」
ああ、とシグリオは頷く。
夏に行われたあの儀式は、確かに文句の付けようのない出来だった。
もちろん伝統に反して塔の周りに兵を配置したことについては色々と突かれる要素もありそうなものだが、しかし上手くいっている限りはあの手紙の山だ。〈光継式〉は大陸の第一の関心事。少なくともその最中に、つまらない横槍の入る余地はない。
その上、
「その聖女様も、まだまだ魔法の研鑽にお努めになるようだしな」
聖女アルセアの能力は、確かに素晴らしいものだった。
メィリスの言っていたことに、全く身内贔屓がなかったことが確認できた。塔がより強靭になっただけで、つまり足場が崩れることなく〈光玉・エルニマ〉のコントロールに集中を注げるようになっただけで、難なく彼女は二の従基の操作を終えてしまったのだ。
それでいて「力があればあるほど安心ですから」と彼女は、三つ目の儀式に向けて、もう二ヶ月も前から南の聖堂で魔法巧者の聖職者たちに教えを受けている。
「〈光継式〉の不具合調査も教会側が進めてくれているしな。……いまいち、私たちの方で手持無沙汰になってしまっているが」
「塔の規格がそっくりで、二ヶ所目と工事の段取りも全然変わりませんからね。ま、でも。何もしていないわけじゃありませんよ」
むしろ、とそこで急にニカは優秀な付き人の顔をして、
「トップに余裕があるのは、組織が上手く回っている証拠です。この半年、ずっとお忙しくされていましたから。少し息をつかれるのもよいのでは」
その言葉を、シグリオはゆっくりと受け止めて。
だな、と瞼を閉じて、力を抜いた。
「しかし全く何もしないというのも落ち着かないな。じっとしてると主基の儀式が先取りで不安になってくるし……剣でも振るって鍛え直すか。付き合ってくれるか?」
「勘弁してください」
「おい」
いやだって、とニカが言い訳を始めようとする。
そのとき、遠くでドアベルの鳴る音がした。
「あ、お客さんですね。はいはーい」
軽快な足取りでニカが部屋を後にする。逃げたな、とシグリオは思う。当たり前の話だが、ここは教会に程近い別荘地とはいえ、フランタール辺境伯の持つ邸宅のひとつだ。守衛のひとりふたりは当然いるし、わざわざニカが行く必要はない。
しかし文官型のニカには荷が重い役であることも確かか、と。
誰か誘って街の警邏にでも出てみようか、とシグリオは腰に提げた剣柄に軽く指を触れる。
「若」
「ん?」
しかし。
すぐにニカは、部屋に戻ってきた。
訊き返せば、彼は珍しく「どうしたらいいかわからない」という顔をしている。部屋の入り口に立って、玄関の方を指差そうとして、いやそれはダメだというようにその指を折って、目線だけでそっちの方を見て、
「聖女様がお越しになっています。何でも、もう教会で教わることがなくなってしまったとかで……」
そんなことを、伝えてくれた。
2
遠回しにやんわり追い出されようとしているのだ、と。
話始めの段階においては、アルセアは思った。
三つ目の儀式に向けて南の聖堂に移動してから、二ヶ月が経つ。その間ずっと自分について魔法を教えてくれていた司祭が、唐突に切り出した。そういうことを言われる心当たりがなかったから、アルセアは何度かその意図を訊ねた。そしてそれに答える司祭の真摯な態度を受けて、言葉のとおりが真実なのではないか、というじんわりとした感触が芽生え始めた。
曰く。
あなたの魔法に関する技量はすでに南の聖堂に在籍する全ての聖職者を超えていて、自分が教えられることは何もない、だそうである。
3
「………はあ。それは、何とも」
話し終えてのシグリオのその反応に、アルセアは猛烈な恥ずかしさと弁解意欲を覚えていた。
違う。そんな大それたことを自分が言ったわけではない。そんな自惚れたことを自分が言うわけがない。ただ言われたことをそのまま口にしているだけで、そんなに自信過剰みたいに見られるのは自分だって不本意なのだ、と。
「〈光玉・エルニマ〉の解析に人員が吸われているというのもあるかもしれませんね。優秀な魔法技術を持つ方は、所属がどこの聖堂であれ駆り出されて、本拠地を留守にしていそうですし」
「……! そう。そうなんです」
しかし、すぐに続けてくれたその分析のおかげで、アルセアは早口で自分の心情について理解を求める必要もなくなった。
フランタール辺境伯が持つ、別荘の一室でのことである。
教会からほど近いところだから、アルセアは南の聖堂の司祭の言葉を聞いてすぐさまこの場所まで訪れた。せめて事前に連絡くらいは、と護衛についてくれているフランタール兵に話を通そうとしたけれど、「若――聖騎士様を相手に、そんなものは必要ありませんよ」「いつでも気軽にお訪ねください」とのことで、アポイントもなくここまで来てしまった。
そして実際、シグリオ・フランタールはいつでも準備万端らしかった。
いつものように、貴族らしい優雅な笑みを浮かべて対面の椅子に座っている。……けれどその姿にほんの少しだけ、アルセアは不思議に思うところもある。
夏の、あの聖堂で。
一瞬だけ見せたあの顔は、こういうイメージのものではなかったけれど、と。
「そうなると、優れた魔法使いを指導役としてお呼びするのがよろしいでしょうか。ちょうどこちらで心当たりもございますが」
彼の提案に、しかし「いえ」とアルセアは首を横に振った。
「光の魔法は特殊で、その扱いについては教会が突出している……と聞いています」
「おや。そうなんですね」
「ですから、外部の方からご指導を賜ることよりもむしろ、あなたにお願いしたいのは――」
ちらり、とアルセアは部屋の隅を窺った。
目線の先は、付き人の彼。目が合えば、すぐさま一礼をして部屋を後にしてくれる。その素早い対応にアルセアも礼を返して、もう一度部屋の中や窓の外を窺ってから、小さな声で、
「〈光玉・エルニマ〉の調査班に、儀式に必要になりそうな技術のリスト化を頼むことは、規定上問題になりませんか?」
わざわざ聖騎士を訪ねたのは、正直なところ『問題になる』場合を想定していたからだった。
この頼みごとをするだけなら、教会内部のことだ。そのまま南の聖堂で話を通すという手もあった。けれど頭にあるのは姉のこと――メィリスもまたその調査班に所属していると、後になって聖騎士伝いに自分が知ってしまっていること。
儀式中、聖女は身内の者との接触を控えるべきとされている。
だからこそ、まずは彼に相談をと思ってここに来たのだけれど――、
「ええ。特に問題はないかと」
あっさりと、彼は答えた。
拍子抜けした気持ちが顔に出ていたらしい。すぐさま彼は、
「おそらく姉君との接触についてご懸念なのでしょうが、〈光玉・エルニマ〉の調査班は教会支部の垣根を越えた混成チームですから。中立性については結成時点である程度保証されていますよ」
お伺いを立ててみましょう、と言って。
応接用のソファから立ち上がる。部屋の奥の机に向かっていって、手紙の用紙を取り出す。ペンを手にして、さらさらと流れるような手つきで文面を作り始める。
特に何が手伝えるわけでもないが、「それでは良いようにお願いします」と言ってすっくと席を立つのも気が引ける。
ソファに座ったまま膝の上で拳を固くしてそれを見守っていれば、顔を上げないで彼は言った。
「かかって五日、早ければ三日程度でしょうか。そのくらいで返答も来るかと思います」
「そうですか」
「はい」
短い会話。また、ぱたりと緊張が訪れる。
今度は長かった。じっと見つめられても書き物をしにくいだろうと思うから――少なくともアルセアは人に見られながら自分の名前を書くことすらあまり好きではない――目を逸らす。壁に目をやる。何かその壁に面白い迷路やパズルでもあれば良かったのだけれど、特に何もない。
というより。
貴族の邸宅とは、こんなに飾り気のないものなのだろうか。必要最低限、来客を不快にさせない程度の調度はあるけれど、言い換えてみれば、その程度のものの他には何もない。
「しかし、」
ぽつり、またシグリオが呟いた。
いきなりの音に驚きはしたけれど、アルセアもそれを態度には出さない。そっと息を吐いて、僅かに向き直る。
「こうして聖女様が私のところを訪ねてくださって、大変喜ばしく思います」
やはり顔を上げないままで、彼はそう言った。
はあ、と気のない返事をアルセアはした。それからその言葉が意味するところを察して「恐れ入ります」と丁寧に応じ直した。
言っていることは、通り一遍の社交辞令に聞こえる。けれど聖女就任からの自分の挙動を思い返すと、また言外の意味が込められているようにも思える。
自分ひとりでは、上手く解決できない悩みがあった。
今度はそれを、自分から声に出すことができた。
「――あれから、」
そんなの子どもでもできることだ、とアルセアは思うけれど。
できなかった自分を誤魔化してしまうほど、学習能力がないわけでもない。
「どうでしたか。そちらは。その、規定上……」
「特には何も。誰にも知られていませんから」
「そうですか。……改めて、今日はありがとうございます」
「いえ。手紙を一通出すくらい、簡単なことですよ」
ほらこの通り、と。
言ってシグリオはペンを置く。
「いつでも仰ってください。そのための聖騎士ですから」
書き終えた手紙を顔の横に掲げて、さらりと笑う。
もちろんアルセアは、聖騎士としてその一枚の手紙を書いてもらうことだけを指して礼を言ったわけではない。むしろその聖騎士の役割に抵触してしまう行為――規定を破ってでもこの人ならば事態を進行してくれると期待してここを訪れたこと。その身勝手について礼を、というより謝罪を、と。
思えば。
他にも謝るべきことがある、と心当たりに辿り着く。
今言ってしまおうか。そう心に浮かんだときには、もうシグリオは席を立っていた。扉に向かって、長い足で歩いていく。扉を開ける。すぐ傍に立っていたらしい、途中で退室してくれた付き人の彼に、その手紙を送付する指図をする。
見ていると、その彼と目が合った。
「聖女様は、その間はどうされるご予定ですか?」
どちらかというと、自分にではなく傍に立つ聖騎士への問いだったのだと思う。すると自然、その聖騎士もこちらを振り向いて、
「どうされますか、聖女様」
こちらに選択を委ねてくる。
特段、アルセアには希望はなかった。恐らく手紙が返ってくるまでの待機期間にどこに滞在するかを訊かれているのだと思うが、それまで教わる相手が確保できない以上、聖堂にいてもこの邸宅にいても何も変わりはない。答えあぐねていると、
「移動が続くのも忙しないでしょうし、こちらでお部屋をご用意いたしましょうか」
シグリオが、助け舟を出してくれる。
否やはなかった。確かにここで聖堂に戻って、また手紙が届いたらこの邸宅に来て、手紙を受け取ったら聖堂に戻って、というのも無駄に思える。聖騎士に代理で問い合わせてもらった以上、戻った先の聖堂に返信先を指定するというのも据わりが悪いだろうし、何より、
そうなれば、返信を待つ三日の間に。
さっき言い損ねたことを伝える機会もあるかもしれないと、そう思ったから。
「では、そのようにお願いします」
「承知しました。早速部屋の準備をしてきてくれ」
かしこまりました、と付き人の彼が一礼して去っていく。その背を少しの間シグリオは見つめて、それから扉をゆっくりと閉じる。
ぱたん。
それから目が合えば、驚いたような、思いがけないことに気付いてしまったような顔を彼は一瞬だけして、
「……お部屋の準備が整うまではこちらでお待ちを、と思ったのですが」
そう言って切り出すから。
「もしお疲れでなければ、少し外を歩きませんか。何もないところですが、我が領です。ご案内いたしますよ」
アルセアは、思いのほかその機会が早く来たことを知る。
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