06話 頑張って
1
声が、出なかった。
そう言い訳したい気持ちで、アルセアはいっぱいになる。けれど、自分にだけはわかる。それが嘘だと。本当は単に、応えるための言葉が見つからなかったのだと。
唐突に現れたその人に。
どんな風に向き合えばいいのか、わからなかっただけなのだと。
「気のせいかな。物音がしたような気がしたんだけど」
衝立の向こうから、言葉は続いてきた。
声の調子から、席を立ったり周囲を見て回ろうとする素振りは感じられなかった。それと同時に、アルセアにはわかる。これはひとりごとなんかじゃない。人といるときだって、不必要な言葉は発さないような人だから。
わざとだ、とわかる。
聞かせるために話しているんだ、と。
「どなたか、そこにいらっしゃいませんか?」
「――――あ、」
声は、かろうじて喉から絞り出されたけれど。
それは何かの決意があってのことじゃない。手が、足が、ふくらはぎが冷たくなる。夏だというのに今すぐ何かにくるまりたいような気持になって、それができないから心臓まで凍って、止まってしまうのではないかと思う。
止まってほしい、とも思った。
そうすればきっと、後はこの人が全てを上手くやり遂げてくれるのに。
「ああ。やはりいらっしゃいましたか。この部屋は、これから何かにお使いになられますか?」
「…………」
「もしそうでないなら、このまま使わせていただいてもよろしいですか? なかなかこちらの聖堂には落ち着ける場所がなくて、ようやく仕事に集中できる場所を見つけたんです」
様々な疑問が、アルセアの頭には浮かんでいた。
どうしてここに。どうして自分に。どうして気付いていないふりで。どうして聖騎士は。どうして、なぜ、どうすれば――ほとんどあらゆる答えには、混乱したままの思考では辿り着けなくて。
けれど「どうすれば」という問いにだけは、行動が常に答えを出す。
何もできずに立ち竦む。それすらも、ひとつの答えになりうるのだから。
「ああ、でも。もしも静かで落ち着ける場所を探しに来たのなら、私のことはお気になさらず。狭い場所の方が落ち着くんです。この衝立の中だけで私は十分ですから、どうぞ後はお好きなように」
そちらのソファも、存分にお使いください。
そう言われて初めて、アルセアの足は動いた。不出来なデッサン人形のような足取りでぎこちなく、言われたとおりにそこに向かう。腰を下ろす。もう二度と立ち上がれないような気がする。
しばらくは、何もなかった。
明かりの差し込む部屋。ソファの端から生まれた色濃い影。テーブルに光が跳ね返って、天井に大きく描かれた真っ白な四角。衝立の奥。ほんの半年前まで一緒にいたはずの人。懐かしい気配。何かを書きつける、聞き慣れた音の調子。
空が、風に流れていく音。
それからとうとう、彼女が言った。
「今日の〈光継式〉は、きっと成功するでしょうね」
その一言だけで、席を立って逃げ出してしまわなかったのは。
自分にはそれを聞く責任があると思ったから――そして、もうひとつ。本当に、アルセアにとっては不思議なことだけれど。
「そう、でしょうか」
「ええ。もちろん」
彼女の声色が。
いつものあの淡々とした、それでいてひとつの嘘の気配も感じられない、真実めいた音をしていたから。
「あまり知られていないことですが、今代の聖女様は卓越した魔法の力をお持ちです。必ずや〈光継式〉をやり遂げられることでしょう」
「……ひとつめの儀式では、あまり芳しい結果を得られなかったようですが」
「いいえ。『芳しくない結果』というのはこの場合、儀式の失敗を指すんです。今回の〈光継式〉の難航は……近く教会から発表があるでしょうから、ここで打ち明けてしまいましょう。実を言うと聖女様自身ではなく、それ以外の環境に問題があると見込まれているのです」
そのことは、もちろん聞いていた。
教会に所属する卓越した魔法使いたちが、そんな風に調査結果を出したのだと。それを信じるか信じないかは別として、アルセアはこう思う。
「しかし、より聖女に相応しい方がおられるのでは?」
だから何だと言うのだろう、と。
言葉はよく、放たれた後にその輪郭を明らかにする。このときもそうで、その言葉の響きが部屋の中に溶け切ってから初めて、アルセアは気付いた。
こんなことを、口にするべきではなかった。
「い、今からでも試してみるのは遅くはないのではないでしょうか。かつても二度、聖女の再選定は行われています。儀式が難航しているようなら、」
代えてみるのも、と。
一度の失言を取り返そうとして、余計に失言を繰り返している。そのことをアルセアは自覚していた。そこから先は、上手く言葉にならない。もっと優れた人が、もっと努力した人が。心から思っている言葉のはずなのに、口にするたびに心が空っぽになっていく気がする。ボロボロと何かが崩れ落ちていく。
忘れていた心細さが、再び顔を出す。
真っ青な手が、肩を叩く。
振り向けば、きっとそこには――
「――ああ。気にしてたのってそれなんだ」
その手を振り払ってくれたあの声が。
そのときもう一度、聞こえた気がした。
「何に落ち込んでるんだろうと思ってたんだけど……そういうことなら、いいか」
衝立の向こうで、何かが動く音がした。
そのときに感じた予感が、すぐに現実になる。足音が聞こえ始めた。衝立越しですら向かい合う勇気を持てなくて、背を向けたままだったから。視界の外から少しずつ、あの軽くてゆったりとした音が近付いてくる。
もちろん、アルセアは覚えている。
儀式の間、聖女は己の身内との接触を控えなければならない、と。
「姉――」
「そのままでいいから、聞きなさい。上手く話せないなら、話さなくていいから」
パチン、と指の鳴る音がする。何も変わらない、とそのときは思う。カーテンが引かれたわけでもない。窓の外に壁が立てられたわけでもない。一見すれば変わらない部屋がそこにあるばかり。
けれど、アルセアにはわかった。
この一瞬でメィリスはきっと、カーテンを引いたり、壁を立てたり、そういう行為に相当する『何か』を、目の前で見ていた自分にすらわからないような形で成したのだと。
「いい? アルセア」
肩に、彼女の両手が触れる。
「自分がしてきた努力に、責任を取りなさい」
そして、彼女は言った。
「自分に嘘をついたり、誤魔化したりするのをやめなさい。もう自分で気付いているでしょう。自分に『問題を解決する能力』が備わっていることに」
「でも――」
「選ぶのはあなたじゃない」
言い切らないうちに返された言葉は、いつものように真芯を捉えていて。
けれど肩に触れた手も、やはりいつものように、少しだけ温かい。
「そんなに複雑なことじゃない。一の従基に対する儀式は、あなたの手で確実に達成された。誰が何を言おうと思おうと、この結果だけは覆せない。もちろん、あなた自身でさえ」
「…………」
「あなたには適性がある。もちろん、意思に反して投げつけられただけの役割だと思うなら、こんなのはもう嫌だと思うなら、あなたがここから逃げ出していつもの暮らしを始められるようにしてもいいけど」
本当に、と。
彼女は、問い詰めるでもない口調で。ただ昔に――前髪を切りすぎた次の日の朝に「どこが変わったの?」と訊ねてきたあのときと、同じような調子で。
「そういうことがしたいの?」
「…………ううん」
いつもそうだ、とアルセアは思う。
この人と話していると、どんな混乱も少しずつ収まっていく。彼女はひとつひとつ確かめていくから。足場を踏み固めるように、周りにあるものに光を当てて、輪郭を明らかにしてしまう。
今、アルセアはこう思う。
ずっと、自分を憂鬱に導いていたのは――、
「別に今更こんなことで、私があなたのことを嫌いになると思っているわけじゃないでしょう」
「……でも。姉さんは、『聖女になる』って言ってたから」
少しの沈黙があった。
自分で口にした言葉なのに、不意に不安が襲ってくる。とうとう堪えきれなくなって、アルセアは振り向く。
そこにはよく見慣れた、いつもの顔があって。
「…………いつ? そんなこと言ったっけ」
本当にいつものように、不思議そうな顔をしていた。
「あなたの記憶違いじゃなくて?」
「い、言った! 言ったよ! 絶対言った!」
「いつ?」
日付まで言ってやろうと思った。
けれど「九年前の」の時点でメィリスは、かすかにうんざりしたような顔をして、
「出た。そんな昔のこと、普通は覚えてないから」
「――――」
この人はいつもそうだ、とアルセアは思う。
二年前に市内の図書館にふたりで出かけたときもそうだった。「初めて会ったときのことを思い出すね」とこちらから話を切り出したのに、心底不思議そうに「何が?」と言ったきりで全く思い出す気配がなかった。こういうときだけはいつもアルセアは思う。何なの。こっちはどんなときだって一緒に過ごす時間を大切にしているのに、そっちはまるで――
「はいはい。好きなだけ言い訳に使いなさい」
けれど。
ときどき彼女が浮かべる微笑は、自分のものよりも、ずっと優しくて。
「落ち込んだり悩んだりして心を守りたいなら、そうしなさい。誰も責めたりしないから。でも、事実だけは覚えておくこと。ひとつ。『〈光継式〉の成功を待つ人々は、誰が聖女になろうと知ったことじゃない』」
少し間を置いてから。
うん、とアルセアは頷いた。当然の道理だ。人々が求めているのは〈影獣〉が鎮められること――そのためなら聖女が誰かなんて、あるいは聖女なんていなくたって、誰も気にしない。
「ふたつ。『現段階において、あなたは聖女としての役割を果たすことができると見込まれている』」
「……本当?」
「現段階においてはね」
訊ねれば、率直にメィリスは答えた。
「今回の〈光継式〉は不測の要素が多いから、未来にわたって必ずそうだとは言えない。……これが三つ目。『もしかしたらあなたよりこの役割に適した人間はいるかもしれないけれど、それは私ではないし、少なくともここにはいない』」
すぐに応えるには、難しい言葉だった。
きっとこの三つ目で終わりだろう。そう思ったからアルセアは、自分に必要なだけの準備の時間を取ることにした。メィリスはそれを待ってくれるだろうともわかったから、落ち着いて。
結局、自分は。
ずっと戸惑っていたのだと、そう思った。
たくさんの物事が絡まり合っていたから、原因がわからなかった。あるいは、原因が多すぎて、一言でそれをまとめることができなかった。けれど今は、メィリスとの会話を通じて見えてきたものがある。
全く違う価値観をぶつけられて、自分は困惑していたのだ。
聖女に選ばれてすぐに思った。『人を馬鹿にしている』と。その理由は自分でわかる。自分の世界の中では、メィリスが絶対だったから。彼女の背中を追いかけていれば必ずひとつの価値観が――『最も努力する者が、最も選ばれるに値する者である』という考えが、貫き通せたから。
でも、そうではない場面に直面した。
きっとこれは、何も聖女の選定に限った話ではないのだと思う。努力、才能、資質――様々な場面で本当は、様々なものを基準にしてその椅子に座る人が決められていく。受け入れがたい、とアルセアは思う。けれどメィリスの言うとおり、選ぶのは、決めるのは自分ではない。本当はそのことがわかっていたから落ち込んで、淡い夢を見たりしていた。
自分の基準において『選ばれるべき誰か』が現れて、自分の代わりに椅子に座ってくれることを。
けれど、きっと――
「……うん」
頷いて、アルセアは応えた。
それからじっとメィリスの、一番その言葉を聞いてほしい人の目を、真っ直ぐに見つめて。
「わかった。頑張って、この役目を果たしてみせる」
きっとその『誰か』には、この椅子に座った自分がなるしかないのだと。
そう、結論付けた。
メィリスが、少しだけ微笑む。
それから穏やかに彼女は瞼を閉じて、
「四つ目」
「え?」
「『いつでも逃げ道はある。私は結構、あなたのことが好きだから』」
これでおしまい、と。
言い切ってから、その瞼を開いた。
「儀式まではまだ時間があるけど」
手を握って傍にいるって年でもないか、と。
さしたる余韻もないままに、「じゃあ私は寝るから」のときと同じような仕草で彼女は踵を返す。こちらに向けて、おざなりに片手を挙げる。
「頑張ってね」
広い部屋だから、止めようと思えば止められたと思う。
声をかければきっと、その場で「ん、」と言って振り向いてくれたと思う。
「うん」
けれど、アルセアはそうはしなかった。
ただ彼女の背中を見送る。扉が開く。扉が閉まる。ひとりきりで残されたこの部屋で、改めて空を見上げる。
夏の光がある。
誰の背中に遮られることもなくそこに、燦々と。
2
強烈な胃の痛みにシグリオは耐え続けている。
しかしそろそろ「何のこれしき」の呪文だけではどうにもならない領域に入り始めていることも感じ始めていた。
上着に手を差し込んで、懐中時計を確かめる。儀式までは残り二十分。つまりメィリスがこの部屋から出てきてから、たっぷり数時間は経過していることになる。
そのたっぷり数時間をシグリオは、ずっと胃痛と戦い続けていた。
なぜと言って、結局ふたりの話し合いが上手くいったのか、確証が持てていなかったからだ。
部屋から出てきたメィリスに、シグリオはすぐさま訊ねた。どうなりましたか。それに彼女もすぐさま答えてくれた。さあ。
さあ……?
「少なくとも悪い方向には転がらなかったとは思いますが、人の気持ちは外から見てはなかなかわからないものですから。結果として現れるまで、無責任なことは何とも」
異様に飄々とした女性だ、と最初に話したときからシグリオは思っていた。
飄々、という言葉も果たして当てはまるのかよくわからないが、とにかく捉えどころがない。それだけに放たれる言葉には嘘の気配が全くなく、とりあえず『彼女の主観では少なくとも現状維持はできた』ということは信頼してよさそうに思うが、しかし彼女の主観なるものが対人関係においてどの程度の正確さを有しているのか、いまいちわからない。
そのことを考え込んでいると、不思議と彼女もまた、何かを少しだけ考えるような素振りを見せてから、
「色々と面倒なところもある子ですが、」
品の良い仕草で頭を下げて、
「根は――人の心根のことも、なかなか語れませんが。周囲に明確な害を頻繁に振り撒くということはありませんので、どうぞこれからもよろしくお付き合いください」
身内の評価をするのに、これほど外形からの観察に寄ったアプローチをする人間をシグリオは初めて見た。
終始彼女のペースのままで会話は終わり、ふたりは別れ。
だからシグリオはずっと、夏の廊下で気を揉み続けていた。
もう一度時計を見る。
残り十五分。そろそろだ、とシグリオは思う。
彼女――アルセアを信じるなら、あと五分から十分は待てる。塔に近い部屋を確保したというのも本当のことなのだ。ギリギリまで集中してもらって、そこから移動してすぐさま儀式に取り掛かるという手筈でも問題ない。そう考えるなら、まだ少し早い。
けれどそうでないなら……つまり、アルセアがかえって精神的な調子を崩している可能性を考慮するなら、今の時点で確認した方がいい。多少の声かけでその調子を戻す手伝いくらいはできるかもしれないし、場合によっては何かそれらしい理由をつけて開始を遅らせることもできる。それならばもう、今このときに動いた方がいい。
悩ましい。
だからシグリオは低く唸り声を上げそうになり、いやいやフランタール辺境伯の跡取りたるもの、聖騎士たるものそんな動揺はもってのほか。夏を映した窓に向かって涼しい顔を保って残り十三分。しかし、とそのあたりで気付き始めている。こうして立ち尽くしたままで時間の過ぎ去るのに任せている時点で自分の心はすでに――と。
がちゃり、と扉が開く音がした。
だからほのかな微笑を浮かべてシグリオは、その扉を開けた人に向き直る。
「ご準備はもう、よろしいですか」
「ええ」
その顔を見た瞬間に、ついさっきまでの悩みの全てが吹き飛んだ。
晴れ渡る、雲ひとつないような夏の空。
不思議なものだった。さっきまで事の行方がわからないままに見上げていたときは、あまりの日差しにうんざりするばかりだったのに、今ではこんなに爽やかな青色に見える。
少し早いですが、参りましょうか。
踵を上げる準備をしながら、シグリオはその言葉を口にして、彼女を先導しようとする。
けれど、その前に。
「お気遣いいただいて、ありがとうございました。もう、平気です」
彼女は深々と、こちらに頭を下げてきた。
思考が止まりかけたのは、決してそれを予想していなかったからではない。メィリスが去ってからの数時間が、あの邂逅と自分との関りをアルセアに気付かせるのに十分な時間だということは認識していた。
ただ、彼女の言葉と身振りが、あまりにも真っ直ぐだったから。
まるで外見には似ていないのに――確かにこのふたりは姉妹なのだと思わせるくらいに、率直なものだったから。
彼女が顔を上げたとき、自分はどんな顔をしていたのだろう。後になってシグリオはそれが気になったけれど、そのときはもう、自分のことは何も考えてない。確かなのは彼女が、自分を見て少し驚いたような顔をしたこと。それでは、と言って導く自分の隣に立ってときどき横顔をちらりちらりと窺ってきたこと。
それから。
「ひとつだけ、訊いてよろしいですか」
こんな風に言って、切り出してきたこと。
「どうして、ここまでしていただけるのでしょう」
考えるまでもない質問だった。
聖騎士だから。〈光継式〉の成功は、この大陸に暮らす全ての人々の願いだから。あるいはもっと単純に、落ち込んでいる人がいたら慰めたいと思うのは当然のことだから。
けれど、その考えるまでもない質問は。
きっと聖女様の霊感によって、この不思議な、自分でも訊ねられるまで考えてもいなかったような答えのために投げかけられたのだろうと、後になってシグリオは思い返す。
「唐突に『選ばれる』ことの戸惑いが、私にもわかるから……かも、しれません」
儀式は、定刻通りに完了した。
新しく立てた計画からひとつも外れるところなく、つつがなく。
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