05話 どうしてここに



「やることがないなら、私と一緒にいる?」

 初めて教会に来た日のことは覚えていないが、その手を差し伸べられた日のことは今でもはっきりと、瞼の裏に思い描くことができる。



 ある人は「不幸な事故だった」と言った。またある人は「最期まで病と闘った」と。その不思議な矛盾を解決するだけの思考能力が育ったころ、ほとんど自動的にアルセアはひとつの結論に辿り着いた。誰も知らなかったのだろう。自分の両親がどんな終わりを迎えたのか……あるいは、終わりを迎えることもなく、今でもどこかで生きているのかを。


 それほど違和感のあることではなかったと思う。教会学校に通う子どもたちは多くいたけれど、十にも満たない年から学生寮に居を置く者は少ない。そしてそのほとんどは、それまでの短い人生においてすでに、何かしらの事情を抱えている者だった。


 だから、その結論にもそれほどの衝撃は受けなかったけれど。

 代わりに時々、アルセアはこんなことを思うようになった。



 自分は、どうしてここにいるのだろう?



 学友と言葉を交わしているときも。食事をしているときも。消灯の時間が来たのに眠れないままで、明日の朝の心配をしながら天井を見つめているときも。不意に、背中から真っ青な手が現れて肩を叩く。振り向くとそこには奇妙な、真っ白い崖が見えた。自分の足跡がどこにも見当たらない。もう一度振り向けば崖すらもなくなってしまうような気がして、そのまま目を閉じる。


 生きることは、そのころ。

 アルセアにとっては、覚める先のない夢のようなものだった。


「図書館に来たのに、何も読まないの?」


 瞼を開けると、ひとりの少女がこちらを覗き込んでいた。


 教会学校に備え付けられた図書館の奥深く。難しくて一ページだって読めないような黴臭い本の眠るそこは、知り合いのひとりも寄りつかないはずの場所だったのに。


 両手でも抱え切れないような大きな本を、胸に抱いていた。

 それほど知っている顔ではなかったけれど、全く知らない顔でもなかった。つい最近に学生寮に編入してきた上級生。名前は――、


「メィリス」

「暇なの?」


 彼女の問いに、アルセアは頷くとも否むともできなかった。わからなかった。自分が今、どんな状態にあるのか。だからそのまましばらく答えずにいれば、彼女は、


「暇なんだ」

 そんな風に、勝手に結論を出して、



「やることがないなら、私と一緒にいる?」



 劇的な何かがあったわけではなかったのだと思う。

 メィリスはきっと、気まぐれで声をかけただけだった。習ったばかりの教会の流儀を、目の前にいるいかにも人付き合いに疎そうな年下の子どもで実践してみただけ。アルセアもそうだった。ただ、向けられた些細な厚意を、そのまま受け取っただけ。


 けれどメィリスの背を追うことは、アルセアの生き方を根本から変えてしまうような体験だった。


 もしも自己研鑽という言葉が人の形を取ったなら、きっとメィリスそっくりになるだろう。冗談でも軽口でもなく、本気でアルセアはそう思っている。瞳の中に映る彼女はいつも完璧で、それでいてほとんどあらゆる向上心を持っていた。


 動いてみれば猫よりもしなやかで、机に向かえば教師よりも思慮深い。ただその背中を追ってついて回るだけでも、真剣に比べてみるのも馬鹿馬鹿しいような真似事を隣でしてみるだけでも、絶え間のないひたむきさが必要だった。


 その背を追いかけるだけで、アルセアは精一杯で。

 その精一杯が、色々な物事を忘れさせたのだと思う。


 今でもアルセアは思う。メィリスには遠く及ばない。ほとんどどれを取っても自分が彼女に勝るところはない。そしてそのことを、理不尽とも何とも思わない。だって見てきたから。彼女が努力を努力とも呼ばずに進む姿を。自分より遥かに資質に優れた彼女が、信じ難いほどの几帳面さで以てその資質を磨き続ける様を。


「姉さんは、何かなりたいものがあるの?」


 アルセアは、メィリスと過ごした日々のいくつかを今でもはっきりと、たった今起こったことのように思い出すことができる。


 この瞬間もそうだった。姉と呼んでいいかと訊ねた、その少し後。自分がその言葉を口にするためにどれだけ準備して、どれだけ緊張していたかなんてまるで知らないような顔をして「うん」とだけ彼女が頷いた後。もうその頃にはすっかりメィリスは人気者だったから、寮に戻ればふたりきりになることは難しくて、だからこの図書館の片隅にいる時間がひどく大切で、そのときの窓の向こう、少し暗い雲の端から覗いていた金色の午後の光、湿った風の音、古い本の表面から舞った埃が生み出した、あの美しい模様のことも。



「聖女になる」


 そう答えたメィリスの、秘かな企みを打ち明けるような、珍しい微笑みも。




 何もかも覚えているから、アルセアは今、こう思う。

 自分は、どうしてここにいるのだろう。






「はい、どうぞ」

 ノックをした後に聞こえてきたその声は、百歩譲っても「どうぞお好きなように私の意思を無視してください」くらいの気持ちはこもっていそうに響いた。


 しかし言葉の上では「どうぞ」と言われているのに黙って立ち去る訳にもいかない。目を瞑って、小さく息を吸う。息を吐く。その程度では心の準備は整わなかったけれど、そもそも一週間も猶予があってこの有様で、急に間に合うはずもない。


 開き直って、


「失礼します」

 がちゃり、と扉を開けると、窓辺に彼女は座っていた。


 朝の光は眩く、待合室のよく磨かれた調度品を白く照らしている。幸い天気には恵まれた。残念ながら、その恵まれた晴れの日に佇む彼女の顔の奥には、かねてよりシグリオが気を揉んでいる憂いのようなものが秘められて見えたけれど。


「まだ、」

 こちらが話を切り出すよりに先に、アルセアはその顔を動かした。視線の先には時計。


「時間はあると思いますが。何か事前の準備がまだありましたか」

「いえ、特にここから慌てるようなことはありません。儀式のための人員配備、塔の補強と運用試験、全て滞りなく済ませておりますので」


 そうですか、と彼女はそれほど気を抜いた風でもなく頷いて、むしろかえって肩のあたりを強張らせるように視線を戻して、こちらと目を合わせたりはせずに、


「でしたら、できる限りひとりにしてもらえますか。集中したいので」

 淡々とした口調で、そんな風に呟いた。


 その言葉に、今更になってシグリオは不安を覚える――今から自分がしようとしていることは、果たして状況の改善に資することなのだろうか。聖女としての力に申し分はないと、太鼓判は押されているのだ。彼女が自分で言うとおり、ただひとりで放っておくだけで、必要な成果は得られるのではないか。


 悩み始めればキリがない。

 けれど常に決定を続けなければならない――自分に課せられたのはその役割だと、わかっていたから。


「ええ。そう仰ると思いまして」


 シグリオは。

 できる限りの平然の表情を作って、そう答えた。


「もう少し塔に近い部屋を待機室としてご用意いたしました。今のうちに移動されるのはいかがでしょう。この部屋の近くは連絡員が行き来して、儀式の時間が近付けば多少慌ただしくはなってしまいますので」


 す、と目線を滑らせて、聖女がこちらを見た。

 拒絶の色はない。こちらを頼るわけでもないだろうが、疑っているわけでもない。そんな視線。心苦しさはひとまず抑え込んで、シグリオは続ける。


「まだ儀式まで三時間がありますが、少しでも落ち着けるところの方がよろしいのではないかと」

「……そうですね」

「ええ。もし新しいお部屋がお気に召されなければ、またこちらに戻ってきていただいても構いませんので。よろしければ、ご案内させていただきます」


 数秒の間。

 けれどそれは逡巡というより、純粋な反応速度の問題だったのだと思う。席を立つと決めてから、実際に席を立つまでの時間。その間の緊張に、爪先だけが僅かに床の上で向きを変えそうになったのを、きっと彼女には気取られないまま、


「では、お願いします」

「かしこまりました」


 彼女の言葉に、ごく自然な笑顔で以て、シグリオは応えた。


 ドアを開けて、廊下に出る。誰にも気付かれないように、見つからないように。東の聖堂は儀式を前にして張り詰めたような、あるいは長い長い準備期間の間に不安で疲れ切ってしまって解放を待つだけのような、奇妙な時間が漂っている。


 その中を、シグリオはアルセアを導いて歩いた。

 夏の廊下。太陽の明かりが眩しすぎて、振り向いてもきっと互いの顔すらも見えなかっただろう、強い輝きを放つ短い道を。


 ぴたり、と足を止める。

 扉を開ける前に、少しだけ間を置いた。


「聖女様」


 その言葉を口にしたときは、実のところ自分の表情はひどく強張っていただろう。そうシグリオは、自分でわかるけれど。


「もし、」


 そう言って振り向いたときには。

 やはりいつもの笑顔が作れていたはずだ、と自分で思う。


「ご用意した部屋がお気に召さないようでしたら、いつでもお申し付けください。部屋の外に控えておりますので」

「……? はい。わかりました……?」

「ええ、ご遠慮なく」


 それでは、と扉を開く。

 中にあるのは、何の変哲もないただの応接室のひとつだけれど。


 中へと招き入れるためにシグリオは背筋をピンと伸ばして扉を押さえたまま、すれ違う彼女に一言、ひどく小さな声で、囁くように告げる。



「では、ごゆっくり」






「…………?」

 得体の知れない青年だとは思っていたが、今日は輪にかけてよくわからない。


 部屋に入って、彼が丁寧に扉を閉めて、しかしそれからもしばらくはその場に佇んで、今の言動の意味についてアルセアは考えを巡らせていた。


 しかしすぐにその思考は打ち止めになる。どうせ、相手のことなんて何も知らないのだ。考えていたって何か核心的な答えに辿り着けるわけではない。それに一般論として、今日という日なのだ。緊張したり、張り詰めたり。そういうことで以て言動がおかしくなることも、誰にだってあるだろう。


 何せ、今日は二の従基に対する儀式を執り行う日で。

 一度目の儀式において自分は、あれだけの混乱をもたらしたのだから。


「…………」

 憂鬱が、雲のように夏の日差しを覆い隠し始めるのをアルセアは感じた。


 部屋は、確かに先程の部屋よりも随分と広く、静かだった。


 東の育ちではあるものの、まさにこの東の大聖堂で育ったというわけではないから、アルセアもこの場所のことはよく知らない。自分が育ったところよりはずっと広々としていて、誰もいない中庭に面した窓からは大いに陽の明かりが差し込んでいる。


 調度品も良く手入れされているように見えたが、しかし普段使いされている部屋ではないのだろう、と見て取った。なぜと言って、物置代わりにでも使われているのだろうか、いくつかの衝立が無造作に置かれたままになっている。この手の手抜かりはあの聖騎士にしては珍しい――心の中でアルセアは思ったけれど、しかし今はその手抜かりがありがたく思えた。


 いつものようにこの部屋を――この広い部屋を、『聖女のために』と一分の隙もなく整えられていたら。


 ひょっとすると自分はこの場所に耐え切れなかったかもしれないと、そう思うから。


「……頑張らなきゃ」

 今日の何度目だろう。ぽつりとアルセアは呟いた。いつまでもこの場所から動かずにいたい。そう思いながらもゆっくりと歩みを進め、やわらかいソファに腰を下ろした。


 窓の向こう。光る庭を見つめながら、心の奥から表から、次々に溢れてくる不安と憂鬱に対処を続けようと、そう思った。



「――――おや。どなたか、この部屋をお使いになりますか?」



 そのとき。

 衝立の向こうから、ひどく聞き慣れた声がした。






 緊張のピークは、部屋の中から話し声が聞こえてきた瞬間に訪れる。

 思わず両手を組んで祈り出しそうになりながら――しかし、両手を組んだままでは咄嗟に剣を握るのに支障が出る。護衛の任が全うできない。そう思ってシグリオはただ、部屋に背を向けるようにしてそこに立ち続けた。


 代わりに心の中だけで、強く思う。

 どうか誰にも見つからぬように、と。


 賢者ロディエスは〈光継式〉に関して様々な手順と制約を残した。それはたとえば〈聖女選定の儀〉に関する実際的なことであったり、あるいは〈聖騎士選定会議〉において己が誓わされたような、あの奇妙な特約であったり。


 彼女の人生を紐解いてみれば、しかしシグリオにもその理由がわかる。類い稀なる才能を有した賢者ロディエスの一生は――しかしその実、己の才能自身と戦い続けたようなものだからだ。


 今よりもずっと未成熟だった社会の中で、燦然と輝く力として君臨した彼女は、しかし王ではなかった。地位や権力による裏付けも、晩年に自ら勝ち得るまでは存在しない。利に敏い者も、力に溺れようとする者も、あるいはそれこそ今を生きる自分たちのように彼女の才を以て明日の太陽を望まんとする者も、止むことを知らない嵐のように彼女を取り巻いた。人民の苦難の解決者として現れた彼女は、しかしかえって人民自身から与えられる苦難にその聡明さで以て対処せざるを得なかったのだ。


 だから彼女は、知っていたのだと思う。


 人類の天敵を封じ込める儀式が、どれほど強大な権威と権力をもたらすか。

 自分が死した後にそれが悪用されれば、どれだけ恐ろしいことが起こるかを。


「聖女、か……」

 きっとその名は、とシグリオは思う。

 権威と権力の分散のためにつけられた名なのだろう、と。


 そして同時に、賢者ロディエスに対する奇妙な信頼のようなものも覚えている。彼女は千年前に生きた人物でありながら、決して神に――少なくとも神の名の下に集う者たちに、無条件の信頼を寄せていたわけではなかった。それが権力闘争の盤面に参戦しうる駒のひとつだと、正確に認識していた。〈光継式〉を教会に任せればそれで安心、なんて楽観をしてはいなかった。


 だから、縛った。

 聖騎士と聖女に課したものと同じように。そう、たとえば。



〈聖女選定の儀〉より以前に聖女と関わりのあった者は。

 少なくとも〈光継式〉の間においてはみだりに接触せぬこと、なんて規定で。



「…………」

 呟きのその先はもう、言葉にはしない。


 その場に座り込んでしまいたいような気持ちをどうにか抑え込みながら、それでも壁に背を付けることもせず、真っ直ぐにシグリオは扉の傍に立ち続けた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る