04話 季節は流れて



 嫌がらせのような早さで、春は過ぎ去っていった。



「今回は私の主導で聖塔の補強を行いました。これでひとまず儀式の最中で塔が崩壊することは避けられるかと思います」


 窓の向こうには、陽炎の立つような熱気に満ちた街と、それよりも遥かに鮮やかに光る真っ青な空がある。椅子と椅子に挟まれて机の上、白い紙切れが水面のように光っていた。


「また〈影獣〉への対処の必要性から、中庭にあらかじめ兵を配備しておくことも決定いたしました。こちらはすでに教会と調整済みですので、聖女様はご心配なく」


 目まぐるしい日々を駆け抜ければ、またもうひとつの壁に辿り着く。

 壁に向かって走ってきたのだからそんなことは当たり前のことなのだけれど、それでも「どうして走ってしまったのだろう」なんて、時を戻したってどうにもならない後悔ばかりは胸に残ってしまって。


 アルセアは、考えている。

 こんなことじゃ、自分は――、


「聖女様?」

「――はい、」

「ああ、失礼しました」


 何かを考えておられるようでしたから。

 そう言って笑う向かいの青年に、視線が落ちていく。


 真っ白な包帯が、まだ服の袖と襟から覗いていた。

 顔の擦り傷はすっかり消えてしまったけれど、まだアルセアは昨日のことのように覚えている。聖塔が崩れ落ちたあのとき、自分を庇ったこの青年の傷ついた姿を。


 今はまるで、そんなことなんてなかったかのように。

 日の光を背にして、完璧で美しい笑顔を浮かべているけれど。


「ひとまず、こちらからの報告は以上です。東の聖堂への移動日は明日として、儀式自体は十日後。基本的には以前と同様に聖女様には教会でお過ごしいただくことになりますが、私も近くに待機しております。御懸念のことがあれば、いつでも仰ってください。速やかに対応いたします」

「はい」

「ここまでで、何かございますか?」


 過ぎ去った春の間、自分が考えていたのはたったひとつのことだったのではないか、とアルセアは思う。


 様々な対策に奔走する中で、けれど結局、どこにも進んでいなかった。あの日からずっと同じ場所に立っている。


 あの大聖堂の聖塔で、あの人を追い越してから。



「――いえ、何も」

 選ばれるべきは自分ではなかったと、そればかりを。






「どう考えても何かはあるな」

「ありますか」


 思うところが、という話だ。


 大陸各地に別荘でも持っていれば良いのだけれど、フランタール辺境伯家は残念ながらそこまで手広い勢力を持ってはいない。さらに他の貴族に頭を下げさせてもらえるほど深くどこかの派閥に入り込んでいるわけでもなく、かと言って聖騎士一行がそこらの安宿に長期宿泊というのも外聞が悪い。


 だからシグリオたちは、教会の保有する宿泊施設の軒を借りている。

 今のところ仕事の都合上それは酷く快適で、この日もすっかり月明りだけが足元の頼りになるような時間になってから仕事を切り上げたというのに、椅子に身を沈めながらニカにそんな相談をする時間や気持ちの余裕があった。


 夜。

 窓の向こうには、果てしのない暗闇が広がっていた。


「何か飲まれますか」

「いや、いい。疲れているときに酒は入れたくない」

「清貧ですねえ。聖騎士の鑑だ」

「それはどうも」


 服の襟を緩める。手に持っていた資料を机の上にパン、と置く。どうぞ、と言ってニカが水をコップに水を注いでくれる。座ってくれ、と手で合図すれば、彼はもうひとつのコップを用意して、いかにも耳を傾ける姿勢を取ってくれる。


「あの様子だと、かなり精神的に参ってるな」

「まあ、それは……。…………」

「いい。誰も聞いてない。続けてくれ」

「……こう言ってはなんですが、ついこの間まで教会学校に通われていたような方でしょう。あんな高いところから落ちて〈影獣〉に囲まれたりなんてしたら、参って当然だと思いますよ」


 僕だって参ります、とニカは言って、それからふと気付いたように「いや僕ごときと並べて語るのも恐れ多いんですが」と慌てて胸の前で両手を振る。


「それはそうなんだが、」

 その言葉にもっともらしさを感じて頷きながらも、シグリオは小さな違和感を覚えていた。


 確かに、普通の神経をしているのであれば儀式それ自体が怖くなってもおかしくはない。しかし聖女のあの表情の奥にあるのは、単なる恐怖なのだろうか。


 思い出すのは、あのときのこと。


 聖塔が崩れ落ちて、誰も彼もが混乱の只中にあったというのに。

 その中心にいたはずの彼女だけが――決してその手を緩めることなく、儀式を遂行し切ったという事実。


「あとはまあ、不安なんじゃないですかね」

 ニカが、不意に天井の辺りに視線を上げながら、


「若と同じですよ。昔の」

「私とは違うだろう。〈光継式〉の手順の中で根拠があって選ばれたんだ」

「でも実際、一の従基はああなって――いや、決して聖女様の、その、責めようというわけではないんですが」


 弱まった語気の先が、シグリオにはわかる。ここ数ヶ月、それも含めて対処してきたからだ。


 今、彼女の――アルセアの聖女としての資質を、不安視する声がある。

 聖騎士を担うことになったのがフランタールの出であることから、そこまで悪質な政治的意図はここに絡んできていないが、それだけに純粋に。


〈光継式〉が成就されなければ、賢者ロディエスの偉業より前……〈影獣〉の脅威が今より遥かに大きかった時代に戻されることになる。それがどれほど重大なことなのか、今の時代を生きる人々には決して、正確な体感をすることはできないけれど。


 想像することはできる。


〈光玉・エルニマ〉があってさえ今の有様だというのに、これ以上、と。


「……わからんな。〈聖女選定の儀〉に不備があったとも思えないんだが」

「あ、それに関連してですが。東の支部から会議の申し入れがありましたよ」

「内容は?」

「教会側でも今回の事態を受けて〈光玉・エルニマ〉の解析を進めている……とまでは以前にご報告したかと思いますが」

「ああ」


 今回、と。

 椅子を立ってニカは、奥の机に積み重なった書類の山からさらりと一枚を引き出して、


「二の従基を取り扱うのに先立って、対面でその解析の途中結果の報告をしたいと。報告者は支部長の予定ですが」

「担当者に代えてもらえるか。できれば詳しい話が訊きたい」

「そう仰ると思ってあらかじめ感触だけ確かめておきました。どうも高度すぎて支部長も深くは理解できかねるというのが実態のようですので、その形の変更も通りやすいかと」


 支部長でもか、と。

 口にしかけて、シグリオは止める。自分の中だけでその疑問は解決した。〈光玉・エルニマ〉が誰にでも理解できる程度のものであれば、こんな事態には陥っていない。余人の及ばぬ異才が遺した、千年届かぬ極致の魔法。それがあの光なのだ。


「となると、その解析結果から事態が好転するのも望み薄か」

「どうでしょうね。そこまではちょっと僕からは何とも」

「わかった。会議の日時は」


 明後日、昼食後の一番に、と。

 ニカが言うのを何かに書き留めようとして、けれど他ならぬ彼が言う。大丈夫ですよ、僕が覚えていますから。


「しばらく忙しくはありましたが、かえって聖堂入りしてからは落ち着くかと。教会側もここからは引いた図面の完成に集中するでしょうし、良くも悪くも貴族方は儀式の成り行きを見守りたがっていますから」

「蛇に睨まれた蛙の気分だ」


 はは、とニカは笑う。

 遅刻はしないようにしましょうと皮肉を言って、手に持っていた紙を書類の山の中に戻す。


 うん、とシグリオは背伸びをした。

 ぐ、と肩の辺りが伸びる心地良さに目を瞑る。随分と疲れが溜まっている。ぱ、とその背を戻す。明日は移動日。コップを手に取って、これを飲み干したらすぐさま寝てしまおうと思う。


 そのとき、不意に思う。


 騎士の鑑。

 ニカがからかって口にした、その言葉。不安。表情。これからのこと。


〈影獣〉を斬るだの、瓦礫から庇うだの、その程度のことならばいくらでもできるけれど。


 果たしてそれだけが、聖騎士の役目なのだろうかと、そんなことを。


「…………」

 ぐい、と一気に残りを飲み干して、シグリオは思う。



 やれる限りのことは、全てやる。

 選ばれた自分がすべきなのは結局、いつだってそれなのだ。






「まず申し上げたいのは、今回の〈光継式〉の難航は聖女様の力不足に起因するものではないということです」

「――――」


 思わず言葉を失ったのは。

 昼食を終えてすぐに来室したその聖職者が、予想していたよりも遥かに核心的なことを、端的に述べたからだった。


 東の聖堂の、いくつもある面会室のひとつだった。聖堂入りしてからは一部区画を聖騎士の権限を以て借り使いさせてもらっている。ここに来てからたかだか一日ですっかり馴染みの良くなった椅子の上で、シグリオは腰を浮かしかけていた。


「それは、今回の儀式の不調の原因が突き止められたということですか?」

「いえ。ただいくつかの客観的な証拠から、そちらの仮説は不採用とされた、ということです」


 対面に座るのは、小柄な女だった。

 それこそアルセアよりも年若く映る。入室してきたとき、シグリオはてっきり教会学校の学生がこの場所の借り上げを知らずに迷い込んできたのかと思ったし、「〈光継式〉に関するご報告に参りました」と頭を下げられたときは、それまでの自分の言動に失礼なところがなかったか振り返る羽目になった。


「こちらをご覧ください」

 彼女は、一枚の紙を机の上に滑らせる。


「歴代の聖女たちの魔法技術の記録です。教会の秘匿記録ですので、目視のみでのご確認を」

「……これは、あまり」


 記された文章を目で追いながら、思うところを素直に口にすれば、それでよかったらしい。対面する彼女は頷いて、さっとその紙を折り畳み、


「ご覧の通り、歴代と比較してアルセア様の魔法技術は突出しています。このことから、今回問題となっているのは魔法操作の力量ではないということがおわかりいただけたかと思います」


 ええ、とシグリオも頷いた。疑う余地がない。先ほどの記録が正確であるならば、そもそもこの〈光継式〉自体にそこまで高度な魔法操作技術は要求されないと見て構わないはずだ。


「そうなると、〈光玉・エルニマ〉とアルセア様の相性の問題になるわけでしょうか。たとえば波長が噛み合っていないとか、そういうことが」

「それについても、こちらを」


 言って、彼女は次の記録を取り出す。

 失敗、という文字に、思わずシグリオは目を見開いた。


「前例が?」


 そこに記されていたのは、こういうことだった。

 三代目に行われた〈聖女選定の儀〉。そこで誰も適格者が現れず、再び儀式を行ったことがある、と。


 こちらも頷いて、聖職者はその紙を懐に戻し、


「本当に不適格であれば、〈光継式〉はそのような形で処理が進むように設計されています。また、西の支部長による聞き取りの結果、儀式の最中にアルセア様は波長の不一致に伴う『重み』を一切感じておられなかったとのことですので、聖騎士様がご懸念される波長とはまた別に問題があるものかと」


 であるなら、と。

 次に見えた選択肢に、眉根を寄せた。



「〈光玉・エルニマ〉自体に問題がある、と?」



 是とも非とも答えず、その聖職者はこちらを真っ直ぐに見つめた。

 目と目が合えば、それでわかる。本当の懸念は、こちらの方なのだと。


「それは……」

 思わず溜息のように呟いたのは、そちらの方がより深刻だと思ったからだ。


 もしも聖女アルセアの方に問題があるのだったら、それを解決するだけで済んだ話なのだ。


 魔力の制御が甘いというなら、あれからの春をずっと彼女が教会と協力して取り組んでいたように、自己研鑽に励んでもらえばいい。相性が悪く、根本的に適格でないというならば、手続きは非常に煩雑になるだろうが、新たに相性の良い聖女を見つけて選び出せばいい。


 しかし。

〈光玉・エルニマ〉自体に問題がある場合には――、


「経年劣化でしょうか。だとするなら、根本的に〈光継式〉の完遂によっても事態が好転しない可能性まで見えてきますが……教会側の見立ては? 意見をいただきたい」

「申し訳ございませんが、現時点ではお答えしかねます」

「では、その見立てができるまではどの程度の期間が必要になりますか? 現時点での予想で構いません」

「千年も人の手の入ることがなかった領域ですので、現段階ではその予想すら申し上げることはできません。ただ――」

「ただ?」

「〈光継式〉が主基の段階に至るまでには、必ず間に合わせます」


 そう言い切った聖職者の思わぬ眼差しの力強さに、シグリオは不思議と励まされたような気持ちになった。


 予想を口にすることすらできないと言ったのだから、これはただの期待や、宣言なのだろう。


 それでも言ってのけた彼女のその堂々とした態度を見て、シグリオは思う。ひょっとすると自分が今対面しているのは、予想より遥かに魔法に卓越した者なのかもしれない、と。


「……わかりました。その点、教会を信頼してお任せします」

 己の力の及ばぬところではある。だから彼女の言葉には素直に頷いて、それから、


「ですが問題は、差し迫った二の従基に対する儀式ですね。前回も掛け合ったところですが、やはり延期は難しいですか」

「一年を通して行う儀式ですから、多少の振れ幅は許容できます。ただ、その多少の振れ幅の間に問題が解決できるかと言えば――」

「むしろ延期によるリスクの方が高くなる。少なくとも一の従基は、これまでの手順を用いて儀式が完遂されている。下手に手を入れて、より儀式が難化した方が困る……と」

「はい。ですから、ひとまずは聖女様のお力を信じるのがよろしいかと。前回と同じ回答になってしまい、申し訳ありませんが」


 いえ、とシグリオは首を振る。二度訊いてしまったのは、単に己の弱さだ。


「わかりました。引き続き解析の継続をお願いします」

「承知しました」


 自分も不安なのだ。千年続いた儀式に現れた異状。前例のない事態に挑むのはフランタール辺境伯領での常ではあるが、それにしても日々、ふと息を抜いた瞬間に、居ても立ってもいられないような気分に襲われることがある。


 果たしてここから儀式は、世界は、どうなってしまうのか。


 しかし、とシグリオはそのたびに思い直す。

 本当に不安なのは決して傍に立っているだけの自分ではなく、その役目を双肩に担わされた聖女だろうと。


 だから、彼は。


「報告は以上です。ご多用のところお時間を割いていただき、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。……すみません。今の話とは関係のないことで、ひとつお訊ねしてもよろしいですか」

「はい?」

「かの、」


 と。

 口にしかけて、今の自分の立場を客観的に見つめ直して、


「もしこのことについてご存知だとしても、あなたが少しでも『答えるべきでない』と感じるなら、ぜひそうしていただきたいのですが」

「……? はい」

「アルセア様には、姉君がおられるのですか?」


 不安に襲われるたびに、シグリオは思い出すのだ。

 あのときのこと。北の聖堂。一の従基へ続く聖塔が崩れ落ちて、聖女が儀式を完遂して、それでも彼女が、ひどく苦しげな顔で呟いた一言。



 これじゃ、姉さんに。



 聖女アルセアに関して、シグリオはほとんどの個人的な情報を得ていない。聖騎士でありながらというより、聖騎士だからこそ、というのが近い。下手に聖女の縁者に貴族筋があれば、むしろより問題はややこしくなる――だから、〈光継式〉の規定のひとつとして、聖騎士は聖女の親類について深く立ち入らぬこととされているのだ。


 けれど。

 ああしてあの場面で呟くということはきっと……きっと、何かしら。何かしら今の彼女が抱えている感情に繋がる手がかりなのではないかと思ったから。


『答えなくとも構わない』という前置きをしてから、目の前の聖職者に問い掛けたのだけれど。


 しばらく、彼女は唇に手を当てていた。視線が逃げている、というより、考えごとに集中するあまり目が顔についていることを忘れてしまった、という仕草。暗算でもしているかのように口のあたりが音にならない言葉をいくつか洩らして、それから何かに納得したように、


 彼女は、



「強いて言うなら、私かと」



 あっけらかんとして、そんな風に答えた。


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