妖精の森ニンファーレ

 目の前は先程と打って変わって黒一色。その眩しさから思わず目を瞑ったからだ。体に力が入るようになったあの感覚。カトライヤ王国へ転移した時に感じたあのむず痒い感覚には襲われなかった。


 やはり、あれは魔法をかけられた感覚なのだろうか。


 空を見上げると一面灰色の羽毛に覆われた空が青く澄み渡った空に変貌していた。申し訳ないと主張を抑え気味に浮いている雲は純白だ。見渡す周りは広大な自然に囲まれていた。それは遠く離れた地に来たことを示唆していた。


 木々の隙間から見える天まで聳え立つ山々、それに負けまいと揺るぎなく構えた背の高い木々、魅惑で対抗する千差万別の花々、真っ向から対立する純真無垢な小川。そのどれか1つでも欠けることは許されないと目の前の光景が物語っている。


 その絶大な権力を前に立ち竦んでいる僕は、なんとも子供っぽい言葉を口から零してしまっていた。


「すごい……」


「でしょ、ありがとう」


 そんなことを言わせてしまう僕の目はどんな色をしていたのだろう? きっと今にも色を失いそうな色合いをしていたことだと思う。自然の圧倒的な、どう足掻いても勝てっこない力に圧倒されていた。


 森の奥へと進むルナの後ろを数歩遅れて歩いていた。


 少しひんやりとした空気に、木漏れ日の少し暖かな空気がバランスの取れた心地良さを提供していた。


 道中は初めてお目にかかる動植物で溢れかえっていた。全てが初めての光景で、好奇心が踊っていた。

 渦を巻いた緑の植物。目が回りそう。

 大きな葉っぱに包まれるように真っ赤に染まった花。恥ずかしがり屋さん。

 大きなふわふわ尻尾を持った愛らしい小動物。かわいい。


 そんな中を暫く歩いていると、小川を挟んだ先の大きな切株に、ちょこんと腰掛けている小人が目に映った。若草色の髪は肩にかかる程度。背中からは立派な半透明の羽がゆっくりと左右に動いていた。


 ルナはその姿を目にすると、ゆっくりと小川に近寄り、足を踏み入れようとしていた。濡れてしまう前にと、腕を掴み踏み留まらせた。

 すると、ルナは潤んだ瞳を向けていた。この判断が間違っていたと思わざるを得ないほどに……。


「シルフ…………」


 切株の上の小人は体を一瞬震わせると、そのまま振り向いた。


「…………ルミナティア」


 二人の掛け合いは、長い間離れていた親友と運命の再開を果たしたそれだった。あの時言っていた親友とは彼女のことだろうか?


 ルナは僕の手を振り解くと、軽快なステップを決め、小川の上を走った。

 小人は全身に光を纏ったかと思うと、忽ち大きく膨れ上がり、中から一人の女性が姿を現した。彼女もまた小川の上を走った。

 飛び散る水飛沫が陽光に照らされて、ダイヤモンドのように輝いていた。抱きしめ合う二人を祝福するダイヤモンドは宙を舞い、足元に降り注がれた。二人は強く、強く、そこにいることを確かめ合うように抱き合っていた。


 数十秒ほどか、二人はそうしていた。そして背中に回した腕を緩めた二人は見つめ合い、優しく額通しを当て微笑み合っていた。


 そこだけ別次元のように、時の流れが止まっているようだった。蟻でさえも介入することは許さない。その隙間すらない。

 そういう空間を目の当たりにした僕は、時の流れの違いを感じた。僕とルナ、彼女とルナの交わった時間軸は天秤にかけるまでもなく明白だった。そんなことは重々承知の上だった。それでも、僕は負けたくないと、心の奥底ではもやっとした何かが蠢いていた。


「おかえり」


「ただいま」


「本当に久しぶりだね!」


「うん、久しぶり!」


「人間に変なことされなかった?」


「う、うん……今は大丈夫だよ」


「……今は?」


「色々あったからね……」


「んっ? なんか人間の野蛮な臭いがする……」


「えっ、そ、それは――」


 ルナは僕の前に重なるように自然と立ち位置を変えていた。彼女からは見えないように。


 彼女の言い草からすると、人間を毛嫌いしているよう。ただ、そんな時に限ってその動きは不審に思われてしまうものだ。


「どうしたの?」


 ルナの後方を確認するように彼女は顔を傾けると、隠されていた僕と目が合ってしまった……。


「はじめまして、真白はる人です」


 と、僕は軽く会釈した。


 彼女もまた訝しそうにゆっくりと会釈した。


 それから時間が凍てついてしまったかのように、沈黙の時が流れた。その中、最初に口を開いたのはルナだった。


「良い人だよ」


「い、いやぁ――――――――――――ぁあ!!」


 彼女はルナを睨み、立て続けに僕も睨み叫び、すかさず僕たちと距離を取った。


「な、なんで、ここに人間がいるの!」


「それは――」


 ルナが懇切丁寧に説明をしていた。


 それに関してルナから事前に説明を受けていた。フィオナさんに聞いた話、普通は妖精の森に人間は足を踏み入れられない。妖精の森中に広がる膨大な魔力が体を蝕み為す術なく死に至る。

 それにも関わらず僕が今この場に立てているのは、ルナが一定の魔力を僕に纏わせてくれているおかげだ。詰まるところ、魔力に魔力を干渉させているとのこと。魔力を纏ったことで何か枷が生じることはなかった。違和感があるとすれば、行動に支障がない程度で体が少し重くなったことくらいだ。


「ありえない、ありえないよ!」


 そう吐き捨てて彼女は森の奥深くへ走り去った。その後をすかさず追いかけるルナ。状況の理解が追い付かぬまま、数秒遅れて僕も後に続く。


「待って、待ってよシルフ!」


「お願いだからこれ以上近づかないでっ!」


「……お願い、話を聞いて!」


「どんな話をするのよ! 来ないでっ!」


「大丈夫だから、ちゃんと話すから!」


「ルミナティアは人間に夢を見過ぎなのよ!」


 そこでピタリと足が止まった彼女。拳を強く握り、時折体を震わせていた。

 彼女と僕たちの間には苔むした倒木。それは世界を2つに切り離したかように、全く別の時間軸を辿って来ていたかのように、二人を分け隔てた障害として体現していた。


「シルフ……」


「どうして、どうして人間が怖くないの? 憎くないの? 私は英雄と呼ばれてるそこの人間でさえ、目を合わせると寒気がするのに……」


 その言葉は、人間への恐怖と憎悪に染まっていた。


「私だって、人間に対してそう思っていた時期もあった。でもハルは違う。私の希望なの! それに、私の特別だから」


 彼女も、僕もルナを見つめていた。


「そうだよね。ルミナティアはずっと――」


「シルフ、私の口から言わせて」


「ハル……」


 落ち着いたルナは僕の方に向き直り、名前を呼んだ。少し気恥ずかしそうに俯きながら……頬に重なるゴールデンブロンドの髪の隙間からは、紅潮した頬が顔を覗かせていた。


 そして、ルナはその紅潮した顔を上げ、僕を見つめて来た。強い意志を持った一人の少女の顔をしていた。


「ハルのことが好き! 大好き! これは恋としてだよ!」


 その言の葉は真っ直ぐ道を逸れることなく、僕の元へ届いた。

 それは僕とって人生初の経験であった。けれど、それは薄々感じていたことでもあった。最初は、妖精として感謝の気持ちで僕に接してくれているものだと思っていた。それでも、共有する時間が長くなるにつれて、それが妖精としての気持ちからルナ個人としての気持ちだと、自分でも不思議なくらいに感じ始めたのだ。


 恋の1つや2つすることもなければ叶えてくれることもないと思っていた。そんな僕に愛を向けてくれている。本当に嬉しかった。

 世界が違うからこそ、この嬉々たる感情はより一層大きなものになっているのかもしれない。


 今までの生きた時の中、最高に幸せな時間だ。


「ありがとう」


 言葉を模索する必要もなく、自然と心の底から溢れた感情だった。

 僕は気付けば泣いていた。目に潤いが宿り、頬を伝うのは一筋の流れ星、流れては消え、流れては消える。だけどそこを通ったことを見る者は忘れない。流れなかったことにはできないものだから。


「そ、それで……どうかな? 私たちそういう関係になれるかな?」


 その問いを真っ先に答えたのは僕ではなく彼女だった。


「ねぇ、もう目を覚ましてよ……ずっと、ずっと、ルミナティアがいなくなってから考えていた。あの時の私の判断は間違っていたって……」


「それって……どういうこと?」


 森の木々が風でざわつき始めた。まるで彼女の叫びを代弁しているかのように、ルナの疑問を体現しているかのように。


「ルミナティアの旅の許可、私がお願いしたの……」


「……えっ、どうして?」


 旅の許可をお願いした? 何の意味があって? わざわざお願いしたというの? そんな疑問がルナの頭上を徘徊しているように思えた。


「毎日努力する姿に私が一番心動かされたから……旅をしたいっていう目を見たら、それを叶えてあげたくなったから……」


「ありがとう。お天道様はやっぱり優しいね」


 一瞬彼女は目を見開いたかと思うと、また俯き視線を逸らした。


「ううん、あの時の私は優しすぎた。今のルミナティアのためにって後先考えずに動いていた。向こうの世界に行って、お礼を言って帰って来る。それだけだからって、そう勝手に思っていた。いや、それ以上考えたくなかったんだと思う」


 顔を上げた彼女は酷く悲しげだった。


「私はルミナティアが不幸になるのだけは嫌なの。ずっと頑張っていた姿を見ていたから……だから人間との恋なんてもうなかったことに……」


 彼女の瞳は揺れていた。今にも大粒の涙が溢れてきそうなほどに。その涙は恐怖や憎悪ではなく、哀情に感じられた。


 倒木に隔てられた二人を風が撫でて行く。揺れる髪の毛が互いの表情を朧げにした。それでも、薄らと見て取れる彼女の表情は、人間を毛嫌いしていると言わんばかりだった。


「シルフ、どうしてそこまで……何があったの?」


「ごめんね……私、人間のことをちゃんと教えられていなかったよ。ちゃんと話すべきだった。人間はね……」


「裏切るのが好きだよ」


 そう吐き捨てられた言葉は、誰にも吸収されなかった。行き場を失った言葉は空気に吸収されようと徘徊する。頭上を右往左往するその言葉に呆然とした。


「黙り込むってことは肯定と捉えていいの?」


「そ、そんなことはない……」


 ルナは俯いた。過去が思い起こされたのかもしれない。


「そこの人間に誑かされているだけなんでしょ?」


「それは違う!」


「本当にそう言い切れるの?」


「言い切れる! この命に変えても!」


 ルナは前を向いていた。絶対的な意思を持ち合わせて。


「ハルはシルフの思っているような人じゃないの!」


 彼女は僕を睨みつけた。憎悪の瞳だった。人間嫌いは思った以上だ。なら僕からでも信頼してもらえるように、嘘偽りない本当の気持ちを伝えるべきだと思った。例え彼女に与える影響が微塵もなくても、僕の気持ちは知っていて欲しかった。


「ルナのことはすごく大切に想っている。ずっと暗闇の中で蹲って、時の流れに身を任せるだけの傀儡になっていた僕に、希望の光を見せてくれた。空虚な心を満たしてくれた。だからルナを裏切らないっていうよりは、裏切ること自体が僕には絶対にできないです」


「私はルミナティアと幼い頃からずっと一緒なの。大切に想っているのは私の方がずっと上、少し交わっただけのあなたなんか信用に値しないの」


 僕の言葉を上書きするように、一呼吸つく暇もなく彼女は言い放った。当然の事を言われた。お互いに歩んだ期間を天秤にかければ明白だ。


 でも、それは違うはずだ。


「大切に想うに上とか下とかないと思います」


「そ、そんなこと、人間になんか言われたくない!」


 彼女は強く吐き捨て立ち去った。遠く離れる背中は酷く寂しげだった。


 ルナは振り返ると僕の腕を取り、駆け足で来た道を戻った。引っ張られるがままに僕は足を交互に動かす。


 ピチャ。一粒の水滴が頬を叩いた。瞬く間に風が攫って流れ落ちる。その頬を叩く水滴を攫う風が幾度か繰り返した。


 走るルナの呼吸は荒れていた。


「ルナ……」


 無言で真っ直ぐ何処に向かうこともなく、走り続けている。


「どこまで……」


「そんなの私が知りたい! どこまで、どこまで行けば良いの? どこなら……」


 徐々に弱くなる言葉。ルナはその場で足を止めた。


「私はどうすれば良いの?」


 そして、僕の服にしがみつき大粒の涙を流すルナ。悔しさ、寂しさ、悲しさ、どうしたら良いか自問自答を繰り返す不明瞭な気持ち。複雑な感情が今のルナを押し潰しているのだと思う。その重さが僕の服を握る強さとなって表れていた。


「どこで道を間違えたの?」


 俯き小さく呟いたそのわだかまりは解けずにいた……。もやもやが体の中で大きく膨れ上がる。答えという名の炎が燻っている。

 それは正しく入道雲のように。青い大空に浮かぶ雄大な白銀は遠くから見るにはとても美しい。しかし、近寄るにつれて本性を表す。激しく荒れ狂う空間の中では抵抗することなど許されない。混濁する頭に浮かぶ答えはただ一つ。


「分からない」


「私も分からない、どうしたら、これからなにをしたら正解なのか」


「今はこのままでもいいと思うよ」


 僕の絞り出した答えは無関心だろうか。座ろうとルナを手招きし、三人は座れる切株に二人腰を下ろした。袖で涙を拭うルナにこれ以上かける言葉が見つからず、僕は黙り込んでしまっていた。


 沈黙の時間が続く中、最初に口を開いたのはルナだった。


「……シルフはね、悪い妖精じゃないんだよ」


「うん」


「ずっと昔から私のお姉ちゃん代わりでいて親友、いつも私を応援してくれた」


「うん」


「大好きだった。ううん、今も大好き」


「うん」


「でもね、シルフのことはあんまり知らない……いつも明るくて、頼りになるリーダー的存在ってことくらい」


「初めて人間が嫌いって聞いた時は驚いた。その理由を訊いても教えてくれなかった……人間に対してあんな顔をするなんて誰も知らないと思う……」


 少しの沈黙を置いてルナは我に返ったように目を見開いた。


「ごめんね、暗い話ばっかりで」


 無理して微笑む表情は見るに堪えないくらい苦しそうだった。


「どうしたらいいのかな、わたし……」


「本人に聞いてみるしかないと思う」


「自分のことなのに……?」


「逆だよ。ルナを一番近くで見守って来た彼女の話を聞いてみたらどうかなって、ダメかな?」


 俯いた顔を上げたルナは、僕をキョトンと見つめた。僕はアイコンタクトで前を見るように合図をした。


 肩にかかるくらいの若草色の髪、ベージュのワンピースがそよ風と対話するように裾を上下させている。ばつの悪そうな顔で小川を挟んだ先に彼女は立っていた。

 人間と一緒にいるルナが心配で後をついて来たのかもしれない。ルナを見つめる目には愛があり、僕を見る目には憎しかない。


「ごめんね、席を外してくれる?」


 ルナの言葉に拒まず、僕は席を外した。これからはルナと彼女だけの時間だ。

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