思い思われる

 森の中、行くあてもなく道なき道を彷徨う。歩いても、歩いても目に映るは似たような光景の連鎖。聞き耳を立てると小鳥のさえずりが、水のせせらぎが、木々のざわめきが、音楽を奏でている。


「珍しいお客さんね」


 突如、包容力のある声が後ろから聞こえた。


 声のする方を振り向くと、そこには長く伸びた艶やかな金髪に、白銀を基調としたドレスに身を包んだ女性が一人立っていた。誰かが近くにいることを感じなかった。否、感じさせなかったという方が適切かもしれない。異様な雰囲気に飲まれ、開いた口からは言葉が出てこない。


「あら、緊張しているの?」


 母性に似た包み込む声色が緊張を解きかけた時、口から出た音は強く吐き出した息音だけだった。あれだけ口を開閉させてた後の言葉としては取るに足らなかった。


「初めまして、ハルくん」


 驚いた。それは僕の名前からルナが取って名付けたあだ名だ。知っているのはカルムさんとフィオナさん、マリアさん、そして名付け親のルナ。もしかしてルナなの……? そんなことはないか……。


 恐怖と混乱でおどおどする僕に、その女性は申し訳なさそうな顔で言った。


「ごめんね、驚かせるつもりはなかったの」


 軽く謝罪する女性の声はやはり母性に満ち溢れており、なぜか親近感が湧いた。だからか、名前を呼ばれた時も驚いただけで違和感を感じなかったのだ。


「私はティルタニアよ」


「はじめまして……」


「そんな怪訝そうな顔しなくてもあなたに危害を加えるつもりは毛頭ないわ」


「あっいえ、そんなことは思っていないです。ただ、僕のあだ名を知っていることが気になりまして……」


「あら、あの子ったら教えていないのね……まったく」


 あの子? 教えていない? 何を仰っているのだろう? 察するにティルタニアさんはルナの知り合いで、僕のことは話したけど、僕にそのことを話していない状況なのか?


 突如、ティルタニアさんは思い出したように手を叩いた。


「喉乾いてない? 最近、良い紅茶を人間界から仕入れたのよ! それなのに誰も私とティータイムを楽しもうとしないのよ……あなたは紅茶好き?」


「はい……」


「よかったわ! それじゃあ私とティータイムをしましょう! じゃあ、そこに座ってちょうだいね」


 展開の進みが激しく、出会って数分でティータイムが始まった。


「ちょっと良い感じの切株を見つけておいてね。できれば椅子になるような」


「お茶菓子の好みとか……あ、今はお饅頭しかなかったけど大丈夫?」


「今まで何人に告白された? そんなこと忘れちゃったかな?」


 川のように滔々と質問が流れて来る。僕は「はい」と何も考えずに取り敢えずの返事をした。


 話しながらでも僕の見つけた切株を魔法で動かし、椅子に作り変えるティルタニアさん。近くにあった岩は、鏡のような天板を持ったテーブルと化し、その上に何処から出現させたのか分からない白いティーカップとソーサー、ティーポットを置いた。


 ティルタニアさんはティーカップ八分目まで紅茶を注いだ。白に赤橙の色合いが美しい。


「どうぞ」


 ティルタニアさんの合図で僕はティーカップを持ち上げ口に運んだ。やさしい花の香りが鼻腔をくすぐった。体の力が抜け、リラックスという言葉が正に相応しかった。

 口の中に吸い込まれていく紅茶は、その香ばしさを体全体で感じられた。花が咲いた。この表現は間違っていないと思う。気付けば八分目まであった紅茶は、既に残り一口分となっていた。

 その様子を微笑みながら見つめていたティルタニアさんは何かを待っているようだった。


「……おいしいです」


 その言葉を聞いてから口を開くまで終始微笑みを崩していなかった。


「ところで、ハルくんって好きな人とかいるの?」


 突然真剣な眼差しでの問い掛けに、僕は口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。


「もしかしているんだね? 誰なんだい?」


 ティルタニアさんの舞い上がったテンションに僕のテンションが追いつかなかった。初めましてからの印象の高低差が大きすぎて返答に困っているが現状だ。


 ただ、恋話が好きということだけは唯一理解した。


「別にそういうことではないです。突然で戸惑っただけです」


「私は知ってるよ」


 ふふふっと不敵な笑みを浮かべるティルタニアさん。


「何をご存知なのですか?」


 ふふふっと再び不敵な笑みを浮かべるティルタニアさん。



 いや、初めましての人が知っている訳がない。これは図星かどうかを判断する一種のトラップに過ぎないはずだ。それにいたとしても、僕の気持ちは本人に、ちゃんと一番に伝えたい。


「ハズレです。僕にはいませんから」


「あら、私は恋してる子を知っていると言ったつもりなの」


「……そうだったんですね」


「そう」


「…………」


「聞きたい?」


「まあ一応……」


「ルミナティアだよ」


 うん。僕は頷いた。ティルタニアさんも頷いた。


 それから少しの沈黙が続いた――



 はたと気付いた時には既に遅かった。ティルタニアさんを欺くことはできなさそうだ……。


 普段から常に思考は動かしているつもりだ。ただ会話という機会が圧倒的に少なく、その考えを外に晒す経験値も圧倒的に足りていないのだ。


 自然と行き止まりに辿り着いてしまったと思わせるそれはなかなか策士だった。敵ながら褒めてつかわしたい。そう思ってしまうのもその経験値不足が枷となっているからだと思う。


「知っているのね」


「あ、いや、まあ……」


「告白されたのね?」


「えっと……まあ」


「なんて言われたの? 返事はどうしたの? もう付き合っているのかな?」


 絶え間ない質問はどうやらテンションが高まると発揮されるよう。それにこれ以上は面映ゆい。


「……勘弁してください」


「ふふふっごめんなさいね。つい気になってしまって」


「それにしても久しぶりにたっぷりと話したわ」


 もうお腹いっぱいと満足気な笑みを浮かべていた。ティルタニアさんが席を立ったところで聞き慣れた声が飛んで来た。


「妖精神様?」


 そして聞き覚えのある声もした。


「ティルタニア様?」


 妖精神様? ティルタニア様? 妖精神様とティルタニア様は同一人物? つまり妖精神……。


「えぇぇぇ!」


 ティルタニアさんって普通に呼んでいた僕。普通に会話をしていた僕。神様に対して無礼極まりなかったのではないかと、不安がどっと押し寄せて来た。あわあわと挙動不審に目を泳がせる僕に妖精神様は頷いた。


「なにをしておられるのですか!?」


「なんでハルと一緒に……」


「ティルタニア様、このような場所で、ましてやルミナティアを誑かした人間と居るなどどうなされたのですか!?」


「シルフ、ハルのことはちゃんと話したよね。誑かされてないよ」


「はっ! まさかティルタニア様まで……」


「ハルはそんなことする人じゃないよ!」


「いや、取り調べ中でしたか!」


「はぁ、楽しいお茶会のように見えるけど……」


 彼女とルナは仲直りしたのか、物理的距離が近くなっていた。その二人の掛け合いは、一定のテンポで流れるボケとツッコミのようだった。


「ルミナティア、久しぶりね」


「はい! お久しぶりです!」


「今、ハルくんと三世紀ぶりのお茶会していたの。楽しかったわ」


 僕に微笑みかける妖精神様。これ以上話せずに呆然としていると、妖精神様に尋ねられた。


「私の正体知りたかった?」


 僕は頷いた。


「教えてたらお茶会も、会話もままならないよね?」


 やはり僕は頷くことしかできなかった。全くその通りだ。そもそも神様と会話するなど到底考えられることではないのだから。


「しかしながら、妖精の神であらせられますティルタニア様がそこら中に蔓延っていそうな人間と同じ目線で会話に興じるなど、五大上位妖精様たちのお耳に入られましたら、さぞお怒りになられることだと思いますよ……」


「シルフ、私の立場を考えての発言は有難いけど彼に失礼ではありませんか?」


「…………はい」


「ルミナティアのボーイフレンドですよ。彼が挨拶に来てくれたのですから、お相手するのが道理ってものではありませんか?」


 三人揃ってそこで疑問符を浮かべた。


「えっ!?」


 と、驚くルナたち。

 仰っている意味が違くないかと首を傾げた僕。


「妖精神様、お言葉を返すようで申し訳ございませんが、最初にお声掛けくださったのは妖精神様かと記憶が物語っております……」


「そうだったかしら? てっきり挨拶をしに神殿の方に足を運んでくださったのかと思いましたわ」


 妖精神様が指差す方には雲を突き破るほどの大樹が揺るぎなく構えていた。その木の幹に傅くように螺旋階段が天へと続いている。


「妖精神様、ハルには神殿のことは話していないので偶然だと思います」


「それよりもハルに聞きたい……ボーイフレンドってことはその、あれだよね? まだ返事もらってないけど……」


「まだ返事していなかったのね! 私の質問に渋っていたのはそういうことだったのね!」


「ティルタニア様に対して無礼であるぞ人間!」


「シルフ、急にどうしたの? 変わったね……」


「イメージチェンジを。その、ハルさんに失態を見られてしまったので……」


「あはははっ、シルフってばかわいいっ」


 先程まで人間嫌いだった彼女が嘘みたいに僕に接してくれていた。人間に対しての印象が変わったかのように、判然としていた隔たりが感じられないに等しくなっていた。


「そ、そんな事よりもです」


 そして、かわいいと言われた事が余程嬉しかったのか、恥ずかしかったのか、頬が赤く染まっていた。失態はこれ以上晒せないと話題を強引に逸らして来た。


「ハルさん、ご挨拶が遅くなりました。はじめまして、風の妖精シルフです。先ほどは取り乱してしまい申し訳ありませんでした」


「いえ、お気になさらないでください」


「ありがとうございます」


 その言葉と共に穏やかな表情でいるシルフさん。


「ルミナティアから聞きました。あの三人組の冒険者パーティーを一緒に懲らしめてくれたこと。あの三人が私の人間嫌いの原因でしたので……それに、ルミナティアを守ってくれたこと、感謝しています。本当にありがとうございます」


 シルフさんは満面の笑みでいた。


 大したことはしていない。それがルナへの正直な気持ちの体現だったから。それにしても、面と向かって言われるのが面映ゆくてしょうがない。慣れていないからだろうけれど。


 シルフさんが僕に向けてくれた満面の笑顔は、枷が外れた証明だ。嫌いな人間にこんな笑顔は向けてはくれないだろうから。


「そんなハルさんにお訊きしたいのですがー、ルミナティアへの返事はどうなのですか?」


 急に興味津々な態度で詰め寄って来るシルフさん……ちょっとだけ怖いです。


「あっ、ここで言われるより……私だけに言ってほしい……かな」


 それに回答したのは僕ではなくルナだった。


「もどかしさを私たちに味わわせようとしているのね」


 今度はルナに詰め寄るシルフさん……。


「ち、ちがうよー。単純に恥ずかしいからだよ……」


「きゃぁぁぁぁぁぁぁ! ルミナティアったらかわいいんだからぁ!」


「さすが私の娘ね。もうみんなかわいいっ!」


「もうっ!」


 ルナが頬を膨らませる。それを皮切りに、シルフさんと妖精神様は微笑みながら森の奥へと足早に立ち去った。


 二人きりになったところで面映ゆさが一気に押し寄せて来た。この波はなかなか引かなさそうだ。

 向き合う二人。目と目が合うと反射的に逸らしてしまう。最初の一声が出ない。声を出す勇気と言葉が緊張に剥奪されていた。


 僕は深呼吸で気持ちを落ち着かせる。

 分かってはいた。恩返しの域を超えていると、自分自身も踏み込み過ぎていると、ただそれが成り行き任せだとは言えない。


 念頭にはいつもルナの姿があった。にこやかに笑う姿、不機嫌な姿、懸命な姿、悲しみに暮れた姿、弱みを晒した姿。どれもが記憶に深く刻み込まれている。その記憶がパラパラ漫画のように1コマ1コマ繋がっては流れた。


 心の奥底にしとしとと降り積もっていた淡い想いは密かに成長していたのだ。隠しきれず、氷山の一角のように突き出た頭はその想いの大きさを物語っていた。

 こんな気持ちは抱いてはいけないと何度も、何度も言い聞かせていた。生きる世界が違う上に、恩返しという好意で、僕と同じ時を過ごしてるだけで……少なくともルナはそういう気持ちを抱いていないと、勝手にそう思い込んでいた。


 でも、実際は僕と何ら変わりなかった。そっと安堵が体の力を抜いた。


 恥ずかしそうにもじもじするルナに、僕は最初の一声を置きにいった。


「ありがとう」


 柔らかい言葉。込める想いによって、受け取り方によって、真価を発揮する無敵の言葉。


「僕も大好きだよ!」


「ほ、ほんとにっ! うれしいっ!」


 両腕を広げて全身で喜びを表現したルナは僕にそのまま抱きついた。離さない、逃がさないとぎゅっと強く抱きついていた。


 誰かの体温を感じるってこんなにも安心感があることで、暖かい気持ちになれて、もう少しだけこうしていたいって我儘な気持ちになる。だけど、これは誰でも良いわけではない。好きな人だからそう感じるのだ。


 幸せって、柔らかくて、暖かくて、甘い気持ちのことなんだ。丸くてふわふわな柔らかさで、木漏れ日ように心地よくて、まるで綿あめみたいに甘くて溶けては吸収される。

 だから、明確な形が存在しない。一言で表せても具体的には表せない十人十色の感情、それが幸せなんだと僕は思う。


 その形を知れた。見た。感じた。僕の幸せって誰かに愛されることにあるんだって、だから本当に嬉しかった。

 でも、最初はこんな気持ちの芽を摘むべきだとも思っていた。僕とは生きる世界が違う上に、ルナにはきっともっと相応しい相手がいるはずだって、そう思っていた。


 だけど、それは違った。自らを正当化しようと目を背けていただけに過ぎなかったのだ。相応しい人なんて初めっから存在しないのだから。

 誰と誰の相性が良いかなんて都合良く決まっていない。そうなるために努力するし、偶然そうなることだってある。


 なら僕はそうなるために努力をしたい!


 ルナと肩を並べて歩けるように!


 守れるように!


 支えられるように!


 ルナの唯一無二になれるように!


 両腕を広げてルナの背中に優しく手を回した。数センチの身長差が意外と大きく感じた。


「ありがと。私ね、ハルにとっての唯一無二になりたい」


「大丈夫。僕にとっては今もこれからもずっと唯一無二だから」


「優しいね」


「ルナの方がずっと優しいよ」


「……何も出ないよ? 抱きついてはあげるけど」


 それだけで十分だ。


 どこからか何か言いたげな視線を感じるが、今はこのままこの温もりを感じていたい。


 ルナの方がずっと優しい。ずっと甘えていたい優しさだ。


 いじめから逃げたくて、一人を大切にしていた。唯一の逃げ場は現実逃避。

 そんな中で異世界の住人と出会った。彼女は自らを妖精と名乗った。それが信じられなかった。これもいじめの一種で夢を見ているのだと、もしそうならいじめも夢であって欲しいとさえ願っていた。

 それでも、質問にちゃんとした返答があった。会話をしていた。夢にしてはリアルだった。



 そして――


 今がある。


「ねぇ見て……」


 囁いたルナの指差す先には、一輪の白銀の花が咲き誇っていた。たった今咲き始めたかのように、徐々に花びらが陽光を浴びんと開いている。


「見てみたいって言ってたよね、十年花」


「うん」


 あの時のフィオナさんとマリアさんを幸せにした十年花だ。想像でしか分からなかったその花は、目の前で咲き誇っていた。たった一輪でありながらも圧倒的な存在感で。


「私、幸せだよ」


「僕もだよ」


 見た者を幸せにする魔法の花の前で、僕たちは紛うことなき幸せを誓い、愛を確かめあった。


「おめでとうハルくん」


「ルミナティアァァ! 人間のところに行くの? 行くのよね?」


「まだだよ。まだ私の旅は終わってないから、ハルと隣を歩いても不自然じゃないくらい相応しくなるから」


「という事です。ハルさん残念でしたね。まだまだルミナティアとは付き合えないですよ」


「大丈夫、待ってるから。それに、相応しくなるのは僕の方だよ」


「素敵」


 目を輝かせている妖精神様。


「言葉だけはかっこいいのね」


 柔らかな口調のシルフさん。


「言葉だけじゃないよ、全部かっこいいんだからっ!」


 反論するルナ。



 穏やかにゆったりとした時間が流れていた。


「ルミナティア、願いが叶いましたね」


「はい!」


「次の願いはもう決めているのですか?」


「それを叶えたらきっともうこの世界ともお別れのような気がします……」


 妖精神様とシルフさんは驚きで言葉になっていなかった。


「本当に……そうなの?」


「その選択に後悔はないですか?」


 そして、ルナを心配する声色で訊いた。


「はい、まだ先の未来かもしれないけど、私である一生は一度切り、後悔のない一生にしたいんです。後悔のないなんて不可能な話かもしれないですけど……それでも、最大限の幸せをこの手で握っていたいんです!」


 ルナの決意に揺るぎはなかった。この世界を離れてでも掴み取りたいのはどんな幸せか、今の僕には分かる。


 だって、僕もそれを望んでしまっているから。


 誰かの幸せなんて考えても、僕が交わる限り不幸に塗り変わると考えて止まなかった――

 そんな僕が幸せを感じて、恋をして、その先の願いを知った。それだけでも成長したと思える。だけど、もっと頑張って、考え抜いて、守れるだけの力をこの身に宿して、それでやっと幸せにしたい人の願いを叶えられるのだ。


「願いの妖精として相応しいように、常に願いを持っていたい。それが叶うかどうかなんて重要じゃなくて、持つことに意味があって、それに向かって努力できる。そんな願いを必ず1つは持っておきたいから」


 ルナの言葉に妖精神様とシルフさんは頷きながら聞いていた。妖精神様は成長した我が子に感動し涙も流していた。シルフさんは声を押し殺せずに泣いていた。


「その幸せを掴めるよう母は応援していますよ」


「ありがとうございます」


「ルミナティア……私も、応援してる。けど、この世界を離れるまでは、いっぱい遊ぼう」


 途切れ途切れの言葉でも、シルフさんの想いはちゃんと伝わって来た。


「うん、いっぱい遊ぼう!」


「ハル!」


 そして、そのにこやかな瞳で僕を呼んだ。


「私たちもいっぱい遊ぼうね!」


「そうだね、遊ぼう」


 そんなこと言われたら、帰りたくなくなるよ……。

 お別れ……その言葉が胸の奥深くから込み上がって来た。胸を締め付けるような想いの強さを持っていた。


『妖精神様に会うまではこの世界で過ごそうと思うよ。ルナの願いを叶えて、何事もなく立ち去るサンタクロースみたいにさ』


 ずっとここに居ても何も問題ない。元の世界が変わっている訳じゃないから、居てもいいはずだった…………だけど、このまま羽を伸ばし続ければ現実から目を背け続けることになる。甘え続けたら取り返しのつかないことになる。だから自分でここまでと線引きをした。それを理解しているつもりだったけど、それ以上に別れが辛い……。


 いつかは訪れるって知っている。妖精の森に行くと決まった時のあの驚きは、もうお別れなんだって寂しさも含まれていて、それが一気に膨れ上がったものだった。


 嬉しい気持ちが心を支配していたのに、今はすごく辛い。待ってるって自分で言っておきながらすごく辛いのだ。


 出会いがあるから別れがある。それは自然の摂理であり、それを覆せるのは思い出だけ。


 分かっている。それなのに、それなのに離れたくないと我儘な心が暴れる。込み上げて来る想いに蓋ができない。抑えてもその倍以上の力で蓋を押し上げて来るから……。

 溢れた想いが視界を潤し、想いが涙となって頬を伝った。それの繰り返し――もう僕の視界は滲みすぎてルナの顔さえ真面に見られなかった……。


 そんな時、ルナの優しい声が耳に響いた。


「私もだよ」


 微かに見えたルナの顔は同じように涙が流れていた。


「私も同じ気持ちだよ。私だって離れるのは辛いよ……でも、また会えるから。その時のために涙は取っておきたいじゃん」


 僕はくしゃくしゃになった顔を上げた。


「だって、流すなら嬉し涙にしたいから」


 涙を流しながらも微笑んだルナは、これからの期待に胸を躍らせた嬉し涙なんだろう。


「ごめんっ……」


 僕の涙は一体どっちなんだ……。


「そこは『はい』でしょ」


「……はい」


「よろしい。今度はハルの番だね。前に進むドライブの方がかっこいいよ」


 僕の言葉を、たった1回だけ言ったその言葉を覚えてくれていた。嬉しいことこの上なかった。

 次は僕の番、確かにそうだ。次会う時にはお互い笑って、幸せって堂々と言えるそんな関係になっていたい。


「そうだね、僕も前に進むよ。だから、次会う時には笑って会おう」


「約束」


「約束」


 互いに約束を交わしあったことを確かめ、僕は頷いた。それに応えるように、ルナはさよならの言葉を切り出した。


「またね」


 ルナは淡い光の纏った掌を僕へ向けると、足元に浮かび上がった光の輪は煌々と輝きを増す。それに伴い体はふわふわと宙に浮いた。


 僕はこの数日、この世界で大きな収穫をした。今まで生きた数十年の年月を遥かに凌駕するほど、それは大きい。


 手を振るルナに振り返す僕。



 時が来た。


 目の前の景色が白一色に塗り替えられ、脱力する不思議な感覚に襲われる。


 その感覚は一瞬の出来事だった――

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