異世界の洗礼
それから、二人笑顔で森の中を進んでいる時だった。
お腹の底に響き渡るほどの重低音の鳴き声が遠くから聞こえた。森全体がその鳴き声に共鳴するかのように草木が揺れる。
不安からか心臓の激しい鼓動が体中に伝わり始めた。無意識に妖精を見ると真剣な眼差しで前方を見つめていた。
「今すぐ隠れてっ!」
突如、妖精は後方を指差し、岩の後ろに隠れるよう命じた。
状況が飲み込めないまま僕は岩の後ろに隠れようとするが、それは叶わなかった……。
獅子ほどの体躯に漆黒の毛皮を纏い、鋭い牙と角を持ち合わせた獣が突如目の前に現れたからだ。木の上に潜伏していたのか、気付かぬうちに背後を取られていた。
この世界で僕が安心するのはまだ早いかもしれない。
妖精の方へと後退ると、その場を動かないでねと忠告された。
獅子とも対峙したことないのにそれ以上に凶暴そうな獣と対峙している。今は死をも覚悟している。異世界に来て早々こんなことがあるなんて思いもしなかった。
徐々にその獣は距離を縮め始める。動かないでと言われても、体が反射的に後退りをしてしまう。
「あっ、それ以上下がっても変わらないよ」
妖精はそう僕に追い打ちをかけた。何を言っているのか、後ろを振り返ったとき、その意味を理解した。
僕の後ろ、妖精の目の前には、こちらを睨み唸っている獣が二体近づいて来ていた。
妖精は前方と後方を交互に警戒している。その間にも三体の獣は唸りながら一歩一歩間合いを詰めて来ていた。
「これが魔物……?」
「そう、この森を住処にしている魔獣ネグロ。この獣の鳴き声が聞こえたら死と思え、攻撃力は高くないけど魔獣一を誇る走力で見つけた獲物は逃さないと言われいる」
死と思え。その誰しもが恐怖を抱くであろう見た目からは死という単語を突きつけられても頷ける。
「逃げられないよね……」
もし逃げられるとしたら今すぐ逃げたい。でも、妖精なら何か回避策を持っていると予想していた。
「逃げ切るのは無理かもね……」
その予想は秒で散った。
魔獣は互いに目配せを行いコミュニケーションを取っていた。狩りの合図のように。
その直後、魔獣はこちらに向かって飛び掛かって来た。前方からも、後方からも逃げ場をなくすように、彼らにとって死角はないようだった。
僕は反射的にしゃがみ込みんだ。ここで終わりなのかと――
「《
その時、妖精の声が聞こえた。天へ向けた掌には青白い光、そこから僕たちを覆い隠すように白みがかった半透明のドームが築かれた。
「これは……バリア?」
「そう。暫くはこれで防げそう」
その言葉を聞いて安心した。妖精も安心してと言わんばかりにはにかんだ。
魔獣は一瞬戸惑った様子を見せたが、その鋭い角で体当たりを食らわして来た。《
本当に大丈夫かなと心配になる音だった。魔獣が体当たりを幾度となく繰り返す度に、衝撃で《
「本当に? みたいな顔しないでよ。そう簡単に破られたら妖精族として面目が立たないから」
余裕を感じさせるその笑顔は妖精族としての強さの証なのか、僕を元気づけるための優しさなのか。否、きっとその両方だろう。自信に満ち溢れたその表情からは、僕には到底真似できない強さを感じる。
その間にも魔獣は体当たりを繰り返していた。《
数十秒後、さしもの魔獣も諦めがついたのか、体当たりという物理攻撃を止め、魔獣は睨み唸ったまま後退りをする。
このまま帰ってくれと祈った。
しかし、そうはならないのが獲物を前にした獣というものだ。目の前に獲物がいるのに自らその機会を見逃すとは到底思えない。なんたって目の前の獣たちはお行儀悪く涎を垂らしているのだから、大層お腹を空かせていることだろう。
これで決めると言わんばかりに魔獣たちは大きく開口し、燃え滾る火球をその口から出現させた。それを続け様に放つ。
計3つの火球は数秒足らずで《
それでも、破られる気配はしない。体当たりの時と比較して痙攣を起こすこともない。ただ火球が当たって弾けた。それだけのことだった。
それでも、幾度となく火球を放ち、時に体当たりをする。体当たりの鈍い音と火球の弾けるボワッとした音で耳にたこができそうだった。
「反撃とかしないの?」
そう訊いたのは、この戦況がいつまで続くのか気になったからだ。
「そうしたいのは山々だけど、この中から外への攻撃は不可能なの。魔法を解けば良い話けど、この攻撃の嵐だと厳しいかも……」
キュゥゥゥゥゥゥゥ――――――!
その時だった。突如、甲高くも弱々しい鳴き声が背の方から響き、思わず体がびくりと震えた。
前方二体の魔獣たちはぴたりと攻撃の手を止め、後退を始める。
後方の魔獣は既に姿を消していた。その場に残るは、地面に突き刺さった数本の淡く光り輝く長剣と無機的に置かれた黒く半透明な丸石だけ。あの獅子ほどの体躯の魔獣の姿をこの目が捉えることはなかった。
暫くすると、その長剣は光の粒子となりて空気中に吸収されるかの如く消え去った。
「どういうこと?」
その不思議な現象に僕の頭の中はクエスチョンマークで満たされていた。
「何者かが討伐したみたいね」
「何者かって?」
「それは分からないけど、もしかしたら味方かも」
この状況で味方とは異世界らしい展開だ。
ガルルルッと残りの魔獣たちは辺りを警戒し唸る。当たり前だ、仲間一人いなくなったんだから。僕だって警戒している。味方かもしれないだけで僕たちも狙われる可能性だってある。
そんな時だった。一体の魔獣に光る長剣が突き刺さった。
僕から見て西方向からそれは飛んで来た。背、腹、足に突き刺さった光る長剣は計7本。獣はあの甲高くも弱々しい鳴き声を発しながら横たわった。
薄黒い光が放たれ魔獣は消え去る。
その場に残るのは、先程見た地面に突き刺さった淡く光り輝く長剣と黒く半透明な丸石のみ。同じくその長剣は光の粒子となりて空気中に吸収されるかの如く消え去った。
「もう一体もやられたね」
僕たちは、次々と倒されていく魔獣を目の前に呆然とするしかなかった。
残り一体の魔獣は光る長剣が飛んで来た方向に幾つかの火球を放っていた。草木を焼き尽くしながらその火球は森の中へと消えていく。
すると、その先からお返しとばかりに凄まじい速度で光る長剣が魔獣目掛けて飛んで来た。
キュゥゥゥゥゥゥゥ――――――!
残り一体の獣も光る長剣によって倒された。黒く半透明な丸石を残して、光の粒子が煌めき消えていく。
展開された《
「助けられたね」
安堵の溜息を吐きながら、妖精は肩の力を抜くように深呼吸した。
僕は長く息を吐いた。脱力していくのが分かる。何もしていないのに緊張と恐怖からか力んでいたのだ。
「だけど、誰が助けてくれたんだろう……」
「それはすぐ分かるよ」
「どういうこと?」
首を傾げる僕に妖精は西方向を指差す。それは光る長剣が飛んで来た方向だ。その先からは草木を踏みしめる足音が聞こえていた。
薄暗い森の中、一際目立つ白銀のマントと腰に携えられた長い鞘。白を基調とした服装、綺麗に整えられた黒髪、絵に書いたような王子様が現れた。見たところ20代そこら。
「君たちだね。魔獣に襲われていたのは」
爽やかな声だった。
「助けてくれてありがとうございます」
妖精はあたかも知っていたように深々と頭を下げる。同じように僕も頭を下げる。
「いいよお礼なんて、勇者として当たり前のことをしただけだからね。あっ、自己紹介がまだだったね」
「僕は勇者カルム・ヴェントベル。よろしくね」
差し出された右手に右手を重ね、僕たちは挨拶をする。
「よろしくお願いします。私は願いの妖精ルミナティア」
「よ、よろしくお願いします。真白はる人と申します」
初めての勇者の前で緊張していた。声が震えていた。
「丁寧にありがとう。僕のことはカルムとでも呼んでくれればいいよ。畏まったのはどうも性にあわなくてね」
「マシロハルト」
「はっい」
突然口にされた自分の名前に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「珍しい名前だね、出身は?」
その質問は想定外だった。僕はえっと、あっと、と緊張しているのか、隠し事をしているのかとしか思われないであろう言動を取っていた。
すかさず妖精に助け舟を依頼する。高校生にもなってこんな子供じみた言動をするとは……子供の方が大人してるかも。いや、大人してるとは……?
「妖精の森近くの出身よ」
僕の出身地を訊かれたのに、結局妖精が答えてくれる始末。
「そうなんだ。でも、あの辺って人は住んでいなかったと思うけど……」
訝しむカルムさんに妖精はすかさず答える。
「あっ、それは偶々見つけられなかっただけですよ。ちょっとした村があるのです」
声音がワンオクターブ上がっていた。どうやら妖精の森の近くには人が住んでいないらしい。さしもの妖精でも咄嗟の偽りには無理があるようだった。
「そうなんだね、深掘りはしないよ。詮索するのも、されるのも好きじゃないからね」
ギクッと身が震えた。どうやらカルムさんには偽りだとバレている可能性があった。でも、この場にいるのがカルムさんで良かったとも思った。
一旦安堵でき自然と入った肩の力が抜けていった。ふぅーと短く息を吐き肩の力を抜いた。それは妖精も同じだった。
「ところで君たちはどうしてこんな森に?」
それは、まるでこんな危ない所で何してるの? と訊かれているようだった。
「オリーヴァ王国に向かう途中です」
妖精は先程までとは打って変わって毅然とした態度だった。
「そっか。確かにこの森を抜けるのが一番早いけど、そんな軽装な彼を連れて行くのは、いくら君がいたとしても危険だと思うよ。この先には魔獣ネグロ以上に手強い魔獣もいることだしね」
確かにそうだ……手強い魔獣と遭遇した時、僕は真っ先に足手まとい。今でも妖精は僕を守ることで反撃に転じられていなかった。
「そうですね、こんな散歩に出かけるような格好だとこれから先危ないですよね」
僕が頷くとカルムさんは別の経路をアドバイスをしてくれた。
王国へ行きたいのなら明日の朝早くに出立し、この森を通らずに迂回した方が安全。朝早くに出立してもオリーヴァ王国到着は夕方頃になるという。そこで、本日一夜を過ごせる宿泊場所として、南の方向に真っすぐ進んだ小さな村を教えてくれた。
そのお話を聞いた僕は、そうしようかと妖精の方を向くと、悔しそうで寂しそうな目をしていた。
どうしたの? と声を掛けようとしたその時だった。
「そんなことないよ!」
強く反発された。
「私が最後まで守るって誓った。どんなことがあっても守るって!」
荒げた声は強い信念を感じさせるものだった。
◇
私ってそんなに頼りないの?
力不足なの?
それとも魔獣に襲われた時、反撃に転じられなかったから?
今考えればもっと得策があったと思う。でも、あの時はいきなりだったから考えてる暇もなくて……それでも、君が私を守ってくれたように私も君を守りたい! 私の中の想いが張り裂けんばかりに叫んでいた。
「一人の力はたかが知れているもの。それはどんなに屈強な人でも、勇者でも、それに神様だって一人の力では成し得られないことだってある」
カルムさんは空を仰ぎながら、でも、私に訴えかけるように話した。
「それに、誰かを守るのは自分の命を守ることよりも困難で重責を伴う。一人を守るのに一人は2つの命を同時に守るってこと。君が動けない状況に陥ったら彼を守れるのは彼しかいない。そうなったら彼は君と自分を守らなきゃいけなくなる」
一呼吸置いて続けた。
「それはきっと君も望んでいないことだよね。一人では無理でも複数人なら成し遂げられることだってある」
俯いた私にカルムさんは優しく語りかけてくれた。
「…………」
カルムさんの言葉が私から離れようとしなかった。
私をたった一人で守ってくれたように私も守りたかった……だけどこの気持ちは我儘かもしれなかった。
一人より二人、二人より三人の方が守れる命も増える。一人ではどうにもできない壁も二人なら乗り越えられるように。誰かを守るのに理屈なんて存在しないのだから、一人で抱え込む必要はない。そうカルムさんは仰ってくれてたのかもしれない。
そうだとしても、初対面の人間を頼っても良いのかなって?
第一印象は高評価だ。でも、あの時のように大切な何かを簡単に晒してしまったら……後悔する事になりかねない。もしかしたら取り返しのつかない事になるかもしれなかった。
それでも、カルムさんならきっと違うとも思っていた。彼らとは違う匂いをしていたから。それだから余計に我儘だったのかなって……。
「ごめんね、僕が変なことを言ったばかりに。君の強さは分かっているつもりだ。無属性魔法《
「それは妖精族として当たり前のことで……」
「アドバイスは1つの方法であって本当はもう1つ言いたかったんだ。言葉足らずで申し訳ない」
続けてカルムさんは言った。
「僕もオリーヴァ王国まで同行して良いかな? 目的地がそこで……」
その時だった――
カルムさんの後方から眩く光る火球が襲いかかって来ていた。
危ない! と声を掛けようとするが、カルムさんは既に振り向き、バックソードでそれを一刀両断し、あの光る長剣を火球が襲いかかって来た方向へと飛ばしていた。
それは瞬きの如き一瞬の出来事だった。無駄な所作なく、私たちの命を守ってくれたのだった。
その光景とカルムさんの言葉がより深く私の思いを揺らしていた。
やっぱり私は我儘だった。君を守りたいはずなのに、私だけで守れると過信していた。その上で彼らとカルムさんに重ねてしまっていた……。
危険なこの場所で考えてる猶予なんてないはずだった。同じ人でもカルムさんは彼らとは違うと感じていたはずだった。冷静さに欠けていたのだ。あの時よりも成長したと思ったけど、成長したのは魔力だけだったのかもしれない……。
「ごめんなさい……王国までよろしくお願いします」
私は深々と頭を下げた。守りたい想いに我儘は不必要だ。
「こちらこそよろしくね」
カルムさんと私は強い握手を交わした。それじゃあ行こっかとカルムさんは歩き出した。
◆
「我儘に巻き込んでごめんね」
歩き出した時、妖精はそう謝って来た。謝ることではないのに、僕からしたら感謝でしかない。
「謝ることじゃないよ。ここまで僕のことを守りたいと⾔ってくれたのは妖精が初めてですごく嬉しかった。ありがとう」
過去に⼀度出会っているとは⾔え、僕は昨⽇が初めまして。それなのに今⽇まで僕のことを覚えてくれていて、守りたいって思ってくれているのは何よりも嬉しかった。
「あ、ありがとう」
妖精は頬をほんのり赤く染めていた。
「君ばっかりそういうのずるいよ……」
「何か言った?」
小さく呟かれた言葉は上手く聞き取れなかった。
「なんでもないよ」
妖精は明後日の方向を向いてしまった。何だか申し訳ないことをした気分だった。
それからは、ネグロベルデの森の中をサポートしていただきながら歩みを進めた。真剣に歩みを進めていたからか自然と会話も少なくなっていた。
しかしそういう時に限って、場を盛り上げようとする天使様が降りて来るものだ。今回はそれがカルムさんだった。
「そう言えば、君たち旅は長いの? 妖精の森辺りから来たってことはかなり長い旅路だったと思うけど」
「そうですね。長いです……」
そう妖精が答えた。ほぼ妖精の一人旅だったと思うけど。
「そうなんだね。ハルトが妖精って呼んでいるのは珍しいね」
そう言われると自然とそう呼んでいたかも。いきなり名前で呼ぶのは躊躇するし、苗字なら呼べるかなって思ったけど、ルミナティアって言ってたから苗字はないのかもしれないし、そうなると妖精が一番呼びやすかった。
「それは私も気になっていたかも。慣れちゃったけど……」
「ちょっと恥ずかしかったと言いますか……」
「お年頃だね」
そう言われると猛烈に恥ずかしくなる。
「それじゃあ、私は君のことをハルって呼ぶ。私のことはなんて呼んでくれる?」
僕に委ねられた。提示してきてくれたら嬉しかったなと思いつつ、それもそれで想像の遥か斜め上を行くものだったら恥ずかしい。かと言って自分で決めるのも恥ずかしい。
妖精はきっとこの状況を楽しんでいるに違いない。ニコニコしながら回答を待っているのだから。
暫し思考を巡らせた僕は、一番呼びやすそうで抵抗を感じない呼び方を選んだ。
「じゃあ、ルナさん……」
「…………」
場が静まり返った。聞こえるのは風と木々が奏でる涼し気な自然の音のみ。
「ダメだった?」
妖精はくすくすと笑う。
「ルナさんなんて丁寧に呼ばなくても良いよ」
「……ルナ」
「えっ?」
「って呼ぶことにする……」
「う、うん……」
お互い紅潮した顔を隠すように俯いた。
「初々しいね。青春だっ」
「「カルムさん!」」
僕とルナは揃って叫ぶに至った。
それからも、何とも言い難い気まずい空気が漂っていた――
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