惨い現実

 翌日――


 クラス内だけでしか感じなかった視線は廊下を歩くだけでも感じるようになっていた。遂に学年、学校中にまで広まりを見せていた。


 一気に恐怖が押し寄せて来た。夏だというのに寒い……。


 一方で今日も噂なんて気にも留めていないくらいに、赤代さんはいつも通り話しかけてくれた。嬉しいけども僕としては、赤代さんのためにもやめてもらいたいと思い始めていた。


 赤代さんも噂の事は耳にしているはずだ。思い切って話してみようとしたが、現状対面で話す勇気はなく、メールでやり取りを交わすことにした。


SINEサイン


 世界中で使われているメッセンジャーアプリケーション。


 SINEを開けば二人だけの友達リストが目に飛び込む。悲しいかなシンプルだ。登録されている友達は緑ヶ丘と赤代さん。緑ヶ丘とは携帯を買ってすぐに連絡先を交換した。赤代さんとは話し始めた1年前に連絡先を交換した。


 赤代さんとのメッセージのやり取りは登録時に交わした疎通確認以来だった。普段は学校で話すため、メッセージのやり取りは行っていないからだ。


『今良いですか?』


 少し畏まった文体で送ると、ものの数分で返信が来た。


『どうしたの?』


 すぐさま会話を続ける。


『噂の事なんだけど』


 赤代さんは僕の方を向くと小首を傾げた。知らないのかなと僕も小首を傾げる。説明を付け足すようにメッセージを打ち込む。


『学年中で広まっている噂の事』


『えっ!? 何それ知らないよ』


『何の噂?』


 内容を一語一句違わず送るか、形だけを送るか悩んだ。


 噂に関して赤代さんは本当に知らないようだ。知らなかったというよりも知らされなかったという方が適切かもしれない。僕には緑ヶ丘が教えてくれたが、赤代さんには誰も話していない可能性がある。


 赤代さんのように、周りに対する影響力が大きい人には聞かれたくないと黒崎くんは考えたはず。

 それに付き合っている相手が、そんな根拠もない嘘偽りの情報を流したと知れば、悲しむ所か距離を置かれ、挙句の果てに見損なわれ、今の関係が拗れる恐れすらある。


 そう、意図的に赤代さんの耳には入らないよう企てているのかもしれないと僕は考えた。

 もしそうなら、そんな崖っぷちなリスクを背負ってまで広めた噂に、果たして意味などあるのだろうか? 僕と赤代さんがお互いただ話しているだけだよなんて明言すれば、その噂は所詮誰かが流した噂に過ぎなかったと思い幕を閉じる。


 ただ相手はここまでした黒崎くんだ。そんな簡単に幕を閉じさせるとは思えなかった。誰もが真偽の不確かな情報を鵜呑みにしているくらいなのだから、下手な行動には出られない。


 だから、僕は登場人物の名前を伏せて簡単に説明をすることとした。名前を伏せた理由大きく3つある。

 

 まず1つ目、赤代さんもそんな噂が学校中に蔓延っているとは知りたくなかったと思うはず。

 二人の関係を僕の一言で壊すかもしれない。もっと得策があるはずで、赤代さんと黒崎くんのことを考えた場合、名前は伏せるべきだと考えた。

 人は何を考えているか分からないから怖い。詰まるところ、傷つくのは僕一人で十分ということ。


 そして2つ目、僕の名前を出した時に赤代さんは心配してくれるか、距離をとるか。

 余計な心配をかけてこれ以上巻き込みたくないのが半分、保身のために言いたくないのが半分。保身と言えど、もう既に数十人には引かれていることだろう。


 最後に3つ目、赤代さんから黒崎くんの耳に入る恐れ。

 万一、噂の事を黒崎くんに話した場合、どこで聞いたか問い詰められ、赤代さんの回答次第では、虚偽の噂にどれだけ脚色が付加されるか分かったものではない。それはもう噂の範疇では収まりきらなくなると思っている。


 だから僕は噂を耳にした第三者という設定で相談という形を取ることにした。


 簡単な文章で説明を終えると赤代さんからは即座に返信が来た。


『それ、本当に最低だね!』


『そういう事があるから校内で会話をするのは少し控えませんか?』


 寂しい気持ちはあるものの、赤代さんのためにもこれが最善の選択だと思い返信した。


 それからは赤代さんと校内での会話を控えるようになった。会話をするのは授業関係の連絡程度に留まったが、今まで通り会話をしなくなったわけではない。帰宅後、SINEを使ってお互いにメッセージのやり取りをしている。


 ただ同じ趣味を持っているだけなのに、嘘偽りの情報で控えめに過ごさなきゃいけないのが悔しくてたまらなかった。それは赤代さんも同じ気持ちのようだった。

 SINEで会話をするようになった時、『嘘の情報に気を遣わなきゃいけないなんて悔しいね』と送られて来た。


 そんなメッセージでのやり取りと一向に温まらない冷たい視線。


 辛く苦しい日々が続いていた――




 夏の日差しにも慣れてきた頃、教室は一段と賑わいを見せていた。そう、明日から夏休み。


 海に行こうと約束を交わす者、夏祭り一緒に行きませんかと恥ずかしそうに誘う者、思い思いの会話を時間に囚われず楽しんでいる光景がそこにはあった。


 そんな賑やかな中、一人ついて行けず置き去りにされ、その上誰も手を差し伸べてくれる事はなく仲間外れとみなされた気分の僕。


 赤代さんの席には、そこに赤代さんがいるのかどうかも判別がつかないほど周りを人に囲まれていた。同じく黒崎くんの周りも人に囲まれている。まるで国民的スターを囲むガードマンのようだ。緑ヶ丘も今は部活の仲間通しで約束を交わしているのか楽しそうにしていた。



 孤独――今の自分にはその言葉が分相応、お似合いだった……。




 1ヶ月の夏休みを迎えた時は幸せだった。


 噂に翻弄されることはなく、心を落ち着かせられる日々。そんな幸せな期間もあっという間に終わりを迎えた。


 小さじ1杯の期待と大さじ1杯の憂鬱が混じり合うなんとも言えない気持ちの悪さに襲われていた。


 そんな気分で教室の扉を開けると、あの冷たい視線を不思議と感じなかった。

 それよりも教室中は思い出話に花を咲かせていた。きっと夏休み中にあんな噂のことなど記憶の彼方へ飛んでいってしまったに違いない。本当にそうであれば嬉しい限りだった。所詮は嘘の情報ですから。


 教室に入ってもすることはなかった。思い出話をする相手も他の人と思い出話に花を咲かせている。あちらこちらから聞こえるそれはどれも似通ったものばかりだ。海に行った。水族館に行った。夏祭りに行った。デートをした。彼女ができた。彼氏ができた。


 僕も水族館には行きましたし、涼しい図書館に行ったりと一人の時間を謳歌していた。思い出話は沢山あるぞと少しばかりの対抗心を燃やしていた。


 そんな夏休み明け初日は驚くほど平和に終わった。




 1週間もすると休み疲れもすっかり取れ学校に慣れていた。それに、噂の事もすっかり消え去ったのかなと感じるようになった。


 僕は緑ヶ丘とそのことを話しながら廊下を歩いていた。


「いつの間にか噂もなくなったね」


「聞かなくなったよね」


「結局何の意味があったんだろう?」


「本当にそう思うよ」


 ちょうどその時、隣を走り去る女子生徒とすれ違い、カシャンと何かが落ちる音が廊下に響き渡った。音の方に目をやると女子生徒の物と思わしき筆箱が落ちていた。


 女子生徒は筆箱が落ちた事に気付いたようで、こちらへ戻って来ていた。


 僕は特に何も考えることなく、落ちた筆箱を拾い上げた。親切心から拾って渡そうとした。


「ありがとうございます」


 頭を下げた女子生徒が僕の顔を見た途端――

 

「さ、触らないで! 返して!」


 お礼の言葉をなかったかのように、まるで幽霊に遭遇したかのようなおぞましい顔でこちらを睨み叫んだ。


 廊下にいた周りの生徒も、教室にいた生徒もこちらを見ていた。それは傍から見れば僕が筆箱を奪ったと思われても仕方のない状況だった。


 僕の手から筆箱を力ずくで奪い取った女子生徒。


「おい、拾ってくれた人に対してそれは酷くないか」


 驚きで放心状態の僕を緑ヶ丘は庇ってくれた。その言葉を無視した女子生徒は驚くべき事を口にしていた。


「つ、次は私を狙おうとしてるんでしょ? 本当にやめてください!」


 その言葉を残し、女子生徒は走り去った。


 僕にはこの状況を全て理解できていなかった。理解できたことは、本当に理不尽だったこと。女子生徒とは初対面だったこと。

 初対面でこの状況は誰でも傷つくものだ。僕は恐怖で一種の金縛りを起こしていた。体が思うように動かず、今の思考では冷静な判断ができそうになかった。


 緑ヶ丘は周りの生徒に落ちていた筆箱を拾っただけだと僕の身の潔白を証明してくれていた。



 ――それでも、状況はどんどん悪くなる一方だった。



「おい、彼奴が真白って奴なんじゃね」



 ――彼女が仕組まれた罠だったとしたら。



「きっとそうだ。赤代さんを狙ってた奴だろ」

 


 ――数秒前の自分の親切心を恨む。



「知ってる知ってる。彼氏持ちの女子ばかり狙ってるって噂だぜ」



 ――噂が。



「まじかよ」



 ――消え去ったわけじゃなかった。



「って言うか今現場目撃したわ」



 ――むしろ悪化している。



「それな! 噂通りの屑だな」



 ――嘘なのに。



「「ははははっ」」



 ――嘲笑う声が痛い。



「おい、待てよ。それは違う。酷いぞ……」



 ――もうここには居場所なんてない。



 緑ヶ丘が隣に並んでくれている。庇ってくれている。それが何よりも心強い。


 だけど、もう……限界だ…………………………………………………………ごめん。


 あ、ああ、あああぁぁぁぁ――――――――――――――――――――――ぁ!!


 頭の中は混沌と化し、外界との関係を断ち切るように心の扉がバタンバタンと次々に閉まっていった。


 どす黒い靄が視界を覆い隠していく。


 忽ち辺り一面は闇の世界、歩き続けても、歩き続けても景色は変わらない虚無の世界。



 怖い――



 痛い――



 寒い――



 苦しい――



 辛い――



 思考を停止させたその感情に心は限界だった。


「真白、教室に戻ろう……」


 優しい緑ヶ丘の声だけが闇の中でも聞こえていた。


 声を頼りに歩き出し、緑ヶ丘に背中を支えられ教室まで辿り着いた。


 まだあの話は届いていないのか、教室では思い思いの会話が聞こえていた。


「真白……」


「……大丈夫だよ。あんなの土日を挟めばきっと忘れられてるよ」


 気丈に振る舞った。緑ヶ丘にはこれ以上心配はかけられないから、一緒に居ると緑ヶ丘も被害を受ける可能性だってあった。


 やはり苦しむのは僕一人だけで十分だった。




 翌日――


 遂にあの話が学校中に蔓延っていた。教室に入るとまたあの冷たい視線の数々。廊下を歩くとひそひそ話と身を守るように教室に入っていく生徒の数々。


 もう元には戻らない。そう確信し始めた。僕一人の力ではどうにもならないほどに惨い現実だった。辛く苦しい日々に苛まれた。嘘の情報を流された挙句、それが原因で蔑まれる。



 だから、人は怖い。嫌いだ。



 それでも、唯一好きな場所のために、学校には通っている。


 学校が管理している裏山。課外授業で使ったり、授業用の植物を育てている。敷地内からしか入ることができないよう山の周りには高い柵が立てられているが、入口は校舎側にあるため生徒であれば誰でも自由に出入りできる。


 その中でも僕の好きな場所は頂上にある。


 少し開けた場所にポツンと建てられており、心地よい風が吹き抜ける場所。東屋。

 読書をするのもリフレッシュするのにも最適な心地よい場所。東屋。


 おまけに人はほとんど来ない。教師は見回りのため、1週間に1回入っていると聞くが、生徒はわざわざ好んで入る人が少ない。そんな場所だから尚更良い。誰の目も気にせず時間の許す限り悠々自適に過ごせる。正しくユートピア。


 東屋のベンチに腰掛け見る景色は思わずため息が零れるほどだった。特に今のように秋の深まりを感じる季節は最高だ。

 真紅に染まった葉や鮮やかなグラデーションの葉、陽光に当てられて金色に輝く葉が見渡す限りに広がっている。日が暮れる空は茜色に染まり辺り一体がどことなく懐かしさと寂しさを帯びている。

 時より吹き抜ける風に肌寒さを覚えながらも、きっと自分しか知らないと優越感が心を熱くさせた。


「こんな場所独り占めなんてずるいよな……」


 視界がぼやけ始めた。柔らかで優しいその陽光に照らされ、視界がキラキラと雪結晶のように輝き始めた。


「なんでこんなことに……」


 溜まっていた感情が零れ始めた。


 人の視線が怖くて痛くて……。


 助けを求めたくてもこんなことに負ける自分が情けなくて……。


 本音を言えなくて……。


 どうしようもないくらいに悔しくて、悔しくて……。


 もう、どうすればいいか今の僕には分からなくて……。


 分からない……。


 分からない……。


 分からないから、この涙の意味さえ分からない……。


 今まで十分我慢したんだ。今はこの想いを解き放っても誰にも責められないだろう……。


 それから暫くの間、東屋のベンチに独り座っていた。時折、冷たい風が頬を伝っていた涙を拭うように吹き抜けた。


 色づいた葉が茜色の陽光に塗り替えられる時、世界を美しくも、どこか儚く哀しい空気で包み込んでいた。

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