もう忘れよう、忘れたい

 それからの日々は苦しく辛い日々だった――


 そう、彼らと関わってしまったことが私を地獄に突き落とした。


 妖精の姿だと私を横取りする輩が現れるかもしれないと、人間の姿になるように言われた。

 妖精とは神の祝福を受けし神聖な種族であり、他種族の前には基本的に姿を表さない。そんなお伽噺のような魅力が人間界では崇め奉られ、その一意な羽は神聖で値も付けられないほどに高価だとされているそう。

 でも、人間界だけがそう考えている。自然界、魔界、天界では仲間とよく出会うとシルフが言っていた。人間は野蛮だと言われてるために人間界に来ようとする妖精が少ないだけなのだ。



 私が人の姿になると早速仕事を与えられた。パーティーメンバーになったからには一緒に仕事をすると思っていたが、それは私だけだったみたい……。


 冒険者協会で依頼を勝手に受諾してきてはそれを私に回す。それも一日数十件だ。投げやりにも限度というものがある。


 それに少し反抗した時だった。


 イルグレスの指示で電撃が流れる『違令いれい四肢鎖ししさ』と言う魔法具を着けられた。彼らの近くでは常に四肢が鎖で繋がれ、行動制限されていた。上から目線の物言いで、『生きたけりゃ俺たちの命令を聞け』とも言われた。唯一自由を与えられたのは仕事である依頼だった。その途中に逃げ出すことはできた。


 しかし、それをしなかったのは記憶という武器を彼らが持っていたから。記憶を消すにはどうしても彼らの傍まで行く必要があったが、怪しい素振りは自分自身を傷つけることになった。これでは命がいくつあっても足りないと絶望した。

 記憶を諦めて保身に回り逃げてしまえば私は妖精界の裏切り者になってしまう。それが恐怖だった。


 彼らは、古びた倉庫の隣に佇む廃墟の最奥部屋に身を潜めていた。いっその事、建物ごと破壊してしまおうとも思った。けれどそれもできなかった。


 私の四肢には違令の四肢鎖以外にも力を制限する魔法具である『掣肘せいちゅう四肢輪ししわ』が着けられていた。力という力全てをある一定以下に制限する魔法具。生活に支障がない程度の力しか出せないように設定され、剣を振り回すことさえ難しい。そんな状態であるから建物ごと破壊するなど到底できることではなかった。


 彼らは予想以上に慎重で狡猾なパーティーだった。特にパーティーリーダーのイルグレスは私にとって要注意人物になった。


 そんな生活の中、一日フルで働いても報酬は銅貨1枚だった。安い果物か硬いパンしか食べられず、最悪なことに彼らと同部屋の中で鎖に繋がれて一夜を過ごすのだ。逃げられないようにと彼らの強い意志を感じた。

 そんな絶対零度の劣悪な生活環境は、私の感覚を麻痺させた。


 思った。もう、ただの道具でしかないのだと……。




 数ヶ月が経った頃、「妖精の姿になれ」とイルグレスが言い放った。


 私は言われるがまま妖精の姿になった。人間の姿だと羽は隠されているからだろう。


 道具のように扱われるがままに、自分の意思など持ち合わせていないように、抵抗することなく、命令のまま動く自分自身に驚いていた。


「背中の羽をいただくぞ」


 絶望が抗う声をも殺めた。そして、私は身動きができないよう地面に押さえつけられた。


 羽のない妖精の利用価値なんて彼らにはないだろう。その後は捨てられる運命しか見えなかった。彼らは息絶えた私をきっと嘲笑うだろう。


 この地獄から抜け出せるならと、それを望んだ私もいた。この苦しみから逃れられるならと――


 それでも、諦められない想いがあった。


 こんな奴らが最後に出会う人間だなんて絶対にお断りだった。


 私はあの子と会うまでは絶対に死ねない!


 会ってからもずっと一緒に時を刻みたい!


 うつ伏せになった私は力と動きが制限される中、精一杯抵抗した。しかし、一日一食フルで働かされた副作用は当然の如く、体に力を入れさせなかった。掣肘の四肢輪に制限されるほどの力も、今の私は持ち合わせていなかった。


 それでも、持てる力を振り絞り全てを声に注いだ。


「やめてください!!」


 今の自分がこんなにも大きく叫べるんだと自分に驚いた。それは彼らも同じで、その場に立ち竦んでいた。


 だって、そうでしょ? 命と同じ重さの羽をお構いなしに奪おうとするのだから。


 私はやっぱりただの道具でしかないんだって……そんなこと認めたくなかったけど、認めざるを得ない状況だった。


 それが悔しい。力不足なのが悔しくて、毎日が辛くて、人間が悲しくて、何もできないのがもどかしくて……。


「まだそんな元気があったのか。最近は仕事もままならないからそろそろ処分しようかと思ったが、まあ働けても一日かそこらだろう。デーガ、羽を切ってしまえ」


「だ、だめ……いやっ……やめて、やめてっ!」


 デーガは背中から両刃斧を取り出し、私の背中に添え羽を切ろうとする。


「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ、いやだいやだいやだ、いやだ……」


 私もう死ぬのかな。そんなの絶対に嫌だ。こんな事で死にたくない。死にたくないよ……誰か、助けて………………。


 涙が止まらない。視界がぼやけた淡い色だけになった。もう目の前に何があるのかすら判別できない。力なく泣き崩れる私は道具でない証拠。道具としてじゃなくて私として生きる望みが欲しい。今の望みはそれだけ……。


 それにどうして私なの? ずっと考えていたことだった。何が彼らをそこまで突き動かすの? 何を目的として望んでいるの? それは私じゃなきゃ駄目なの?


「あなたたちの目的はなに?」


 その疑問符を拭い去るためだろうか。私は訊いていた。

 デーガは羽から両刃斧の距離を置いた。イルグレスの指示を待っているようだった。


「面白いことを訊く。そんなことを訊かれたのは初めてだよ。いや訊けなかったという方が正しいか。その前に力尽きる者が多かったからな」


 へらへらと躊躇なく言う。非常識で済ませるのは軽率過ぎるが、逆にその枠にすら嵌っていない。


 人間の血と心ってこんなものなの?


 表面的な優しさの裏には、こんなにも醜い心が潜んでいるものなの?


 あの子だけは違うと思っていても、人間に対して悲しみを覚えていた。


「教えてやろう。お前が訊きたがっている目的の達成も目前まで迫って来たからな」


 勝ち誇った顔でイルグレスは話し始めた。


「目的は2つある。1つは億万長者だ。一生楽して暮らしたいという誰しもが思うであろう人間の欲だ。それにはお前の羽が必要だ。到底払いきれない額を突きつけようが、もの好きや研究者は躊躇なく貢いでくれるだろうよ。神聖な代物だからな」


 一呼吸置き、私の反応を確かめながらイルグレスは続けた。


「そしてもう1つ、人間界の統率者になることだ。今の世界は腐敗しきっている。野蛮で低知能な種族の集まりの魔界。整備されていない環境が人間を食らう自然界。常に安全圏から地上を見下ろす不公平な天界。この世の不条理は人間が統べる事で殲滅される。それが本来あるべき世界の姿なのだ! そのためには力が、圧倒的に力が足りない。だからお前の統御の鈴が必要だ。あれさえあればこの世も思いのままだ!」


 完璧な計画と言わんばかりに滔々と喋るそれは、ただ持論を押し付けるだけの子どもだった。否、子どもの方が余っ程ちゃんとしてる。億万長者に世界を統べる力……。


 私にはさっぱり分からない。やっぱり人間は野蛮な種族だ。それぞれの世界の持つ独自の力が世界を形作り、繁栄を齎し、支えているのだ。それをこんな人間が管理しようとするなんて絶対に認められない!


「今までの奴らは数週間で、自ら命を絶つか絶たれるかのどちらかだったよ。あっ、でも一人逃げた奴いたな。結構使えると思ったんだがな。でもここまで持ち堪えられたのはお前が初めてだ。実に素晴らしい!」


 そしてまた滔々と喋りだした。嬉しくもない褒め言葉だった。


「素晴らしくなんかない! あなたたちなんかに私は絶対に負けない!」


「その威勢の良さも実に素晴らしい! そんなところが俺の心を掴み、燃え滾らせ、手離したくないと思うようになったのだ! そして、妖精という不思議な力を持つ未知なる存在、目的達成のためにはお前が必要不可欠だ。その身を俺に預けてみる気にはならないか?」


「絶対に嫌!」


「そうか、なら俺たちの崇高な目的のための犠牲になるのだな」


「話の通じない人間ね」


「ちっ、生意気な小娘だ……シャッゼオ、デーガ、羽を切り取れ」


「羽を切ってもその目的は達成されない。寧ろ失敗に終わるよ」


「急に命乞いをやめたな。どうした? 命乞いも無駄だと思ったのか?」


「私に考えがある」


「ふっ、どの道最期だ。最後にその考え聞かせてもらおうじゃないか」


 その言葉を待っていた。


「まずは拘束を解いて」


「ダメだ。そんなことより早く考えを聞かせろ」


 最後だから解いてくれるかもと思ったけどダメだった。だけど、これも想定内。


「億万長者に世界を統べる力の両方を手に入れられる魔法がある」


「魔法に興味はない」


 すんなり乗ってくれると思ったが、さすがに企んでいると思われたのかもしれない。私はそれとなしに訊いた。


「どうして? 手に入れられる力がつくのよ」


「俺たちは無駄な争いをしたくない。汚れ仕事は嫌でね。穏便に事を進めたい派なんだ」


 よく言う人だ。何が穏便だ。今だって十分手を汚しているのに……。


「喋りすぎたな……最後の会話もこれで終いだ。シャッゼオ、デーガ、羽を切り落とせ」


 私は最後の希望を胸に提案した。それは誰かに渡すなどしてはならない神聖なものを穢す行為だった。


「統御の鈴ならどう?」


「羽を切ったら奪えばいいだけのこと」


「知らないの? 羽をなくした妖精はもう妖精じゃなくなるのよ。だからもう魔法も使えない。統御の鈴は取り出せない」


「ほほう、魔力を失うのか。なら、今すぐ渡して貰おうか」


「これを外して……」


 四肢に着けられた掣肘の四肢輪のおかげで鈴は出せないと訴える。仕方なくイルグレスは、自らその魔法具を外す。妙な真似はするなよと目で訴えていた。

 違令の四肢鎖は解いて貰えなかったが、体は喜んでいた。随分と手足が軽くなった。


 希望が見えた。


 十分な魔法を行使できる体に戻った私は指先で空中に円を描き《空間魔法マーズ》を発動させる。


 私は最低だ。神様から賜った神具を自分の命よりも軽率に扱ってしまった。


 例えそれが――


「早くしろ!」


 私が渋っているとイルグレスが痺れを切らしていた。


 動きが制限された腕で1つの鈴を取り出した。


 チリンチリン。鈴の音が響く。


「おい! なぜ鳴らした!」


「対象を強く念じない限りはただの鈴……」


 私の手からゆっくりと鈴がイルグレスによって持って行かれた。


「シャッゼオ、鑑定して本物か確認しろ」


 バイザーの隙間からシャッゼオの目が光っているのが確認できた。《鑑定眼アイズアイ》。あらゆるものを鑑定できる魔法。ステータスや真贋を見ることができる。それをシャッゼオは行使しているようだった。


「本物……」


 シャッゼオが小さく呟いた。


「ははっ、ははははっ、あはははははははっ! 遂に手に入れたぞ! これがあればどんなことでも思い通りだ!」


 高らかな笑い。悪の権化の笑い。


 早速、イルグレスは私に向けて鈴を鳴らした。躊躇というものを露知らず使う。それがどんな結果になろうとも知らずに――


 ギーンギーン!!


 轟音とも言える鈴の音が部屋中に轟き建物を揺らした。イルグレス共々、目を丸くし耳を塞ぎ驚いていた。思わず手から落ちた鈴は床に向かって一直線に落ちる。


 ギーンギーン!!


 再び轟音が部屋中に轟き建物を揺らした。一方の私は、鳴る寸前に両手で耳を塞いでいたため、彼らの間抜け面を拝めた。


 その音は辺り一体に響き渡った――


「そこにいるのは誰だ!? 立ち入り禁止区域だぞ!」


 鎧の奏でる金属音が不規則に聞こえて来た。王国の兵士たちだ。


「各隊、違反者を見つけ次第確保!」


 隊長らしい統率力と自信に溢れた掛け声を皮切りに、兵士たちは動き回っているようだった。


「貴様ぁぁああ!! 一体何をした!」


 今度はイルグレスの怒号が部屋中に轟いた。


「音を弄っただけ……」


「こっちから声がしたぞー!」


 兵士たちが私たちのいる建物へと集まって来る音がする。


「イルグレス……これは、逃げないとやばいぞ、兵士が集まって来た。さすがに俺らでも数で負ける」


 その巨大な体躯とは裏腹に怖気付いたデーガが言った。その間にも兵士たちが階段を駆け上がって来る音が聞こえていた。それが心強かった。


「くそっ! 一旦引くぞ」


「こいつは……」


 シャッゼオが小さく呟く。


「そのまま放っておけ!」


 作戦成功だ。私は安堵した。まだ生きられると。


「俺らのこと話したらお前のことは全世界に広まると思っておいた方がいい。これはフェアな取引だ」


「分かっている……」


「最後の最後で初めて意見が合ったな」


 嫌な笑みを浮かべたイルグレスが言った。


「合いたくもなかったけど……」


 小さく呟くも、イルグレスには聞こえていないようだった。三人揃って部屋の扉から何処かへ消えていった。途中で捕まってしまえば良いのにと思いながら、《人間化ヒュオリス》の魔法を行使する。


 その直後、上がって来た兵士さんと目が合った。絶妙なタイミングだった。四肢を鎖で繋がれたボロボロの少女を目の前に、兵士さんは驚愕の表情を浮かべ後退りしていた。そして、「大丈夫か! 何があった?」と執拗に訊いて来た。


 助かった安堵と彼ら対する怒り、そして自分に対する憤りが混じり合い、混沌と化した。それで今は頭が破裂しそうだった。事情を訊くのは後にして欲しい。言い訳も考えなくてはいけないから。今は一度休息を取りたかった。


 兵士さんの手によって外された鉄鎖。密着していた分厚い金属の板が、隠していた手首足首を露わにした。


「な、なっ、本当に何があったんだ……」


 王国の秩序を守る兵士さんと言えど、驚きと戸惑いを隠しきれずに尻もちをついていた。


 私は自分の手首と足首に視線を落とした。そこには赤く腫れ上がった内出血を起こしている痛々しい光景があった。そこだけ肌の色が変わっていた。まるで別人のように……。


 私は治癒魔法で傷ついた体を癒していく。体全体が淡い緑色の光を発する。その光景に兵士さんは唖然としていた。体が軽くなったおかげで思考も少しは働くようになった。


「今回のことは見なかったことにしてください。ちょっとした修行をしていただけです。修行中の小娘一人を捕らえるのに、これだけの兵士が集結したなんて知られては、余っ程暇なのかと思われちゃいますよね」


 兵士さんはどうしたらいいのか分からずその場で腰を抜かしていた。仕方なく私は兵士さんの前まで移動した。幸いなことにこの部屋には二人の兵士さんしか来ていない。


「ここで見たことは私たちだけの秘密です。獣が数匹忍び込んでいたと、そうお伝えください」


 人差し指を唇にあてがい色目を使う妖艶な仕草をして魅せた。なかなか恥ずかしいけど、これも私自身のため。


 それでも、兵士さんたちはきっと平常心を保ったまま私を連行することだろう。これは国の秩序を守る兵士として当然のこと。

 しかし、彼らは違っていた。大きないざこざもなく平和ボケしてしまっているのか、二人の兵士さんの口元は緩み切っていた。それを必死に抑え込もうとするも、代わりに頬が紅潮し視線を背けていた。仕事中の兵士さんも言わば一人の人間。誘惑には勝てないのだろう。その照れ顔から察するに私の初仕草は効果的面、誤魔化すことに成功していた。


「また会う日まで」


 最後の最後まで気を抜かずに演じ切った私は、部屋の窓から飛び出した。颯爽と飛び出した私と、この演技力は賞という賞の総なめに値するはず。


「美しい……」


「あぁ、美しかった……」


「おい、何があった!?」


 別の兵士さんが部屋に訪れた。


「いや、獣が数匹忍び込んでいただけだったよ……」


「うん、獣が数匹忍び込んでいただけだったよ……」


「お前らどうした? 上の空だぞ」


 その後の様子を窓の外で聞き耳を立てて確認していた。ちゃんと仕事をこなしてくれた事に安堵した私は、妖精の姿となりその場から飛び去った。


 最後まで演じ切ったが、本当はもう限界だった……。


 これから彼らを探し出す勇気も出なかった。会う事さえ心身共に拒み、想像するだけでも戦慄を覚えた。今はもう、肉体的、精神的にどうにもならないくらいボロボロだから。


 彼らが私を探して口封じするかもしれない。私を捕らえて命を奪うかもしれない。そんな恐怖から逃げたいと思った。この世界から逃げてしまいたいと……。


 私の思っていた以上に人間は優しくなかった……。


 やっぱりあの子だけが私の特別で、希望なんだと思い至った。


 待ち焦がれていた時が来たはずなのに、楽しい気持ちで会いに行きたいと願っていたはずなのに……。


「もう忘れよう、忘れたい――ちゃんとシルフの言葉に向き合っていれば良かった……」


 今は逃げるような気持ちで《転移テレポーテーション》を行使した。


 そして、この世界から願いの妖精ルミナティアは姿を消した――




 私はこれまでのことを初めて誰かに話した。辛く苦しい日々があったこと。ハルがいたからこれまで頑張れたこと。そして、彼らから逃げて来たこと。


 ハルは何かを肯定することもなく、ましてや否定することもなく、最後までちゃんと私のペースに合わせて聴いてくれていた。


 そんなハルだから私は最後まで正直に話せたと思う。でも、ハルに話しても良いのかなって、一抹の戸惑いもあった。


 魔力を持っていないハルは真っ先に傷ついてしまう。それが分かっていたとしても、ハルは私と一緒に来るはずだ。拒む私にも屈せず、信念を曲げないと思う。

 ハルがかつて守ってくれた時の強さは誰よりも知っているつもり。でも、その強さの根底は同じだけど、その先が違っている。


 だから、今は私が守らなきゃいけない。


 なのに、自分の弱さに絶望していた。


 少しは成長したのかなって思っていたけど、そんなことなかった。


 彼らと対峙した時、恐怖で冷静な判断もできず、大切なハルを置き去りにして逃げていた。守ると誓っていたのに、最低だった。大切な人も十分に守れないほど私は弱いのだから……。


 それだから、目の前のハルを見るのが辛くなっていた。必死に涙を拭うハル。涙で色濃く染まった袖はもう拭えないとその湿り気を主張している。


 自分のその弱さに絶望したのか、それともあの頃の感情を引き出してしまったのか。自然と私も涙が溢れていた。話している間はずっと我慢していた。泣いたところで私の寒い心は温まらない。誰かに心を温めて欲しくても誰にも相談できなかった。


 だから今、これまでずっと堪えていた感情が大波となり一気に押し寄せて来ていた――


「うああぁぁぁ――――――ぁあぁぁぁ――――――ぁ」


 宿屋の一室では、私の子供じみた泣き声だけが空気を震わせていた。


 その時、泣き喚く私の背中が優しくさすられた。


 振り返ると、目を赤くした頬に何筋もの涙の痕のある優しい顔があった。そしてまた一滴の涙が流れていた。


「ハル、ごめんね……私のせいで、この世界を楽しんで欲しかったのに……」

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