幸せの十年花

 それは、まだ私が学生の頃の話だ。


 私は無類の花好きで、庭も、寝室も花で溢れていた。その中でも小さい頃から育てている花があった。私が7つの誕生日に両親がプレゼントしてくれた花の種だ。


 その花は十年花と言い、10年後に花を咲かせる。咲いた花はたった一日で萎む。それに加え自然豊かな場所でしか生息できない特性ゆえ、子孫を残す前に人間の手によって自然環境が弄られ、生息域をごっそりと減らし、絶滅へと向かっている花の1つとなっていた。唯一、妖精の森だけは十年花の生育に最適な場所のようで至る所に自生しているらしい。


 そんな十年花は、とてもとても美しい一輪の白く輝く花だ。見たものは幸せになれるなんてありきたりな話さえある。


 その十年花が遂に花を咲かせる時が来た。私が17歳になったその日だ。




 誕生日まであと1年。


 私は友達に十年花を育てていることと来年の誕生日には花を咲かせる予定であることを話した。その話は忽ちクラス中で話題になり、私の周りにはいつしか人集りができていた。世にも珍しい十年花を枯らすことなく、開花の一歩手前まで根気よく育てていたからなのか、眩しい眼差しが向けられていた。


 しかし、誰しもが同じ目を向けていたわけではなかった。こんな私をよく思わない人もいたのだ。


「自慢のつもり?」


 歯をギシギシと軋ませながらそう小さく呟く声が聞こえた。声の主はこの国一の富豪の一人娘、言うなればお嬢の中のお嬢。彼女の名前はマリア・サーデリット。私とは身分も違うため関わりは少なかった。

 そんな彼女が放った『自慢のつもり?』という言葉。それを聞いてから、十年花のお話をしてから、私の学校生活は一変したのです。



 ある時、廊下を歩いているとマリアさんと体がぶつかった。自分が通行を邪魔していたからぶつかっちゃったんだ、と頭を下げて謝った。良かれと思った「ごめんなさい」の一言、それが私とマリアさんの歯車を狂わせるトリガーになるとはその時の私は思ってもいなかった。


 マリアさんからしたらこの言葉は、こんな風に聞こえていたのかもしれない……。


『来年にはあなたの十年花が私の元で咲く予定なの、ごめんなさい』


 私から放たれる言葉全てが、自分を蔑むように聞こえていたのかもしれない……。


 それからも不規則なリズムを刻む狂った歯車は動き続けた。時に衝突し、空回りし、次第に錆び付いていった。何かに取り憑かれたように……。


 私が学校の花壇で育てている花の周りに雑草をばらまかれたり、あえて雑草が植えられたり、私に対するでまかせの噂を吹聴されたりもした。気付けばそれは嫌がらせからいじめに成り代わっていた。

 特にその噂は絶大な効力を発揮していた。私に近づこうとする人はすぐにいなくなった。友達も次第に距離を置くようになった。これほど簡単に噂を鵜呑みにするとは思ってもみなかった。



 そんな日々が続いた。バケツをひっくり返したような雨がこの地を襲った日。


「もしかして、私いじめられている?」


 私は自室の窓から外を眺めながらそう思い至った。窓から見える土砂降りの雨は、まるで私の心を映し表しているようだった。


「ははっ、いじめられるようなことしたのかな……?」


 これまでの経緯を辿ると検討はすぐについた。


 なんで……?


 その一言に尽きる。彼女はこの国一のお嬢様、私とは無縁の関係だったはず。


 彼女が私をいじめる理由が分からなかった。そもそも人が人をいじめる理由なんて分かりたくもないけれど、いざ自分がいじめられると気になるものだった。


 前触れもなく突然付けられた重すぎる足枷が、前進力を奪った。それでも、私はめげずに日々を過ごした。

 それには心配をかけたくないという想いがあったから。周りにどう思われてようが、家族だけには心配をかけたくないと思っていた。学校にも休むことなく登校した。どんなに辛くても……。


「友達とは仲良くしてる?」


「学校は楽しいか?」


 にこやかな笑顔で両親は訊いて来た。


「もちろん仲良くしてるし楽しいよ」


 私は嘘をついた。それが辛かった。なによりも辛かった……。早くどうにかしようと焦燥に駆られた。悩む度、頭痛に苛まれた。心という的に矢が突き刺さっていった。日々を過ごす度になんとかしなきゃいけない問題が山積みになっていた。


 その1つ、学校の花壇で育てている花には自分以上に寄り添った。自分のことなんて二の次にできるくらいに私の支えになっていた花だったから。

 そんな花壇の手入れは毎日怠らなかった。雑草をばらまかれても花を傷つけないよう丁寧に掃除をした。嫌がらせを受けた花とお話もした。綺麗に咲くよう、負けないようにと来る日も、来る日も寄り添い続けた。


「大丈夫だよ。私が守るからね」


 そんな時、その言葉に応えるように一輪の花が私に頭を預けて来たのだ。


「……えっ?」


 私は優しく花に手を添え、真っすぐに起こしてみた。しかし、花は私に頭を預けて来る。


 まるで離れたくないように……。


 頭を空へと向ける度に頭を預けて来た。


 まるで首が座っていないように……。


 恐る恐る下に視線を移すと……茎が無残にも折れ曲がっていた。


「えっ………………嘘だよね…………」


「嘘って言ってよ…………」


 その一瞬、事態を把握したその一瞬、私の時が止まった――


「…………そんな」


 日々の努力が実らなかった。あんなに頑張ったのに、その努力を嘲笑うかのように、悪魔が私の心が締め付けた。


 優しくその花に手を添えた。もう自力で頭を上げる力も残っていないと思うと無性に悲しくなった。


 心の奥底から溢れる気持ちに私の世界が震撼した。花の輪郭も判別できないほどに視界がぼやけた。茎の折れた花に一粒の涙がぽたりと落ち、休む間もなくまた1つぽたりと落ちた。今度は花壇の土に吸い込まれていった。


 私は折れ曲がった茎を支えるように支柱を作った。支柱に支えられ辛うじて頭を上げた花。私が支えるからと強く誓った。


 来る日も、来る日も花の様子を見ては手入れを怠らなかった。今度こそ守ってみせると決意を新たに。




 雨上がりの後の青く澄み渡った空。花びらに雨の痕跡が残っていた朝の時間。


 私はいつも通りに手入れをしていた。弱っている花がないか。また嫌がらせをされていないか。一輪一輪見て回った。


 そんな中、一番心配だったあの花に視線を移した。お手製の支柱は雨風で外れてしまっていた。それでも、花はしっかりと自立していた。


「……元気になってる」


 日々の努力が遂に実を結んだ。努力が紡いだ未来は明るかったのだ。奇跡と言ってもいい。花は枯れることなく咲き誇っていた。それがただただ嬉しくて、嬉しくて、また一粒の涙がぽたりと花に落ちた。


 花は諦めずに頑張った。花は私に勇気をくれた。困難に立ち向かう勇気、運命に打ちひしがれるのではなく抗う気持ち。それが大切なんだと花に教えてもらった。


 負けてられない、次は私の番だ――


 マリアさんとは話したことすらない間柄、初めての会話がこんなことで気が引ける。それでも、私が解決しなきゃいけない問題。私はマリアさんと向き合おうと決意した。




 放課後――


 マリアさんが一人になる頃合を見計らって近寄った。


 本当は恐かった。自分が気付かぬうちに、何かをしていたかもしれないと……。


「何かしら、用なら後にして下さらない」


 あなたに構っている暇はないの、さっさと退いてと言わんばかりにこちらを一瞥もせずに手をさっさと振った。


「あの!」


 と、私は声を荒げた。


 これにはマリアさんも驚いたのか目を見開いていた。


「ど、どうして、こんなことをするんですか?」


 理由が知りたかった。


「はあ、何の事?」


 マリアさんは終始知らん顔を貫いていた。


「とぼけないでください。私の大切な花をいじめたのも、友達が私からどんどん離れていくのも全て 、マリアさんの仕業でしょう」


「私がやったという証拠でもあるの?」


 私を見つめるその目は自信で満ち溢れていた。まるで証拠なんてないと言うように。


「証拠はある」


 私のその言葉に一瞬戸惑ったように見えた。


「私と花、みんなの証言」


 そう断言した私を嘲笑うかのようにマリアさんは言った。


「あなた自身が証拠だなんて誰も信じないんじゃなくって? 花は喋れないのよね? みんなは知らん顔するわよね?」


 3つ全てに言い返して来たが、それに反論することはできなかった。証拠なんて今の私からしたらただの強がりで、でも証拠であって、その証拠を証拠とするだけの力が今の私にはないのだ。


 最後のみんなは知らん顔するには思いあたる節があった――私から離れていく友達に理由を訊いた時、一様に急いでいるからとはぐらかして逃げていった。どうして避けるのと訊いても、『別にそんなつもりないけど』と呼吸の様に虚言を吐くばかりだった。

 それだからダメなことくらい分かってはいた。それでも、信じていたかった。少しでも自分の居場所を作ろうと必死だったから。


 マリアさんの言い返しに何も反撃できないまま尻込みした私はうぅと唸った。目尻が熱かった。


「あなたに構っている暇はないの。私、あなたと違って忙しいから」


 私の思いなど露知らず、何事もなかったかのようにスタスタと教室から出ていってしまった。


「あっ……」


 解決しないままその日は終わりを迎えた。翌日も、また翌日も今までと何ら変わらない日々だった。いじめも続いた。

 そんな最中でも時間とは無情。足枷で前進力が奪われようと、一年に一度の誕生日が寂しく悲しいものになろうと、そこに思いやりなどない。あるのは正確無比に時を刻み続けることだけ。


 それでも、できることならば時間を止めて欲しかった。せめてこの足枷が外れるまでは……。




 ただ明るい気持ちで誕生日を迎えたかっただけなのに、時は過ぎ去り、遂に私が待ちに待った誕生日まで後5日となってしまっていた。誕生日はちょうど休日であったため、友達を誘ってみんなで見ようと考えていた。言葉を交わさなかった、いや交わせなかった友達は数人で輪を作り談笑に耽っていた。私はダメ元で誘ってみた。


「あの、今いいかな?」


 と、輪を拡げるように言った言葉に友達は渋々、「なに?」と答えた。まだ口を聞いてくれる安心感があった。


「誕生日の日なんだけど、十年花が咲く予定なの。ううん、予定だけど咲くから! もし良かったら、一緒に見ない……?」


 その目は不安と期待が入り混じり、見つめるその人たちを戸惑わせるものがあった。お互いに目配せをしながらこの空気の打開策を模索していた。


 静寂と私の一方的な緊張感で心臓の鼓動が脳天まで響いた。

 

 暫くしてから一人が口を開いた。


「ごめんね、その日は予定があるから行けそうにないの」


 終始にこやかに語っていた。他の友達もそれに続くように、私の誘いを拒むように、真偽の定かではない理由で断っていった。申し訳なさそうな声色で答えていた。


 目はただただ私ではなく遠くを見つけているようだったけれど、その声が悲しかった。


 あんなに楽しみにしてくれていたのに、ずっと友達だと思っていたのに、そう思っていたのは私だけだったのかもしれないと無性に悲しくなった。


 その日は素直に諦めた。

 日に日に重くなる足枷で次第に歩みがゆっくりとなっていた。気丈に振る舞い続ける日々も限界を迎えていた。


 教室では窓際の席であるため、一人窓から見える花壇を見下ろしていた。


「上から見ても綺麗だなぁ……」


「あんな風になれたらなぁ……」


 呟く私は独りぼっちになってしまった。十年花を見て良い雰囲気になって、また友達として一緒にいてくれるかなって、そう思っていた。


 だけど、それは叶わなかった。唯一の足枷を外すチャンスが失われた。私の理想は儚く、一人教室の隅から眺める空へ溜息と共に消え去った。




 誕生日まで後4日――昨日と変わらない。




 誕生日まで後3日――昨日と変わらない。




 誕生日まで後2日――昨日と変わらない。




 3日間、独りぼっちだった。誰かに話しかけようとしても、拒絶のオーラが休む暇もなく放出させられていた。そんな中でも私は動かなければいけなかった。今のこの状況を打破するために誘い続けた。


 昨日ダメでも今日がある。この強い決意を胸に、もう一度友達のところへ足を運んだ。それは彼女たちからしたら「昨日断ったでしょ、学習能力皆無なの?」と、言わんばかりの目で訴えていた。それでも、私はめげずに抗ったが結果変わらずだった。そんな調子のまま遂に前日が訪れようとしていた。




 雲1つなく晴れた誕生日前日――


 窓辺から見える花壇をただじっと見つめていた。自信たっぷりに陽光をこれでもかと吸収して咲き誇っている花々は、私とは正反対だった。


 そんな花に憧れを持ちながら、誰か来てくれないかなと思っていた時だった。


「私行っていいかしら」


 すぐ横で声がした。声に出していない思いに誰かが答えてくれたようだった。そのタイミングが丁度良かった。私の誘いには誰も受け付けてくれなかったのに、他人の誘いは受け付けるんだと……。


「ねぇ、ちょっと聞いてる」


 誰か話しかけられてるよ。聞いてあげて。ちょっとイラついてる声色だよ。


「ちょっとってば!」


 無視されてるのかな? 大丈夫だよ私も一緒だから。無視されすぎて聞こえてるか不安になるよね。

 遂に肩を揺さぶり始めたもんね。寝てる人なのかな?

 でも、妙にリアルな……。

 その時になってようやく気が付いた。揺さぶられていたのは私自身だった。まさか私に話しかけられているとは思ってもいなかったから。話しかけてくれる人なんてもういないと思っていたから。


「ごめんなさい」


 声の方を見るとあのお嬢様、マリアさんが立っていた。


「マリアさん……?」


 思わず私は声にしたけど、この後の展開なら大体読めるようになっていた。


「なによその顔」


「いや、あの……」


 きっと呆れた顔をしていたと思う。もういいやと半ば諦めていたのかもしれない。


「行ってもいいかしらと聞いてるの」


 仰っている意味が分からなかった。どこに行くかは知らないけれど、私に許可を求められても困る。


 理解できていない私に嘆息を1つ漏らしたマリアさん。


「明日、十年花を見に行っていいかと聞いているの」


 その言葉は正しく寝耳に水だった。誘いたくはなかった。全ての元凶だから。でも、ここで拒んだら後々面倒なことになりかねないだろうと、私は曖昧に答えた。


「良いですけど……」


「それじゃあ、決まりね」


 曖昧な答えを気にもせず一方的に決められてしまった。取り敢えず集合場所と時間を伝えると、また明日とだけ言ってマリアさんは立ち去った。何を考えているか本当に分からない人だった。




 天候に恵まれた誕生日当日――


 集合場所である学校の正門前で待っていたが、彼女の来る気配は一向になかった。からかわれただけなのかなと虚しくなった。もう帰ろうかなとも思った。


 でも、家族にマリアさんが来ることを伝えてしまった。両親は国一を争う富豪の一人娘が来ると知った瞬間、これでもかと手を動かし、家中を掃除した。装飾の準備をした。美味しい料理の腕にさらに磨きをかけようと台所に立っていた。その努力に応えるには否が応でもマリアさんを連れて行くしか私には選択肢が残されていなかった。家族を心配させることだけはできなかったから。


 だから、もう少しだけ待ってみようと思った。もう少しだけ……。


 花壇の前でしゃがみ込み私は花を見つめた。


「ところで君はどう思う?」


 そんな疑問を花に問うても答えてくれるわけがなかった。



 時間だけが過ぎていき、遂に1時間が経過した。ちょうど10年目になるのは午後。十年花が花を咲かせるのも大体午後ということになる。時刻は11時、やっぱり来ないのかな……。


 私は正門前に出て辺りをきょろきょろと見回した。


 両親になんて言い訳しようかと考えながら諦めようとした時、マリアさん宅の方角からこちらに誰かが走って来るのが見えた。


 徐々にはっきりとする風貌――マリアさんだった。


 1時間の大遅刻。集合時間を伝えたはずなのにこれほどまで遅れるなど言語道断。遅刻厳禁の刑に処されるべきであると切に願った。

 それでも、身を包む装いはお嬢様らしく一切手を抜いていなかったが、走ったことで生じた副作用にお嬢様らしさはなかった。それを隠し通すこともできず、息を切らし頬を赤く染めていた。


「すみません、遅れてしまって」


 息を切らしながら頭を下げていた。意外だった。マリアさんから謝罪の言葉が聞けるなんて思わなかったから。

 それに、何だか今日は装いこそお嬢様だけど、感じられる雰囲気からはお嬢様感が抜けきっているようだった。


「大丈夫です。行きましょう」


 隣を歩く彼女とはそれ以来会話はなく私の家まで案内した。訊きたいこと、言いたいことは山ほどあるのに、何から訊けばいいのか。どう話せばいいのか。それが分からなかった。


 家に入ると両親が私たちを出迎えてくれた。


「「ようこそお越しくださいました。マリアお嬢様」」


 両親の揃った挨拶で出迎えられた。


「遅れて申し訳ございません。マリア・サーデリットと申します。以後お見知りおきを」

 

 ドレスの裾を軽く持ち上げた品のあるお嬢様らしい挨拶だった。この挨拶を見たのも入学式以来だった。


 テーブルには両親が腕によりをかけた料理の数々。両親と私とマリアさん、4人でテーブルを囲んだ。

 彼女は一口食べると、美味しいですと目を輝かせていた。


「ありがとうございます」


 母はすごく喜んでいるようだった。私も嬉しかった。マリアさんとの関係は一時的に良好になったように思えた。


 やっぱり――ううん、それは私が決めることじゃない。


「あなたの家なかなか綺麗ね。料理も美味しいわ。この派手な装飾はどうかと思うけど……」


 両親は昨日から丁重にマリアさんを出迎える準備をしていた。国一の富豪のお嬢様に粗相があってはならないと昨日から腕によりをかけて、料理を作り始めた母。家中を掃除し、飾り付けも怠らなかった父。寝る間も惜しんで徹夜でやっていた。

 そこまでやらなくていいよと言う私の言葉には耳を傾けず、楽しそうにやっていた。父は鼻歌を歌いながら、母もまた鼻歌を歌っていた。似た者同士の両親に呆れることはなく、手伝わなくてもいいと言われながら、私も手伝った。



 お昼を食べ終えると、十年花を見るために外へ出た。高く昇り照りつける陽光は暖かかった。庭の大半を占める花壇は、色とりどりの花々が咲き誇っている。その中央には十年花、周りの花々に囲まれ守られるように佇んでいる。まだ蕾のそれは恥ずかしそうに、白い花びらを覗かせていた。咲くまでもう少しだった。


 花壇の前でしゃがみ込み、談笑に更けながら花咲くその時を待っていた。

 談笑に更けっている間も、蕾は着々と開花に向けてその花びらを開き始めていた。待ちに待った外の世界を見るように。


 それから10分ほど経っただろうか。その時は瞬く間に訪れた。

 私が十年花を見つめていると、まだ半分ほどしか開いていなかった花びらが、その視線に応えるかのように一気に開き始めたのだ。


 透き通るほど白い花びらが陽光を心ゆくまで浴びるように。


 まるで両手を大きく広げているかのように。


 大きく仰け反った花びらは自信に満ち溢れ誇らしげだった。


 見事な大輪の白い花が咲いた。陽光を浴びて煌めき、美しく咲いていた。


 数十もの花々が咲いている花壇の中、一際存在感を放ち、見るものを圧倒させる力を持ち合わせていた。


「…………十年花」


 その光景に釘付けとなった。両親は喜び合い、私に言いました。


「よく育てたな」


「すごいわ」


 えへへ、と私は誇らしげな気分だった。


「お誕生日おめでとう!」


「ありがとう」


 私は今、17歳になった。


 その後も両親と花を見つめながら語り合った。


 一方マリアさんは家族の話に割って入って来なかった。ただただ花壇の花々を見つめ続けていた。その中でも一際輝いている十年花をじっと見つめていた。


 暫くすると両親は残念そうな顔をした。


「悪いなフィオナ、父さんたち急な仕事が入ってしまってな、これから出かけなきゃ行けないんだ」


 もっと一緒に見ていたかった。もっと17年間の思い出を振り返りたかったけど、それは仕方がないこと。


「ごめんねフィオナ、暗くなる前には帰れると思うから」


 私は十年花の輝きに負けないくらいの笑顔で両親を見送った。


「いってらっしゃい」


 マリアさんの元に戻ると、しゃがみ込んだまま十年花を未だじっと見つめていた。私は思い切って訊いてみることにした。


「花好きなの?」


 彼女は一言、「好き」と答えた。


「私と一緒だね」


 と、自然な笑顔を向けた。


 すると、マリアさんは突然立ち上がった。


「どうして……どうして私にそんな優しく接してくれるの? あんなに酷い事をしてきたのに……」


 私を見つめる潤いを帯びた瞳は、罪悪感と後悔の色に染まり、震える手足が恐怖の色を体現していた。


「何か理由があったんでしょう?」


 私はマリアさんが理由もなしにいじめることなんてしないと思っていた。花好きな人に悪い人は居ないから。


 マリアさんは全身に力を入れ震えを抑えていた。拳を強く握り、唇を噛み締めたかと思うと、すぐさま全身の力が抜けていった。まるで何かを押し殺しているみたいに……。


 そして、深呼吸をしてから花壇に咲き誇る十年花を見つめた。


「私も十年花を育てていたのよ」


 続けて申し訳なさそうに俯きながらマリアさんは話してくれた。


 十年花を育て始めてたった半年で育てるのに飽きてしまったこと。

 珍しいから育ててみようと思っただけで、花を育てるなんて毛頭興味がなかったこと。

 一向に芽が出ずに、ただ土が泥に変わっていくのを毎日見ているのが辛かったこと。

 挙句の果てに花の種が入った植木鉢を庭の隅に放置したこと。陽光も当たらなければ人目にもつかないような場所に。


「酷い」


 私は素直な気持ちで答えていた。


「酷いよね。蔑んでくれても構わない。それほどのことをしたのだから。知ってる? 十年花はこの辺りでは手に入れることはできない花なの。もちろん近隣の国からもね」


「ここから遥か西の妖精の森にしか自生していない花だよね」


「さすがね」


「でも、この花はお父さんが拾って来たって言ってました。道端に砕け散った植木鉢があって、その中に何かの種が、一粒入っていたって……もしかして、その植木鉢って……」


 マリアさんは頷いた。


「マリアさんの十年花!」


「あの時の判断は間違っていた。こんなにも綺麗な花が咲くのだから」


 十年花を見つめながら後悔の色を浮かべていた。それでも、その後悔は後悔じゃなかったと言っていた。


「私じゃきっと咲かせられなかったと思う」


「どうして? マリアさんだってきっと綺麗な花を咲かせられたと思う」


「あの時の私じゃ無理だった」


 まだ自我のコントロールもできない子どもだったから。お嬢様って言う立場に甘えていた。


「花には本当に申し訳ないことをした。謝っても許されないことだって分かっている」


 花壇の前にしゃがみ込み花を見つめていた。近くの花に手を伸ばし、優しく撫でていた。


「それでも、あなたのお父さんに拾われて、あなたに育ててもらえて本当に良かった」


 そんなことないと私は心の中で否定していた。本当は花だってマリアさんに育てて欲しかったかもしれない。そう思っても口には出せなかった。今のマリアさんは絶対に否定してくるから。

 その理由も私には分かる。そんな風に花と接していた人には育てて欲しくないと私自身が思っているから。マリアさんもまたそう思っているのかもしれない。


「あなただから咲かせられたのよ」


 その言葉は腑に落ちなかった。私は特別な人間じゃない。道を誤ることだって、失敗することだってある。

 マリアさんもその時、道を誤っただけで、本当は綺麗な花を咲かせられたと思う。それに、過去の過ちと向き合い、間違っていたと認めることのできたマリアさんなら、きっと綺麗な花を咲かせられるから。


「今はこんなことを心の底から言えてるけど、今までの私はあなたに嫉妬していた。元々私の花だから私の花になる権利があるって、酷いことを思っていた。私の方が余っ程最低で酷いのにね……」


 一呼吸置いてから続けた。


「私にはできなかった事をやってのけるあなたが妬ましかった。あの時の私は自分で自分を正当化しようと、嫉妬という悪魔に容易く心を売ってしまっていたのよ……」


 正直な想いを打ち明けたマリアさんには、私も正直に応えなくちゃいけない。


「嫉妬って怖いね。私も気をつけなきゃ」


 特別怒るわけでも、呆れるわけでもなかった私を見てマリアさんは突然立ち上がった。


「どうして、どうしてあなたはそんなに平然としていられるの? あんなに酷いことしたのよ! あなたの1年半を奪ったのよ! どうして、どうして怒らないの、恨まないの」


 マリアさんは困惑していた。そんなに私の対応がおかしかったのかなと思うほどに。


「正直、怒りはあったよ。やり返してやろうとも思った……」


 ただみんなに見て欲しかっただけで自慢したつもりじゃないのに。でも、心のどこかでは自慢してたのかもしれなくて、それが偶々マリアさんには自慢として聞こえてしまっただけのこと。


「でもね、あの時十年花の話をしたから今があるように思えてならないの」


「えっ?」


 意味が分からないときょとんとするマリアさん。


「不思議だよね? だって、ずっと話したい、友達になりたいって想ってた人と今こうして話していられるから」


 無性に照れくさくなって微笑んだ。好きな花を一緒に見ることができた。友達になれそうな気がした。


「どうして……」


 やはり意味が分からないと訴えて来た。


「どうしてと言われても……ごめんねやっぱり分からない。これが私だからかな」


「あのっ!」


 突然声を荒らげたマリアさん。何かを決心したように強い眼差しを向けて来た。


「どうしたの?」


 力強く決意を固めたその姿。若干目元が赤くなっていた。普段絶対に見ることはないであろうその姿に私は驚いていた。


「本当にごめんなさい!」


 マリアさんは頭を深く下げた。それから暫く頭を上げようとはしなかった。その下には水滴がぽたぽたと落ちていた。次第に落ちる頻度が上がり、心なしか量も増えているように思えた。


 小刻みに震えている体。そう、マリアさんは泣いていた。自分の行いに心を縛られていた。罪悪感と後悔が心を蝕んでいた。それが具現化したものを私は目の当たりにしていた。


 私が頭を上げてと言っても上げようとはしなかった。私が口を開く度に「ごめんなさい、ごめんなさい」と私の言葉を打ち消した。


 これでは何も進まなかった。だから、今、私ができることといえばこれしかないと思った。


「頭を上げなさい!」


 少々声を荒らげた。誰かにこんなにも声を荒らげるのは初めてだった。


 その声に驚いた彼女は勢いよく頭を上げた。その顔はお嬢様という肩書きがあることを忘れさせるくらいに、正直な気持ちを抑えきれなかった一人の少女の顔をしていた。目から頬を伝い下顎まで伸びる涙の小川が彼女の本心を表していた。


「さすがにやり過ぎだよ……」


「ごめんなさい」


 彼女は頭を上げてと言ったものの未だに少し俯いていた。


「でも、1つだけ許す条件があります」


「わ、わたくしにできることならば何でもします! 私が吹聴した噂も全部取り消します! みんなに謝ります!」


 マリアさんは目に溜まった涙を拭い、私を真剣に見つめた。


 それは私のどんな言葉でも受け入れる。屈しない。どんなことだってやる。そんな強い意思が表れていた。勿論、噂の件はなかったことにして欲しいけど、私が一番望むことではなかった。


 私が望ことは一つ。ただ一つだけ……。


 右手を差し出し、私はマリアさんに問い掛けた。


「私と友達になってください」


 私の意外な言葉にマリアさんはきょとんとしていた。寧ろ何を言っているのと言わんばかりの顔だった。


「それが条件、そんなの嘘だよね。だってそんな、そんなことで良いなんて……そんな……」


「ねぇマリアさん。まだ隠してることがあるよね。私分かるよ。マリアさんが今日私に向けてくれた顔はいじめっ子じゃなくて、友達としての顔に感じたよ」


 マリアさんは全てを見抜かれたと言った顔をしていた。そして、「全て話すね」と思いを私に打ち明けてくれた。


「分かっていた。こんなことは間違っているって……」


「自分勝手な理由で十年花を放り捨てたのに、それを拾って大切に育てているあなたにこんなことをするなんて間違っているって……」


 俯きながらマリアさんは続けた。


「クラスのみんなが向けていたのは尊敬の眼差しだった。でも、私が向けていたのは羨望の眼差しだった。自分にはない力を持っているあなたに最初はみんなと同じ眼差しを向けていたけど、逆にその想いが自分の首を締めていた。羨ましく思う余りに妬みの気持ちが芽生えてしまっていた……」


 マリアさんは一言、自分と向き合った気持ちを言葉にした。


「私は嫉妬していた」


「最近になってようやく気が付いた。自分の愚行にあなたを、関係のない周りの人々を、それに自分自身も傷つけていたことに、やっと気が付いた。私はまだまだどうしようもない子どもだった……」


 震えるマリアさんを私がそっと覗き込むと、再びその目には涙を浮かべていた。


「ごめんなさい」


 マリアさんは手で何度も、何度も涙を拭っていた。それでも、涙は止まらなかった。挙句の果てに、拭う事をやめ腕で両目を押さえ覆い隠していたが、尚も溢れ続けていた。


「本当は一緒に花を育てたい。一緒にお話をしたい。一緒に遊びたい。深く知りたい。近づきたいって、ずっと心の奥底で想っていた……」


 涙を拭いながらマリアさんは言葉を紡いでいた。


「自分勝手ながら前々から友達になりたいと思っていた。だけど、自分の行いで一生友達にはなれないかもって思っていた。なのに、あなたは友達になってと言った……私が嬉しいなんて言うのは間違っているかもしれないけど、本当に、嬉しかった」


 マリアさんは深呼吸をした。そして一言。


「ありがとう」


 今までの想い全てを乗せてくれているように感じたその言霊は、私の胸に強く深く突き刺さった。


 マリアさんは気持ちの整理ができたのか、先程よりかは体の震えが落ち着いているように見えた。


 その時だった。逆に落ち着いたことで気持ちを制御できなくなったのか、目には溢れんばかりの涙が行き場を失っていた。自らの言霊に自らも動かされていたのだろう。大粒の涙が頬を伝っていった。


 私の目の前でその綺麗な顔をくしゃくしゃにしながら泣いた。泣きじゃくっていた。立つ力を失いその場にへたり込むマリアさんは暫く泣き続けていた。手で顔を覆い隠しても尚、溢れる涙だった。


 私は俯き泣き続けるマリアさんの傍に腰を下ろし、背中を優しくさすった。マリアさんは目を丸くしてこちらを一瞥すると、さらに涙が溢れた。


「本当に……ごめん、なさい。わ、わたしも、ともだちに、なりたかったです」


 しゃくりあげながらも必死に言葉を紡いでいた。


 私も自然と涙が目に浮かんだ。それを必死に堪えた。今泣いたら私を辛くさせるから。マリアさんがさらに辛い想いをしてしまうから。


 だから、私は絶対に泣かない。


 そう思っても自然と体の奥底から込み上げてくるものがあった。私はそれを押し殺す。新しいこれからのスタートは、笑顔で切りたいから。


 これまでの人生という花が、新しいこれからの人生という種を残してくれたから。それを大切に育んでいきたい。


「改めてこれからよろしくね」


 私はマリアさんに微笑みかけた。精一杯の許しとリスタートの意を込めて。


 やがて落ち着きを取り戻したマリアさんは、赤くなった顔で私の方を向いた。


「折角の綺麗なお召し物が土で汚れちゃったね」


 私はマリアさんに手を差し出した。


「いいのよ、これくらい洗えば落ちるもの。綺麗元通りにすることさえ叶わず、一生残り続けるものじゃないから……」


 差し伸べた私の手にマリアさんは手を重ねた。手には立ち上がるマリアさんの力が伝わった。


 綺麗元通りにすることさえ叶わず、一生残り続けるもの。それには私自身の根底にある1つの考えが答えになっていた。それが自然と言葉になっていた。


「人生何があるか分からない。楽しいことや嬉しいこと、悲しいこと、悔しいこと、苦しいこと。そういう経験全てが自分をこれからの人生を作る糧となると思うの。だからね、私はこれも運命だと思っているよ」


 その言葉に彼女は赤くなった顔でこちらを見つめていた。驚いたように目を丸くして。


「えへへっ、まだ17しか生きてないのに何言ってるんだろうね」


「…………それすごく良いと思います。年齢なんて関係ないです」


 彼女は目を輝かせていた。


「……ありがとう」


「私もその言葉を生きる糧にしてもよろしいですか?」


 強い信念を感じた瞳は真っ直ぐ私の瞳を捉えていた。それに、私は一言答えるのみだった。


「私に決定権はないよ」


「ありがとうございます」


 嵐の後の青く澄み渡った空にかかる虹のように、私たちの間にも綺麗な虹がかかった。


 それから暫くの間、花壇の前で語り合った。花のこと、誕生日のこと、今まで話せなかったこと、四季の巡りのように話題を巡らせては話していた。


 その中の1つ、誕生日の話題になった時、マリアさんからプレゼントを渡された。それは白く美しい一輪の花のブローチがあしらわれた髪留めだった。目の前の十年花をそのままブローチにしたような美しさだった。


 嬉しかった。ただただ嬉しかった。


「ごめんなさい、最後まで手直しを加えてたら遅れてしまったの」


 そういうことだったんだ。からかわれたと思っていた自分が無性に恥ずかしかった。


「ありがとう。大切にするね」


 私はその髪留めをつけた。彼女が差し出してくれた手鏡には、それは綺麗な一人の女性の姿が映っていたそう。


 一生の宝物がまた1つ増えた瞬間でした。


 胸いっぱいの嬉々たる想いが、再び私の瞳を揺らした。だけど私は堪える。その揺れが嬉しいものであろうと、何だろうと堪える。今日から新しい私の始まりだから、笑顔でスタートを切りたいから。


 目は赤く染まり、涙で顔にはいくつもの小川の後、ドレスの袖やスカートはところどころ湿っており、裾と靴は土だらけ。上から下までお嬢様らしからぬ装いになってしまったマリアさん。しかし、そんなこと一切気にもせず、お嬢様という肩書を取り払った素のままの彼女を見た気がした。


「ありがとう、マリアさん」


「ありがとう、フィオナさん」


 お互い名前で呼び合った初めての日は、今までで一番の忘れられない誕生日になった。


 見た者を幸せにする十年花、にわかには信じ難い話だと思っていたけど、それは違った。実際に見た者、感じた者だから言える。


 十年花が花開いた誕生日、私は幸せになったのだから――

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