第21話 残されたもの
歌声は止むことはなく、バリアのカーテンの向こう側から響いてきた。きっと外はかんかんのお日様が照りつけていて、さわやかなそよ風が道端のたんぽぽを揺らしているのだろう。
あれから数時間、御堂くんは帰ってくることはなかった。
「……本当にあなたの言った通りなんだね」
人をひとり殺すと外の世界に出られる。
針本くん――御堂くんにメッタ刺しにされて階段の踊り場で生き絶えている――の死体が茶色を帯びた金色に光った時、御堂くんはその輝きのなかに飲みこまれていった。
きっと校舎の外の美しい景色に心を奪われたのだろう、御堂くんはあれから数時間、戻ってくる気配はなかった。陽光にそよ風。確かにそう。私だったら戻ってこられる勇気がないもの。
――君も殺すしかないんだ
御堂くんの言葉がよみがえる。この世界から出るには、誰かから殺されないためには、殺すしかないのだ。
タッ……タッ……。
階段を登ってくる足音が聞こえてきた。あれからひとりもここには寄り付かなかったけれど、とうとう現れてしまった。私はとっさに武器を探す。手元には当然ながらなにもない。だが、階段の踊り場の針本君の横に、ナイフが光っていた。
床から立ち上がって、血まみれの階段を降りて、針本くんの持っていたナイフをつかんで立ち向かう自分を想像する。ありえない。自分で自分が武器を持っている姿に現実感がなかった。
あれよあれよと言う間に、階段を登る足音が近づいてくる。靴を脱いでいるのか、ほとんど音はしないけれど、研ぎ澄まされた神経が確かにそれを聞き取った。
「誰かと思えば。君、江崎さんって言うんだよね?」
その男子生徒は言った。
「そう。あなたは?」
「俺は猪口って言うんだ。御堂開の親友。だから君のことは知っていたよ」
そういえば、いつかの夜にこの人の姿を見たような気がする。女の子とキスをしていた。猪口くんは表情を緩めた。柔和な表情だったけど、その手には先端の赤く染まったゴルフクラブが握られていた。
「よかった。会ったのが君で」
猪口くんは針本くんの死体を飛び越え、階段を登りきり、私の前方二メートルの位置に立った。
「御堂はどこだ? 一緒じゃないのか?」
「消えちゃった」
「消えた? 誰かを殺して校外に出たって言うことか」
私はうなずいた。
「戻ってこないのか、御堂は?」
私はうなずいた。心細さに涙がこぼれそうになった。その事実に胸が痛めつけられる。
「あいつは戻ってくるよ。信じられるやつはもうあいつだけだ」
「そうだね。私も信じてる」
猪口くんは私の横に腰を下ろした。ゴルフクラブを杖代わりにして片手を預けている。
「中学校の時だ」と猪口くん。「俺の親が殺人罪で捕まった。強姦殺人だった。近所の見ず知らずのOLを手にかけたんだよ。実の父親が殺人鬼だったなんて笑えるよな」
猪口くんはくすぐったそうな表情でいった。数年前の殺人事件。この町で起こった事件だから覚えている。その子供が同い年であったことも。
「クラスのみんなが俺を遠ざけたよ。口もきいてもらえなくなった。はれ物扱いならまだいい。俺はよごれもの扱いだった。完全に孤立したと思ったよ。そんななか話しかけてくれたのは御堂だった」
「御堂くんが」
「あいつ、久しぶりに会って開口一番なんて言った時思う? 『シン・エヴァンゲリヲンいつ見にいく?』だってさ。あいつには殺人者の子もそれ以外も等しく一緒なのさ。そのことがどれだけ救いになったか」
「御堂くんらしいね」
「笑ったね」と猪口くんは言った。「気を許してくれたみたいでうれしいよ。御堂とはいつから?」
「いつからって?」
「言わせないでくれよ。いつから付き合ってるのかってことだよ」
「付き合ってないわよ、私たち、よく誤解されるけど」
「嘘だろう」
「いや、本当に」
「嘘をつかないでくれよ」
猪口くんの顔から笑顔が消えた。氷のような冷たい視線が突き刺さる。
「でも」
「でもじゃないよ。二人でここでヤッてたんだろう? そんなことバカでも想像できるよ」
「そんなことしてない!」
「俺さ、いま人間不審になってるんだよ。セフレに背中をシャープペンシルで刺されてきたところさ。その時は死ななかったけど、なんていうの心は死んじまったよ。俺は嘘をつかれたくないんだ!」
彼は壊れている。この異常な状況のなかで誰も信じられなくなっているのだ。急に笑い出し、急に怒る。背中を冷たい汗が伝うのを感じる。ここが殺し合いの場面なのだと思い知らされる。いつでも彼は私を殺せるのだと。
「……キスぐらいまでならした」
「そうか」と猪口は安堵した表情を見せる「本当なんだよな?」
嘘をついてでも彼を満足させなくてはいけない。
「御堂はさ、恋人を大切にする人なんだよ。女だって体に触って欲しいもんだよな。なのに何もしないような冷たいやつじゃない。俺には分かるんだ」
猪口くんは一人でぶつぶつつぶやいている。そこに私が立ち入る隙間はない。
彼から逃げるべきだ。こうして密接しあう状況では命を失う危険性が限りなく高い。
「ねえ、猪口くん。ここって袋小路になっていて危ないじゃない。どこか安全なところに移動しましょう?」
自分で自分の言葉を聞きながら、冷笑が脳裏に響き渡る。こんな状況になるまで自分を追いこんだのはどこの誰? 死にたがっていたんじゃないの? 今度は逃げたがっている。逃げてどうするの?
「私……生き残りたい。生き残りたいの。でも誰も殺したくない。時間はたくさんあるんだもの、第三の道を探すわ」
「そんなの逃げでしかないよ」
猪口くんは心ここにあらずといった感じだった。
「逃げかもしれない。でもきっと抜け道がある。そうだ。トンネル……。その手があるじゃない。きっとバリアをすり抜けることができれば――」
「キスしないか」猪口くんは言った。笑っていた。私はかたずをのんで次の言葉を待った。「御堂がどんな風にキスをするのか知りたいんだ。君と口づけてみたらそれがわかるのかも」
「こんな時に何を言っているの!?」
冷たくも温かくもないまなざしが私を見ていた。
「君から俺にしてくれ。御堂がどんな風にするのか知りたいんだ」
静かになった空間に歌声が入り込んできた。悪魔の礼賛を歌う不気味な歌。私は身を乗り出して、猪口君の唇に唇を重ねた。薄い唇。固く閉ざされた貝のような感触。人間の唇はこんなに硬いものだったんだと知った。
「……満足した?」
目の奥から涙があふれ出てきた。悔しさ、恐ろしさ、不気味さ。すべてが入り混じっていた。
「全然」
猪口くんはぼうっとした顔をしていた。何かを考えている。自分の唇を触って物思いにふけっている。
今こそ逃げるチャンスだと思った。私は両足の筋肉に力をこめた。このまま猪口くんの横を通り過ぎ、階段を下りるのだ。しかし――。頭に突き刺すような痛みが走り、私の体は転倒した。猪口くんの手が私のおさげの片方をわしづかみにしていたのだ。
「逃げんなよ」
冷たい床にほほを打つ。眼鏡の割れる音が聞こえた。視界の端に、立ち上がってゴルフクラブを振り上げた猪口くんの姿が見えた。
「なんで逃げようとしたんだよ。もっともっと御堂のことを知りたいのに。教えてもらおうと思ったのにさ」
「あなた、御堂くんのことが好きなんでしょう。この世の誰よりも御堂くんのことが。その気持ちを否定しないで。受け入れて」
私は何を言っているんだろう。死に際して、相手に向ける言葉がこれなの? きっと同情だ。同じ男の子を好きになった相手への。
「変なこというなよ。俺はあいつが……そんなこと言って見ろ、俺は今度こそ見捨てられるんだよ」
「御堂くんはあなたを嫌いになったりしない」
「なんなんだよ、お前。お前といるとなんだか頭の中がぐちゃぐちゃになる」
猪口くんは髪をかきむしった。
「武器を捨てて。ふたりで協力して生きのびましょう。御堂くんが来るのを待って」
「うるさい、黙れ!」
猪口くんの叫び声が耳の中を
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