第四章〈校外〉の世界

第20話 懐かしき声

 よく通る、野太い、低い声だった。胸をしめつけるなつかしさ。二度と聞くことのない声。


 僕は校舎に背を向けて、ゆっくりと校門の方に振り向いた。


 校舎が作る影と日なたの境界線のところに、いた。


「父さん」


「よう」父は笑顔を向けた。「近くまで寄ってさ。ちょっとのぞいてみればお前がいたからびっくりだよ。部活もやってないんだろ? 親子三人そろって一緒に帰らないか」


 父は群青色の上下スーツ、新品らしく見栄えのいい仕立てになっている。下に着ているシャツもよくのりがきいている。ネクタイはシックなダークレッド。革靴はよく磨かれてピカピカしていた。


「また、そんな物騒なナイフなんかもってどうしたの? 危ないからしまいなさい」


 母は眉をひそめた。上品なブラウスにフレアスカート。よく手入れされた髪はつややかだった。


「うそだろ……」


 よろよろと近づいてきた僕を見て、父も母も困惑した顔だった。


「なんだよ。まるで死人でもみたような顔色だぞ。なんてな」


「もう、お父さんったら声が大きいんだから。先生たちに悪いですよ」


「悪い悪い。俺の悪い癖だな」


 そう言ってガハハと胴間どうま声で笑った。


 思い出のなかで最後に見た父は、痩せていて、ほとんど骨と皮のようになっていた。死の間際は意識が混濁していて、家族の誰も目に映っていなかった。こんなに筋骨たくましく、自信満々に腕を振るって歩いている父を見るのはいつぶりだろう。


 そんな父の側に寄りそながら、いつまでも恋する少女のような目で夫を見る母の姿が好きだった。母は今そんな目をしていた。母には父がいなくてはダメなのだ。でないと壊れてしまう。


 それから親子三人で下校路を歩いた。自分は夢でも見ているのだろうか? もしかしたら僕は死んでいるのかもしれない。死んだ後に見るという一瞬の夢のなかにいるのかもしれない。


 どっちだっていい。


〈失われた幸せ〉がいまここにある。


 その事実に比べれば、夢か現実かなんて些細な話ではないだろうか。


 父の胸には議員バッチが光っていた。なぜ議員バッチが?


 そうか、福田笑子の父親のものか。福田を殺した天野を恋人の雲井周助が殺した。そして闘争状態の中で、雲井を針本が殺した。その針本を僕が殺した。まわりまわって彼らの財産がそっくり僕たちの家庭のものになった。


 どういう理路をたどったのかは分からないが、とにかく、それにより父は蘇ったのだ。もしかしたらそこには「家が金持ちだとしたら、ちゃんとした医療を受けることができて父は生きのびることができていた」という理屈があったのかもしれない。どちらにせよ、そんなのは些細なことだ。


「母さん、さっき学校の先生がって言ってたね。僕はしばらく先生たちを見ていないんだが、どこでみたの?」


「見えるかしら、ほら、あそこよ」


 母は指さした。


 学校の上空に浮かんでいるものがあった。巨大な花輪に見えたけれど、それは人間たちだった。手をつなぎあって輪を作っている人たちは、よく見れば教職員たちだった。よく見ると笑顔を浮かべていた。すこぶる楽しそうな様子だ。大きく開いた口からは歌を歌っているのが分かった。屋上で聞こえてきたのはあの声か。


 学校の出入り口には、乗り越えようとすれば人体がぐちゃぐちゃになるバリアが張り巡らされていて、そこから出るには誰か生徒を殺さなくてはいけない――そんな気が狂いそうなルールのなかにいた僕としてはその光景は馬鹿げているとも思わなかった。……ただ順応するだけだ。


「そういや開、腹減ってないか」


「減っているかもしれない」


「じゃあ、ちょっと早いけど、寿司屋に行こう」


 三人で曲がりくねったせまい路地を歩き、駅前にある老舗しにせの寿司屋で時間の早い夕飯を食べた。


 好きなものを食べていいぞと言われたので、中トロとウニとヅケマグロの寿司を食べた。どれも口のなかでとろけるような美味しさだった。甘味すら感じた。


「こんな美味しいもの食べたの初めてだ」


「ちょっと待てよ、毎月のように連れてきているだろう」


 父親は昔のお笑い芸人がやるようにズッコケる仕草をした。


「――そうだっけ」


「あら、あなたは毎月美味しいものを食べさせてもらっているのに、すっかり忘れちゃったの。もったいないわね」


 母はそう言いながら、自分のペイズリー柄のハンカチで、僕の唇に残っていた醤油を拭き取った。


「忘れちゃっていたよ。確かにもったいないね。本当にもったいない」


「大将、かんをもう一本つけてくれないか」


 父が酒を頼むと、


「もう、また病気しちゃうわよ」


 と母は顔をくもらせた。以前は――父の生前は――よく目にした光景だ。


「加減してるって。大丈夫だよ。これとあとビール十杯ぐらいで止めておくから」


 と父は面白くもない冗談を飛ばした。


 そうだ、思い出した。男連中が馬鹿なことばかりするものだから、母はいつも困り顔だった。姉はよくそれを真似していたっけ。姉は母と父どちらにも似ていた。世話好きで気が大きかった。


「この場に姉さんがいたら怒られてるよ」


 この発言は父と母の気に入ったようだ。二人はしばらく笑っていた。家へと帰る道中、二人はまだ姉のことを話していた。


「今度、澄華すみかもここに連れてきたいな。秋人あきひとくんも連れてきてね」


「あら、それいいわね。親子二代集まるなんてなんて幸せなんでしょう」


「澄華はいい相手を見つけたよ。大学卒業してすぐ結婚だもんな。秋人くんも入社三年目で係長。なんて幸せな前途だ」


 父はちらりと横目と僕を見つめると、


「開はいま付き合っている子はいないのか?」


「ちょっと、お父さん開にはまだ早いわよ」


「何を言っているんだ。もう高校生だぞ。恋人のひとりやふたりいるだろうなあ」


「ひとりはともかく、ふたりって」


「どうだ、好きな子とかいないのか?」


 脳内にイメージが浮かぶ。三つ編みに、黒いフレームの眼鏡をかけたかわいい女の子の姿だ。


「いないよ」


 イメージは目の前で塵と化した。過去の自分のある時期に作られたイメージらしい。だが、今となっては必要のないものだ。僕にとって大事なものは目の前にある。今ここにある景色だ。


「もう、堅物だよなあ」


 途中、見慣れた家の前を通りかかった。二階建ての木造、一階では生花教室を開いていたはずだ。


「ここ、針本の家じゃなかったっけ」


 表札はなく、生花教室のやたらピカピカした看板も姿を消していた。なかは暗く、人が住んでいる雰囲気はなかった。家の前には錆びた車と、捨て置かれた鉢がいくつも置かれ、その下から地虫ががさがさとい出てはどこかの暗闇に消えた。


「針本? 誰だそれは?」


「知り合い?」


「俺も忘れちゃったよ」 

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