第22話 ゆりかご

 両親に連れて行かれたのは安アパートなんかではなく、十階建てのマンションだった。エレベーターに乗って、ガラス窓の外に広がるさびしい夜景をながめた。


「家ほどいいものはない。マイホームだぞ、開」


 階に着くなり、父が言った。ダンスパーティーが開けそうなくらい広いエントランスホールの向こうに、表札のついた大きな扉があった。その向こうには居住空間がある。どうやら十階のフロアがすべて僕たちのホームのようだった。


 そのうち、ひと部屋が僕にあてがわれていた。

 

 ひと部屋と言っても、とても広く、キッチンもリビングもベッドルームもあった。リビングには五十インチの大きなテレビがあって、それよりはちょっと小さなモニターのパソコンがあって、レコード棚にはジャズのレコードがびっしりと詰まっていた。


 だだっ広い寝室には目につくものは何もなく、おそらくお手伝いさんが消毒をかけたのだろう、アルコールの匂いがただよっていた。


 柔らかなベッドに柔らかな羽毛布団。この高級ペントハウスのような部屋が、この世界での僕の部屋なのだ。


 ピカピカの黒曜石の浴室で全身鏡を見た。ティーシャツのそでをめくると、入れ墨があった。いっそなくなってくれたらよかったのに。


 疲れが全身にわだかまっていた。ベッドのマットレスの上に身を投げるとすぐに眠気に襲われた。変な眠りだった。眠り特有の心地よさはなく、時間が切断されたという感覚だった。両目が開いたとき、ベッドサイドのデジタル時計は深夜二時を示していた。


 布団からい出して、部屋を抜け出した。長い絨毯のしかれた廊下を歩いて、父と母の部屋をさがした。


 硬い扉をノックすると、ややあってスピーカーから声がした。


「開? どうしたんだ?」


「眠れなくて。ちょっといいかな」


 父の言葉が終わる前に、ドアロックが外れるカチャッという音がした。


「入ってくるといい」


 部屋に入った。すぐに父と母のいるキングサイズのベッドがあった。部屋は無駄に広く、フットサルの練習ができそうなくらいだった。


「ねえ、眠れないんだ。怖い夢を見てしまって」


 父と母は笑わなかった。温かい気づかわし気な視線を僕に送っていた。それで僕も自分が何歳も若返って赤ん坊になったような気分になった。


「ひとを殺す夢を見たんだ。夢のなかで、僕はナイフで何度も何度も刺した。そいつの上にまたがって何度もナイフを振るったんだ。僕は返り血で真っ赤になりながら、それでもまだ刺し続けていた。相手の身体がずたずたのボロボロになって――。でもそいつは僕の友達だったやつで――」


「分かった、おいで、開」


 父は言った。


「怖い夢を見たのね」


 母は近寄って、僕の頭を抱いた。母の体はとても温かかった。とても柔らかかった。幼いころに感じたぬくもりがいま十七歳の僕のもとにもどってきた。


 僕はそれから父と母と同じベッドの上、親子三人で川の字を描いて眠った。知らず知らずのうちに親指をちゅぱちゅぱとしゃぶっていた。母は僕の額をなでてくれながら、慈しむようなまなざしを向け、


「疲れているのね、開。ゆっくりおやすみなさい」


 父は僕の肩に触れた。


「こんなときもあるさ。お前だってまだまだ子どもだものな」


 安らかな眠りが舞い降りてきた。本当の眠り――父が死んでから味わったことのなかった眠りが。重くなったまぶたが、視界をふさぐ。柔らかな闇のなかに包まれて、まどろみの世界へと降りていった。


 まるでゆりかごに戻ったみたいだ。赤ん坊のように、誰からも守られ、誰からも愛される底なしに優しい世界に。


 ――早くもどれ。


 心の奥底から誰かの声が聞こえた。


 自分の声だった。


 何を言ってるんだ。こんな居心地のいい場所から離れる理由があるのだろうか。裕福さで父は生き残った。母も正気を保っている。理想的な世界だ。ここから離れるなんて正気じゃない。


 あんなに苦しい日常に戻りたくない。母の読み上げるお経を聞くのが苦痛だった。母から無視されるのが苦痛だった。酒に溺れる母を見るのが苦痛だった。


 学校でも誰にもいじめられたくはなかった。殴られたり蹴られたり、けなれたりしたくなかった。でもこの世界ならばそんな傷とは無縁でいられる。


 ――約束はどうするつもりだ。


 なんの約束だったか。


 ――指切りを守れないやつは。針千本飲まされる。


 


 バセットハウンド犬のマル。


 間抜けでかわいい江崎さんの飼い犬。


 僕は上半身を起こした。


 両サイドからは両親の寝息が聞こえてきた。


 目の前を見据えると、そこには扉があった。横開きで、学校の教室のドアに酷似していた。何もない虚空に、佇立ちょりつする扉。そこをくぐると当然学校につながるのだと理屈抜きに理解していた。


 驚くことはなかった。それはずっとあったのだ。両親との下校の時も、寿司屋に行った時も、エレベーターから夜景をながめていた時も、自分の部屋に入った時も、両親の部屋に入ったときにも。


 いつでも出ることができたのだ。


「僕はなんて馬鹿だったんだ」


 ベッドをわたり、寝室を横切り、自分の部屋に戻った。スウェット姿のまま、自分の部屋の納戸で武器になりそうなものを探した。金属バット。中学の時野球部だったときに使っていたものだ。扉の存在が背後に感じられた。この扉はいつも必要なときにそこに現れるのだ。この〈校外〉にいる時に。


 ――遅すぎる。


 心の奥底から声がした。


 そう、遅すぎる。


 あれから何時間経ったと思っているんだ? 夕方から夜中になるくらい時間は過ぎている。


 でも僕は向かわずにいられない。


 彼女は光だった。


 絶望に打ち震えていた僕を照らしてくれた唯一の光だった。


 絶望のふちまで届く、何よりも強い光だった。


 彼女と約束をしている。


 針を飲まされたくなければ、約束を果たさなくてはいけない。


 僕は扉を開けた。

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