第五章 絶望の世界

第23話 告白

 扉の向こうの輝く光に向かって身を躍らせた時、僕は自分が見慣れた風景のなかにいることに気づいた。階段室の階段の踊り場だ。


 足に違和感を覚えた。僕は何かの上にまたがっていた。それが何か分かるまで時間がかかってしまったのは無理もない。その体――特に頭部――は原型を留めないくらいにズタズタになっていたのだから。


「うわあっ⁉︎」


 針本だ。手を下したのは僕なのだが、自分がここまでやってのけたとは覚えてすらいなかった。


「すまない、針本、すまない」


 水を打ったような静かさのなか、ひとりの男の声がした。


「遅かったな」


 階段の上からだ。動物的な勘が危険を知らせるアラートを鳴らす。金属バットを握りしめる手に力をこめ、振り返った。


「待ってたんだぜ。何時間も。来ないんじゃないかと心配していた。お前に見捨てられたんじゃないかと気が気じゃなかった」


 意外な人物がそこにいた。数少ない友人のひとりだ。彼が生きていたことに安心を覚えてもよかった。それなのに、その声はやけに冷たく響いた。


「――猪口。無事だったのか」


「上がってこいよ。江崎さんもいるぞ」


「江崎さん!」


 急いで階段を駆け上がった。


 江崎さんは猪口の前に横たわっていた。目を見開き、頭から流れた血は乾いて顔面に張りついていた。髪は赤黒く濡れそぼり、顔の半分は血のたまりに浸っていた。


 床に金属バットが転がる音が響き渡った。僕の手から滑り落ちたのだ。


「死んでるよ」


 猪口は言った。


 全身の力が抜けて、僕は階段室の地面にいつくばった。ちょうど江崎さんと視線が合う位置に自分がいた。


「そんな、嘘だ――」


「嘘じゃない。ここに来て体にさわってみろ。すっかり冷たくなってしまっているぞ。ほら」


 猪口はゴルフクラブの先で半身を支えると、片方の手を伸ばして江崎さんのほおに触った。その行為が気に入らず僕は「やめろ」と怒鳴りつけた。猪口は手を避けた。


「悪かったよ」


 猪口はにやっと笑った。その笑い方も気にさわった。僕は我知らずににらみつけていた。


「江崎さん」


 声を掛けても反応はなく、眼は開きっぱなしで、口は半開きだった。頭頂部がつぶれていた。鈍器のようなもので殴られたのだ。


「猪口、お前いつからここにいた? 誰がやったか知っているか?」


「知ってどうするんだ?」


「そいつを殺す。江崎さんを殺したやつが許せない。絶対にそいつを殺す」


「復讐は何も生まないぜ」


「復讐は僕に生きる目的をくれる」


「そうか。じゃあ教える。そいつはそれは俺だ。悪かったな」


「こんな時に冗談を言ってるわけじゃないよな」


「ああ。その通りだ」


「どうして」


「理由なんて聞いちゃうか? こんな異常事態に理由もクソもあるか? 誰も彼もが誰かを殺したがっている時にさ。でもな、俺には明確な理由があるんだよな」


 しばらく僕たちはにらみ合った。猪口は笑っていた。僕は笑っていなかった。


「御堂さ、この闘争の中で俺は本当に大事なものの存在に気がついたんだよ。俺が心から好きな人の存在に。それはお前だよ。俺はお前を愛しているんだ、御堂」


「それが江崎さんを殺した理由か」


「お前が好きな相手だから生かしてやろうとは思ってたんだよ。でも、やっぱり彼女は邪魔だ。あの子がいる限り、お前のこころは俺になびかない。だろう? なあ、御堂聞かせてくれ。俺のこと嫌いになったか?」


 僕はおもむろに立ち上がり、猪口へと両手を伸ばした。その野太い首をつかみ、渾身の力で引き締めにかかる。


 猪口は無防備になった僕の腹に蹴りを入れた。僕は後ろ向きに階段を転げ落ちた。段の上を転がり、踊り場へ叩きつけられた。もの言わぬ針本の遺体と再会した。頭を打たなかったのは幸いだ。体のあちこちに痛みが走っても、視界はクリアだ。


。だからさ、御堂、俺はお前を俺のものにしたいんだ。悪いけど死んでくれ」


 猪口は階段を降り、ゴルフクラブを振り上げてきた。


 僕は手早く装填させた。痛みを堪えながら、血で汚れた床の上から矢を探して、ボウガンに瞬時に取りつけた。


「お前、それは」


 猪口は顔を真っ青にした。きっと針本の死体を確認していなかったのだろう。そのそばにボウガンが落ちていたということも。僕は撃った。だが、矢は彼の心臓には届かず、右脇腹に突き刺さった。


「ってえええええ!」


 間髪入れず二発目を撃った。今度は左ほおを擦過していった。猪口はゴルフクラブを取り落とした。僕は怪談を駆け上がり、殴りかかった。


 猪口は敏捷な身の動きで攻撃を避け、階段の手すりに身を乗り上げると、階段の下へと自分の体を落下させた。


「猪口ッ!」


 手負いの状態で階段の高い位置から飛び降りたら無事ではすまないだろう。階下の猪口は片足を変な方向に曲げていた。それでも立ち上がり、僕から背を向け廊下を走って行った。


「待てよォ!」


 僕は叫び、階段を降りた。


 三階、一年の教室棟を猪口は駆け抜けた。片足を負傷していると言うのに、なんて速さだ。追いつこうと両足の筋肉をフルで使うが、距離は縮められない。


 逃してなるか。僕はスピードを上げる。猪口の首根っこを捕まえるのだ。ズックの裏が廊下をけるたびに、その背中が近づいてくる。もう少しだ。もう少しでお前を――。


 猪口は廊下突き当りの曲がり角を曲がった。視界からその姿が消えた途端、不安が襲う。このま猪口を逃すわけにはいかない。江崎さんに行った仕打ちを、身をもって思い知らせてやるのだ。


 直後、発砲音。廊下の奥から、猪口の体が飛び出してきた。


 リノリウムの床に大の字になって倒れこんだ井口の体。見開いた目と口、蒼白な顔色、胸には大穴が空いていた。言うまでもなく、何者かに銃で撃たれたのだ。キーン、耳に残響音が残る。


 突き当りから銃口が、つづいて男子生徒がひとり出てきた。僕はとっさに男子トイレの影に身を隠し、その姿を遠巻きにみる。連式の猟銃。女と見間違えるような美貌。その生徒には見覚えがあった。香月京。いつの話したあの時のように、香月は僕にほほえみかけた。それから自分の頭の後ろを指さした。


 なんのジェスチャーかはすぐには分からなかった。背後に迫る気配から、危機を察知した。


 振り向くと、ナタを振り上げてきた生徒がいた。僕は矢を放った。矢がおでこを深々と居抜き、女子生徒はトイレの前にその身を投げうった。長い髪の女。知らない生徒だった。


 香月京が知らせてくれなければ、僕は死んでいただろう。背後から息を殺し忍びよってきたこの女子生徒によって。


 香月はにっこりと笑っていた。友好的な態度だが、あれだけ平和主義的だった男がこんなにもあっさり人を殺してしまうことに寒々しいものを覚える。


 いや、彼は守るのは法律だといった。法律の支配が及ばない場所では……どんなことでもするということか。


「家に帰る」


 疲れ切っていた。こんなにもたやすく命のやり取りをしなければいけない現状に。さっき頭を射抜いた女子生徒の体は紅茶色に輝いている。これでサヨナラだ。この狂った世界から。僕はその体に触れた。


 


 ――守れなかったよ、江崎さん。


 ――僕は針千本を飲むことにする。

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