第27話 蘇生

 初夏の天気は変わりやすいが、この日はとても天気が良かった。午後になってからも日ざしは相変わらず穏やかで、過ごしやすかった。死ぬのにちょうどいい日があるとすればおそらくきょうなのだろう。


 金具を固定した。天井から吊り下がるロープ。死に場には自分の部屋を選んだ。この部屋はプライバシーが守られすぎるくらいに守られている。誰にも邪魔されることはない。確実に実行できる。


 死ぬ前に音楽が聞きたいと思った。僕の好きな音楽の数々を。聞こうとすればいくらでも聞くことができたのだけれど、やっぱりやめておいた。僕にとって音楽は生きるために必要なオイルみたいなものだった。もし聞いてしまったら、死ぬに死にきれなくなってしまうだろう。


 スチール製の踏み台をのぼった。輪っか状にしたロープを手に持った時、〈扉〉が目に入った。最後の瞬間までこいつが幅をきかせているのが気に食わなかった。


「最後まで僕を不愉快にする気か」


 怒鳴りつけたが、〈扉〉は何も言わない。何も語らない。当然だ。所詮は〈扉〉なのだから。しかし、反応はあった。扉がスッと少し開いたのである。それも右から左ではなく、左から右に。その向こうにあるのはまばゆい光――ではなく、なにかの部屋のようだった。


 そんなものを無視して、ロープに首を通して、すべてを終わりにしようとしなかったのは、その部屋のなかに人間の姿を見つけたからであった。誰かがそのなかにたたずんでいた。まるで僕を待ち受けているかのように。


「最後に何を見せようと言うんだ。くだらないものじゃないよな」


 踏み台から下りて、僕は〈扉〉に手をかけた。左から右へと引いた。そこには瞠目どうもくすべき光景が広がっていた。


 教室ぐらいの空間。床はフローリングで、ワックスで磨かれたみたいに照り映えていた。壁にも板材。天井は鋼鉄製で、梁がめぐらされていた。まるでこぶりな体育館のようだった。驚くべきは、その壁にあった。等間隔にフックが設置されていた。まるで更衣室のハンガーみたいに。そして、そのフックの先に吊り下がっているのは人間の肉体だった。


「なんだよこれ……死体か?」


 人間の肉体の見本市のようであった。肉屋の冷蔵倉庫のように人間がずらりと吊るされていた。すべて制服姿の男女だった。その顔ひとつひとつを見れば見知った顔ばかりだった。


「針本……!?」


 針本はりもと正資まさしがぶら下がっていた。目と唇を閉じていて、どうやら呼吸はしていなかった。だが、僕が刃物でずたずたしたはずの顔は無傷で、それどころか肌に色つやすらあって、見た目は生前となにひとつ変わりがなかった。


 ほかにも、知っている顔があった。天野玲香とその恋人の雲井周助、福田笑子。それから僕をナタで襲いかかってきた女子もいた。大半は知らない人間、全部で十二人いた。


 なぜ? なんのためにこいつらはいる?


 


 猪口の放った言葉が脳裏によみがえった。彼はこのことを知っていたのだ。この死体室のことを。


 僕が殺した人間がここにいる。そして、もここにいる。十二人すべてが僕の所有物、つまりは〈財産〉になったのだ。


 吊るされている人の列のなかに、草木絵乃の姿を見つけた。なぜ彼女をフックから下ろそうとしたのかが、いまもよく思い出せない。気まぐれだったのかもしれない。江崎さんが強く思っていた相手を吊るしたままにしておくのはいたたまれないと思ったのかも知れない。


 草木絵乃の腰のあたりを抱えた。香水やシャンプーの匂いがはぎとられた人間独特の臭いがした。僕は両腕に力をこめて持ち上げた。にちゃりと音がして、背中がフックから外れた。フックは脂ぎった赤黒い色で汚れ、肉体との間に糸を引いた。一体誰がこんなことをしたのか知らないが、むごい仕打ちだと思った。」


「んっ……」


 とつぜん耳元でささやき声が聞こえてきた。僕は驚愕に震えながら、腕に抱かれたままの少女の顔を見やった。


 次の瞬間、草木絵乃の胸が大きくふくらんだ。その花のような唇からスーッと空気を吸いこむ音がした。両目のまぶたが開いた。二つの眼球に生命の色が宿った。ゼンマイの巻かれたおもちゃのように、その全身の筋肉に躍動を感じた。


「――ここどこ!?」


 快活な声が小さな部屋に響き渡った。まぎれもなく人間の肉体によって放たれた声だった。


 密接した距離間で僕たちの視線がぶつかった。


「――あんた誰!?」


 草木絵乃はキンキン声で叫んだ。

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