第26話 絶望
朝食の席は親子三人一緒だった。食堂は日当たりの良い場所にあって、日ざしが気持ちよかった。木目の美しい樫材のテーブルもつやつや日ざしを反射していた。食堂にはお手伝いさんがいて(それも二、三人)、朝食のプレートを全員に配って回った。
「いいね。カリカリベーコンのベーコンエッグ、ハーブ入りのソーセージ、バターたっぷりのトースト、びりっと苦いコーヒー。朝食はコレでなきゃ。うん。最高ですよ、浅間さん」
父がお手伝いさんにウインクを送る。お手伝いさんはいかにもうれしそうな顔つきをした。
「結構ですわ。でも、サラダも丹精こめて作りましたので、しっかり食べてくださいね」
「本当よ、あなた。サラダを全部食べるまでは席を立たせませんからね」と母。
「おいおい、議場に遅刻していったら都合悪いって。きょうから本会議なんだからさあ」
そう言ってソーセージをかじりながら、
「どうした、開。食欲ないか?」
「そんなことないよ。食べるよ」
フォークの先でもてあそんでいたいんげんのソテーを口に運ぶ。いんげんはとても新鮮で、肉厚で、バターの風味が利いていて、野菜嫌いの僕でも美味しく食べられた。でも飲みこむのに苦労した。やっぱり食欲がないのだ。
「無理して食べなくていいぞ」
「もう食べ盛りの子になにっているのよ。開、あなたも残さず食べるのですよ」
「分かったよ、母さん」
食欲不振の理由はいくつかあるが、一番の理由は背後に位置する〈扉〉の存在だった。こいつは常に僕の移動する場所についてまわった。もう戦う気力はない。それなのに〈扉〉は〈学校〉の存在を常に意識させる。
「開はきょうは家にいる? 私お昼は友達とランチなのよ」
「家に……」
学校に行く気がないのなら家にいるしかないだろう。だが、きょうは六月十四日。平日の水曜日だ。そんなときに学校の話が出ないなんておかしい。ああ。そうか、教師たちが空を飛び回っている世界で常識など無意味だ。ここは現実世界に見えて、しっかりとした異世界なのだ。
「問題ないよ」と僕は答えた。「でも午前中ちょっと出かけるかも。午後までには戻ると思うけどいいかな?」
「いいわよ。車に気をつけていってらっしゃい」
出かけようとすると、お手伝いの浅間さんは、「車を手配します」といった。驚いた。金持ちになると自分の足を使わなくても済むのだ。僕はお言葉に甘えることにした。
黒いピカピカの車――車には詳しくないから車種は分からない――は僕を運んでいった。町は変わらないように見えた。平日にも関わらず大通りはたくさんの車で混み合っている。町を歩く人は、半袖姿と長袖姿が半々。風は強く、晴れていても肌寒さを感じる日だった。
目的の場所についた。
「待ちますよ」という運転手に戻るように伝えた。運転手が去った後、僕はあるき出した。
住所を確かめるが、そこには廃屋が一件あるだけだった。針本の家がそうであったように、江崎さんの家も荒廃しきっていた。
やはり死んでしまったのだ、江崎さんは。
この事実を目の当たりにして、悲しみが増えることはなかった。すでにして、心は悲しみのどん底にあったからだ。
帰りにホームセンターによって太いロープと固定金具を買った。江崎さんのところに行こうと思った。そうすれば江崎さんのいない悲しみにいつまでも浸っていなくても済む。死後の世界は信じていなかったのに、江崎さんと同じところに行けるという期待感が胸を包みこんだ。死の誘惑は温かかった。
途中、不思議な一軒家を見かけた。二階建てのコンクリート造り。比較的大きく、打ちっぱなしコンクリートというのかおしゃれな現代建築。表札には「横尾」とあった。その家が不思議なのは、出入り口や窓にバリアがあったことだ。まるで学校の校舎と同じ具合に。
その時は気にしなかった。これから死ににいくのに興味を持っておく必要はないからだ。異常な世界の異常な現実が垣間見えたところで何になるというのか?
自宅らしい大きな建物が見えてきた。
いま、僕は千本の針を飲みに行く。
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