第18話 闘争(香月)
清潔なアルコールの香りが保健室を占拠していた。僕はこの香りが好きだった。人間特有の嫌な臭いが消える。消毒される。世界中でこの匂いで満たされればいいのにと思う。
ベッドの前には白いカーテンが引かれ、その内側に人がいることを雄弁に物語っていた。
わずかなカーテンとカーテンの隙間からなかをうかがうと、少女がひとり眠りについていた。
音を消すように努めながら侵入した。
二年生の山川里美。恋人の
思わず笑いが込み上げてきた。もし、カートゥーンアニメの『トムとジェリー』のうち、ジェリーがみずから率先してトムにその身をささげたらどうなる? トムがうまそうにジェリーの体を半分に食いちぎって、その瞬間にアニメは最終回だ。このシチュエーションはそんなシュールなジョークに酷似している。
なかなか敏感な人間らしい。僕がなかに入ってきたことを察知して、山川里美はパチリと目を開けた。
「誰?」
おびえた表情ではあるが、殺人者に対しておびえてみせるような表情ではない。予想通り、外での騒ぎなど知る術はなかったのだろう。つまり、トムに身を捧げるジェリーと言ったところだ。
「生徒会のおつかいができました。山川里美さん、あなたを別の安全な場所に移すようにと。起きられますか?」
僕は嘘をついた。
「え、あ、うん」
いぶかしげに眉をひそめて、動こうとはしなかった。
「もしよろしければ、起きるのを介助させてください。僕は一年の香月京と申します」
僕は自分の美貌を自覚している。また、それを利用する術を心得ていた。そのせいで同性からいじめにもあったりしたけれど、異性にはたいてい有効だ。
柔らかな輪郭、小ぶりなつくりの顔、大きな瞳、亜麻色の長い髪――ちょっと口角を上げて見せれば、人を操ることなど造作もない。
効果はてきめんだった。山川里美はぽーっとした顔で、
「どうぞ。でもどうして?」
「後で説明しますが、大変なことが起きているんです」
山川の布団を剥いだ。ブラウスは着乱れ、紺色のプリーツスカートはめくれあがっていた。山川が恥ずかしさに身じろぎするのも構わず僕はその背中を支え、上半身を起こしてやった。
「大変なことって何?」
「信じられないでしょうが、生徒が生徒たちを殺しているのです」
香月は目尻をさげてみせた。
「冗談よね?」
「あなたがここで眠りをとられている間にいろんなことが起きたのです。もう安全なところはありません」
「うそ、そんな――」
山川は顔を青ざめさせた。
「あなたは信用してもいいの?」
「まずは信用いただかないと、ここから逃れることもせんよ」
「不安なの。彼氏が……金田君があんなことになってから、心が動揺してしまって」
「大丈夫ですよ。僕にすべてを任せて下さい」
山川はその体を僕に預けてきた。うん、頃合いだ。僕は山川から死角になっている右手のなかでマイナスドライバーを逆回転させた
「僕は信用がおける人物です」
マイナスドライバーの先端を少女の首の後ろに食いこませた。
「信頼のできなさという点においてはね」
ほほえみを向けた。いまや山川は両目をいっぱいに広げ、しどけなく口を開いていた。僕は渾身の力でドライバーを奥へ奥へと送りこんだ。ドライバーの握り手に熱い血潮がにじんできた。
「かはっ」
えづくような声を出して山川は血の混じった唾液を垂らした。山川は引きつけを起こしたみたいに泣いた。自分が死に向かっていくのを知りながらまだ死ねないでいるのだ。とてつもない恐怖を感じていることだろう。僕はその様子に満足した。
「こんなマイナスドライバーなんかで攻撃してしまってごめんなさい。でもほかにいい武器がなかったんです」
山川の口から垂れた血によって清潔な白いベッドがみるみると赤く染まっていった。僕はこの部屋の出入り口の付近に戻って、常設されているアルコール洗浄液で汚れた手を清掃した。汚いのはいやなのだ。この時アルコールの芳香を心ゆくまで堪能する。そうこうしているうちに、山川は絶命したらしく、その身体はぼんやりと光を放っていた。
「へえ。うわさ通りに紅茶色の光だ。面白いなあ」
光る少女の体に僕は手を伸ばした。やがて視界全体が光に飲みこまれる。これも噂通りなら、いまから学校の外へと運ばれるはずだ。
瞬時に僕の身体は〈校外〉へ運ばれた。よく晴れていた。太陽は沈みかけていて、夜が近いことを知らせていた。ホコリを含んだ風が、僕の長髪をなでていった。
「さて、これもうわさ通りなら山川里美の財産はすべて僕のものということになる。僕のあばら家も少しは上等な建物になっているといいけど」
初めての殺人は首尾よく運んだ。だが、人間ひとり殺すというのは思った以上の労力を必要とした。このままでは効率が悪い。
「武器が必要だ」
ナイフでは心許ないが、かといってそれより大きいものでは自分の体力では扱えない。飛び道具がいい。調達はできなくはないはずだ。まずはカッターナイフでいいから入手して、それから
「神様の目の届かない世界に僕はいるんだ。それなら好き放題やってしまおうか。そして僕だって弱くないことをみんなに見せつけてやる」
いつの日だったか、上級生の男とした会話が脳裏に浮かび上がってきた。
『でも自分がいじめられているのをなんとかしようとはしないのか』と男。
『あなたは――』と僕。
『御堂』
『御堂さんは立ち向かっておられるのですか』
『そうだ』
『それは素晴らしい』と香月は言った。『僕は法律を守るつもりです。復讐はしません』
それが回答だった。
もう守るべき法律はない。だから、なにをしてもいい。御堂さん、僕はこの世界の中で強くなってみせますよ。
御堂さんは生き残ってくれるだろうか。御堂さんに会いたい。そして僕も弱くないことを見せつけてほめてもらいたいのだ。
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