第15話 あやまち
江崎さんの首にかけた手は今や力を失ってだらんと垂れている。
「ごめん、ごめん」
言葉はほとんど声にならなかった。目の奥から熱いものがあふれてきた。ほおを無数の水滴が流れていった。
「なんてことを。取り返しがつかないことをした」
縮こまるようにして地面に腰を下ろした。愛する人を傷つけた、取り返しのつかない絶望が背骨に氷点下の冷たさを走らせた。
丸めた僕の背中を、温かな感触がつつみこんだ。
「いいのよ」
江崎さんは言った。つよく喉を絞められていたせいで、ぼそぼその声だった。
「私も悪かった。あなたがせっかく私のために行動しようと言ってくれたのに挑発するようなこと」
僕たちはしばらくそうしていた。身を寄せ合って壁にもたれていた。階段の下からの鋭い悲鳴を聞いた。震える江崎さんの手の甲にふれた。
いよいよはじまったのだ。
別の悲鳴が続いた。男の悲鳴だ。
このまま僕らは殺されるのだろうか。
「一緒に飛びこまないか。階段室の外に。それなら殺されずに済むし、財産も奪われない。少なくとも生徒たちには」
「私は」江崎さんが言った。「みんなを信じたい。こんなこと止めてくれるって信じたい」
「信じるだけじゃ――」
僕は言いかけた――どうにもならないよ。
どうあっても、何があっても、江崎さんは僕が守る。幸いなことに僕の学生服のポケットにはナイフがある。
間も無く暴力がこの階段室にも荒れ狂うだろう。その暴力のすべてから江崎さんを守るのだ。
「君が万引きの罪をかぶったっていうのは本当?」
そんな質問が出たのは、最初の悲鳴が聞こえてからしばらく立ってからだ。
「どうしてそれを?」
江崎さんは注意深い視線を返してきた。
「天野と福田――今やどちらも死んでしまったんだね――が噂をしていた。それをうっかり聞いてしまったんだよ」
「そっか」
「草木絵乃のためだというじゃないか。君はどうしてあの子をかばうんだい?」
江崎さんはやがて口を開いた。
「絵乃ちゃんは大事な友達なの。小学校に入った時に、最初に話しかけてくれた女の子。それ以来ずっと友達だと思っている」
僕はうなずいて先をうながした。
「中学になってからそれぞれに友達ができて距離が空いていったけど、親同士が仲良くしていたこともあり、交流は続いていた。高校になってからのつき合いは細々としたものだったけど、私はまだ友達だと思っていた。
「ある日、ふらりと立ち寄ったお店で彼女が店の商品を自分の通学バッグにしまいこむのを見た。注意しようとしたけど、遅かった。店員さんにもう見つかっていたの。
「何とかしなきゃと思って私は名乗り出たの。絵乃ちゃんをかばうために、絵乃ちゃんを追いかけてきた店員さんに、自分が犯人ですって割って入った。店員さんは目を丸くしていたけど、犯人を名乗る私を放っとくわけには行かなかったし、警察は警察でまだ被害がないと言うことで見逃してくれた。万引きって店舗を出るまではまだ犯罪じゃないんだってさ。
「厳重注意で済んだよ。退学にはならなかった。親にはこっぴどく叱られちゃった。一月前のことだったけど、まだ許してもらえていない」
「君はさ、どうしてそんなに優しくするの? 草木絵乃なんて反省すらしていない。それなのに君はかばい続けるの?」
「私は」江崎さんは少し時間を置いてからいった。「人の良心を信じている。彼女が反省してくれるって信じている」
「そうか」
江崎さんは人の良心を信じている。草木絵乃が江崎さんに罪を告白し心からの謝罪をする日を夢見ている。
江崎さんは僕とは同類だと思っていたが、そうではなかった。彼女も他人に憎悪を抱いて、殺したいと思っていると決めつけていた。いつからそんな認識を抱くようになっていたのだろう。
おそらく、江崎さんが僕と同じでいじめられていて屋上を逃げ場にしているというその事実だけで、僕は同類と決めつけていたのだ。
さきほど拒絶された時、逆上した僕は彼女に猛烈な殺意を抱いた。彼女が涙を流し、「やめて」と言わなければ、そのか細い首を引き締めて、骨がぼきりと折れる音を聞いていたのかもしれない。
そして、僕は輝く彼女に触れて見事に外の世界に出てしまい、一件落着ということになっていたのかもしれない。
足音がした。
階下から響いてくる。ひどく慌てた様子でかけ昇ってくる。
僕たちは身を隠そうとして、ここには何もないことが分かった。
背後に江崎さんを隠して、階段をのぼってくる者を待ち受けた。そいつは僕らに視線を向けた。
「――へえ。お前たちまだ生きてたんだ」
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