第三章 闘争状態

第13話 出口

 不思議なもので、こういう状況下なのに(こういう状況下だからこそというべきか)、あちこちから恋の噂が聞こえてきた。


 自分もその噂の一部になっていると聞いて驚いた。


「笑っちゃうわよね」江崎さんは言った。「真夜中に二人だけで逢引しているんですって。間違いではないわね」


「確かに時間を忘れて話し込んではいるけれど、僕たちは噂になるようなことはしていないというのに。猪口のやつだな。あいつが面白おかしく広めたんだ。ごめん、江崎さん。気の毒な思いをしていなければいいんだけど」


「気にしてないわよ。逆に御堂くんが気にしていないか気にしているくらい」


「僕なんか全然」


 顔が熱を帯びてきたのが分かる。気恥ずかしい思いがして、江崎さんと視線を合わせられない。変な汗が出る。


「ちょ、ちょっとトイレ!」


 実習棟の教職員用のトイレへ。人のいない場所だから好んで使っているのだ。珍しく個室の方に先客がいた。


「んあっ、あ、あ、んふぅ」


 艶っぽい声がトイレ中に響いた。


 恋もいいのだが、これには流石に閉口した。そのうち衣擦きぬずれの音と、絶えまない男女の吐息とが聞こえてくる。やれやれだ。


 はやく用を足して帰ろう。この閉鎖空間じゃストレスも溜まるし、多めに見てやるべきか。


 やがて個室からの声は静まり返って、ここちよい疲れを甘受するおだやかな吐息が漏れ聞こえてきた。やれやれ。


「ああ、周助」


「大丈夫か。玲香ってばすごく浮かない顔している」


 男が気づかわしげな声で言った。


「無理もないよな。友達があんなことになったんだもんな」


 この会話をスマートフォンに録音してやろうと思い立ったのは、女のほうが天野玲香だと気づいたからだ。


 もちろん弱みを握るためだ。睦言むつごとのひとつでも録音すれば、江崎さんに敵対行動をとってきた際、脅し返すのに有効な手立てになるだろう。


「周助、抱きしめて……」


 僕は気配を殺し、慎重に歩みを進めた。ズックの裏のゴムがトイレのタイル床とぶつかって音を立てないようにゆっくりと。


「玲香……あんなことがあってかわいそうに。元気を出してくれ。君のせいじゃない」


 天野のいるところの隣の個室に忍びこみ、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。


「いえ、私のせいよ」


 なんの話をしているのか? 僕は自分のスマートフォンをそっと壁際に近づけた。もしこれがコメディ映画だったらきっとこのタイミングで電話がかかってくるのだろうが、幸いそうはならなかった。


「私のせいで笑子えみこは死んだの」


 驚きのあまり、スマートフォンを取り落としそうになった。死――その言葉に背筋が凍った。


 福田笑子が死んだ? それも天野のせい?


「自分で足をすべらせたんだ。階段から落ちたのは彼女が悪いんだ」


「いいえ、私よ。確かにこの手に突き落とした感覚が残っているの。ただ、ふざけただけだったのに。なんてことを、私」


「自分を責めないで」


 沈黙が続いた。


「――ねえ、そんなことどうでもいいの。私があなたに折り入って話しておきたかったのは、別のこと」天野は声をふるわせた「私、外に出られたの。学校の外に」


「なんだってえェ?」


 周助という男が、すっとんきょうな声を上げた。


「声が大きいわ。信じられないと思うけど、聞いてくれる?」


「ああ、話してくれ」


「笑子の死体に私は駆けよった。すると笑子の体に変化があるのに気づいた。その全身が光っていたの」


「光っていた?」


 明らかに疑念のあるトーンで周助はたずねた。


「ええ。うっすらと紅茶色の光を帯びていた。驚きながらも彼女を心配していた私はその体に触れたのよ。そうしたら次の瞬間」


 水を打ったような静けさがトイレに広がった。


「私は学校の外にいたの。晴れた空のした、校舎の前にいた。前の通りを自動車が走っていった。犬を連れた歩行者が通り過ぎた。何もかもが以前のままだった。学校の外よ。どうして外に? 私はワケがわからなかった。今までのことは全て夢だったんじゃないか――なんて思った。家に帰ると、なにか様子が違っていた。うまく言えないんだけれど何かが。父が満面の笑みで私を迎えてくれた。スーツの胸には議員バッチがついていた」


「待ってくれ。議員って、福田のお父さんの職業だろ。君のお父さんは精神科医のはずだ」


「でも、そうなっていたの。


「信じられないよ。そんな話。でもそれならどうして君はここにいるの? せっかく外に出られたのにまた戻ってきたというのか?」


「あなたに戻れる方法があることを伝えたかったから。全てはあなたのためなの」


「ああ、玲香。俺はとてもうれしい。でも、どうしても信じられないよ」


「あなたは疑り深い人だからそういうと思っていたら。だから持ってきたの。父の議員バッチを。着替える時にくすねてきたの。それから父の名刺よ。肩書きがずいぶん変わってるの」


「本物だ」


「これで信じてくれる? ねえ、一緒に誰かを殺しましょう。こんなところから逃げるのよ」


 それから少しして、タイル壁に何か硬いものを打ちつける音がした。例えば人間の頭部のようなものを。それは何度も続いた。何か砕ける音がした。おそらくタイル壁がひび割れたのだろう。その時何か硬い金属が地面に落ちる音を聞いた。確認していないがきっと議員バッチだろう。


「ごめん、ごめんよ玲香」


 天野の体は僕のいる個室の壁に寄りかかってきた。赤くどろっとした液体がその壁を伝って床にしたたった。


「本当に本当だ。玲香、君の言っていたことは」


 雲井が何について言っているのか、この僕にもよくわかった。天野の体は発光していて、その光が隣の個室から漏れている。彼女の表現を借りるとすれば、紅茶色。その光が天井まで届くぐらい強くなってまもなく、隣の個室から雲井の気配が消えた。


 流れてきた血液を踏まないように注意しながら、僕は足元の隙間から隣を見やった。男の姿は消えていた。天野が壁によりかかっていた。もう光はおさまっていた。全身血まみれで、自慢の長く麗しい髪には骨片こっぺんがこびりついている。あらんかぎりに目を見開いていた。血液の甘ったるいにおいに吐き気が誘発される。


 隣の個室で待つことにした。もし本当に天野の言うことが真実だとすれば、外に出てから戻ってくることもできるのだ。


 この雲井という男は戻ってくると踏んでいた。。真相を知るなり、ためらいなく恋人を殺害した男――彼は更なる獲物を求めて再び姿を現すはずだ。


 腕時計の秒針が進む音を聞きながら待つことおよそ十五分。隣の個室にまた光があふれだした。


「ありがとう、玲香。あなたの言う通りだったわ。使わせてもらったわね、あなたの服と化粧品。それからあなたのお父上かしら、それとも笑子ちゃんのお父上かしら、どっちでもいいけど野球のバット、借りるわね」


 まもなく雲井が個室を飛び出し、肉食獣じみたおたけびをあげてトイレの外へと出て行った。その後ろ姿を垣間見たが、驚いたことに彼は女子制服のスカートをひるがえしていた。


 まもなく雲井による無差別殺人がはじまる。


 そこからの展開は予想するに難くない。雲井の暴行は力によって止められるだろう。

 

 そして、さっき目の当たりにした現象を誰もが目にする。また、脱出できること、それから、他人の財産を奪えることが知れ渡る。


 理性的に動ける人の方が多いとは信じられない。雲井のように欲望に駆られた人の方が多く発生するのだろう。


 そうなったら、どうなるか。


 万人による万人の闘争状態のはじまりだ。


 それなら僕は――それと江崎さんは――闘争の前に逃げ出さなくてはいけない。


 このゲームを生き残るために。

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