第12話 約束

 学校がバリアに閉鎖されてから丸二日が過ぎた。


 事態は好転しなかった。


 僕と江崎さんは屋上に通じる階段室にいて、ビスケットとミネラルウォーターの食事を終えた。いまだに水道は使えるが、食料はあと丸一日で尽きる。


 規律を守っている人はひとりもおらず(生徒会は例外)、江崎さんも教室から出てきてずっとここにいる。気味の悪い歌声は聞こえてくるが、それでも外にいる人たちの存在を感じられることは救いでもあった。


 この間、不安が生徒たちに広がっていた。


 先ほど食事を取りに行ったとき、ある噂を聞いた。三年生のあるカップルが自殺したらしい。閉塞感や不安感、そういったものにさいなまれたのだろう、抱き合いながら玄関に飛び出して行き、〈プレス機〉の藻屑と消えたのだという。


 また、ストレスからか血の気の多い連中同士がところどころで争いを起こしていた。例えばそっちの方がビスケットが大きいとかウォーターのボトルが小さいとか。生徒会長が何度かつかみかかられているのを見た。


 それから、穴掘りグループはうまく進めていないらしい。掘っても掘ってもバリアがある。彼らは諦めずに、もうちょっと深く掘ってみるそうだ。


 別のグループは、(僕もそう考えたように)水道を潜ってみてどこにつながるか検討を重ねているという。彼らのそのモチベーションの高さには敬服の念を抱かざるをえない。

 

 僕も江崎さんについては、そこまで元気とはいえない。運動らしい運動もできず、摂取できる栄養もかたよっており、寝床も快適とはいえず、すっかり疲れきっていた。


 ところで目の前で友人を失った菅田たちだが、菅田が正気を失ったので空中分解状態だと言う。ひとり手持ち無沙汰にしている針本からそう聞いた。


「うちに帰りたいわ」


 江崎さんが言った。


「マルに会いたい」


「 それって江崎さんの言ってたバセットハウンドのこと?」


「そう、うちの犬。オスで三歳になるわ。耳の長い短足犬なんだけど,マヌケでノロノロしていて、そこがかわいいの」


 顔をほころばせた。


「私、マルの話したっけ?」


 江崎さんはこの日々のなかでとても雄弁になっていた。しゃべりまくること。それが不安への対処方法だったのだろう。うかがうに、江崎さんは自分自身が思っている以上にしゃべっている。


「外に出ることができたら会いに行っていいかな、マルに」


「いいよ。マルも会いたがっていると思うわ」


 数秒置いてから江崎さんは言った。


「うちはどこなんだっけ?」


 江崎さんは場所を答えた。


「もしかして喫茶店のあるところ?」


「そうそう。店はとっくに閉めちゃったけどね」


 江崎コーヒー店。父親が健在だった頃、何度か家族で訪れたことがあった。当時はコーヒーを飲めなかったので、代わりにクリームソーダを注文した記憶がある。いい思い出だ。


「好きな喫茶店だった。親父が好きだったんだ。よく行ってた記憶がある」


「そうなの? 私も小さいころお店を手伝ってたからもしかしたら出会ってたかもしれないわね、そのころに」


「僕は漫画ばっかり読んでいたから気づかなかったかも。あそこに『ジョジョの奇妙な冒険』がたくさん置かれていて、半分はそれを目当てにしていたよ」


「懐かしい。お父さんの好きな漫画だったわ。生きてたころは――」


 江崎さんは言葉に詰まった。まなざしが陰りを帯びる。僕も同じく黙った。一緒なんだ。彼女も父親を失っていたのだ。僕たちのまなざしと、まなざしがぶつかった。


「――ねえ、約束してくれる? マルと会ってくれること」


 江崎さんは言った。


「うん」


 江崎さんが小指を立てたので、僕はそこに自分の指をからませた。指切りだ。江崎さんの小指は細くて、少し冷たかった。


「これはもし約束を守れなかったら針千本飲まされるやつ?」


「そうなるかな」


 そう言って江崎さんは口角を上げた。


 ふと腕時計を見たら、深夜二時を超えていた。


「もう、そんな時間?」


「いつのまにか」


「いやだわ。生活のリズムが乱れちゃう」


 僕たちは連れ立って各教室に向かった。シンとした廊下を歩いた。生徒会が時間を管理してくれて、起床時間の朝八時と正午、就寝時間の午後九時には放送がされる。もともと昼夜逆転傾向のある僕にはいい迷惑だったが、意外にもそれを忠実に守る生徒のほうが多かったようで、我が校には規則正しいリズムが流れていた。


 夜になると静まり返っている。電灯はついたままだし、外の景色も相変わらずなわけだけど、そこには生活のメリハリのようなものがあった。


 途中の渡り廊下で、口づけを交わし合う男女の姿に出くわした。


「あっ」


 僕とその生徒は声を合わせた。


 相手の女の子は慌てて自分の教室に戻った。つられるように江崎さんも教室に戻っていった。


「まずい。見られちまったな。誰も起きていないと思っていたから」


 猪口だ。彼は悪びれた様子もなくほほ笑み、オールバックにした頭をなでた。


「あんなところでいちゃつかれちゃ困るよ。こっちが気まずい」


「時間が時間だから少しぐらいと思ったんだ。しかし、君もやるじゃん。こんな遅くまで彼女とデートとはね」


「彼女?」


「さっき一緒にいただろう? D組の江崎美礼さんだったか。あの子けっこう美人だよな」


「いや、それは違くて――」


 言いよどんだ。僕たちのことをなんと伝えたらいいだろう?


「顔が赤いぞ。そうあからさまに照れられるとこっちが恥ずかしいな。自重してくれ」


 猪口はくすくす笑った。


「自重するのは渡り廊下でのキスだろ」


「言うじゃないか」


 僕たちはバカバカしい寸劇を演じつつ、教室に戻った。


 井口は中学時代から手の早いやつで、おそらく同級生のなかで一番童貞を捨てるのが早かった。中学二年のときには三つ年上の幼なじみと経験した夜のことを告白された事があった。


 女の子もとっかえひっかえだった。得てしてモテるやつは嫌われがちだが、男からも人気があったのは彼の性格のよさ故だろう。


 教室は静まり返っていた。男女一緒に夜を過ごすのはまずいだろうこいうことで、寝床となる教室は性別ごとに分けられていた。二年生はA組、B組が男子用。C組、D組が女子用だ。ちなみにE組とF組は空き教室になってアクティビティをする場所に充てられている。


 僕たちはは男たちの眠りこける部屋に抜き足差し足で入りこみ、自分のねぐら――それはダンボールで区画されている――に戻っていった。


「おやすみ」


「ああ、おやすみ」


 ダンボールの敷かれた床に横たわる。紙魚しみ臭いが漂って、ここで眠るのはどうにも苦手だったが、今夜はとてもあたたかな気分で眠りにつくことができた。


 江崎さんと一緒に抜け出して、マルに会いに行きたい。バセットハウンドのマル。ノロノロしたかわいいマル。――明日こそ出られるといいな。


 この後に降りかかる恐ろしい問題についてこの時は全く想像だにしていなかった。また、願いの半分が叶うことも。


 そう、この日僕は外へと出ることになるのだ。

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