第07話 異変
異変が起きたのは、その日の午後のことだ。
僕は来るべき争いに備えて、気を荒くしていた。またも突然の自習だったが、配布された古語のプリントの内容は頭に入ってこなかった。――いつの
辺りが暗くなった。さっきみたいに囲まれた時とは違って、なにか本質的な光源が喪失したと思った。停電かとも考えたが、天井の蛍光灯はついたままだった。暗くなったのは窓の外が暗転していたからだ。
誰もが窓の方を見つめていた。黒色と化した窓にはクラスメイトの(もちろん僕のも)口をぽかんと開けた間の抜けた表情が写っていた。乗っている列車がトンネルに入った時の、窓の感じに似ていた。違うのは、この学校は列車のように高速で移動してはいないということだ。
「何があったんだ?」
誰かがもっともな疑問を発した。
「外が急に真っ暗になったぞ」
「もう夜なの?」
教室のデジタル時計は午後三時を指していた。この時間でこんなに暗くなることはいくら天気の悪い日でもいままでなかったことだし、大体にして夜とは感じが違っていた。夜になると光学的なセンサーが反応して校庭のLED灯がつくはずだ。それなのに、そうしたものが一切見当たらなかった。
「なんか変じゃない? 怖いなあ」
「大丈夫、俺が守ってやるって」
隣の席で山川と金田がささやきあった。
「先生を呼んでこよう」
「隣のクラスのやつら外に出てるぞ」
クラスメイトは口々にささやき合った.廊下からガヤガヤと声が聞こえてきた。異常を察知した生徒達が教室の外に出て様子を見ているようなのだ。
すると、クラスの扉が開けられ、ひとりの生徒が姿を現した。広い肩幅。ソフトモヒカン。きれいに
「授業中失礼する」見た目とは裏腹の礼儀正しさで副会長は言った。「教師連中の姿を見ていないか? 職員室がガラガラなん よ」
「見ていないです」
学級委員長はスポーツカットの頭をぽりぽりとかきながら副会長に言った。
「古文の宮下先生がいたんですけど、突然プリントだけ配布していなくなっちゃいました。あとは自習していてと言い残して。職員室にいないんですか?」
「そう。もぬけのから。事務室もだ。誰もいないんだよ。というかどの教室にも教師がいない。不思議なことにどこのクラスも自習状態だったらしいんだ」
「なんだよそれ、職務放棄かよ」
話を聞いていた菅田が叫んだ。
「じゃあもう帰っていいってことですかねエ」
針本がわざとらしい大声で言った。
「帰りたければ帰ってもよろしい」副会長は言った。「
「行こうぜ」
菅田が言うと、金田、井上、針本、それからワンテンポ遅れて山川が立ち上がった。菅田のグループに続くように、生徒のほとんどが荷物をまとめて立ち上がった。
「やれやれ、このクラスは進学する気が希薄なようだな。われわれ受験生から見るとなんともうらやましい話だよ」
これには副会長もあきれ返った顔をしていた。そういえば、菅田の〈血祭り〉はこの一件によりどうやら中止になったらしい。僕からすれば幸いな話だった。
決して菅田に同調するわけではないが、この場にいても無駄だと思う気持ちは僕としても同じだった。バッグに教科書をドサッと詰め、教室を立ち去る集団の後ろについて歩く。
廊下に出ると、廊下側の窓も真っ暗だった。誰かが窓を開け、闇のなかに手をさし入れた。何もなかった。ただ暗闇があるだけだった。
「なんだか変な感じだな」
廊下を歩く誰かが言った。確かに変だった。ただの暗闇ではないなにか質量のようなものが感じられる。それでいて霧のように実態がない。
「工場から何か未知の化学物質が漏れでているんじゃないかな、どう思う御堂?」
肩をポンと叩かれ、振り向くとよく知った顔がそこにあった。
「うわ、お前また殴られたのか? 顔ひどいぞ」
その男子生徒は顔をこわばらせながら俺の横に並び立った。
「よう、
「俺はまだ帰らないよ。どさくさにまぎれて女と落ち合うことにしたんだ」
「あたらしい彼女か?」
「いや、ふるいセックスフレンドだ」
猪口がそういう時、たいていは冗談ではない。手の早いやつなのだ。
「それにしてもどう思う? 俺の化学物質説」
この町には複数の化学工場がある。そのうちひとつは戦前からあって、昭和初期には廃液が川を紫色に染めるという珍事を引き起こしている。このせいで『あそこの工場は兵器を作っている』などというウワサが令和の世になってもまことしやかに語られていた。
化学物質というのはあらゆる種類があり、得体の知れないものがほとんどだ。このような未知の現象を引き起こすような物質だって――。
「いや、ないね。荒唐無稽がすぎる。化学物質に覆われているのだとしたらいまごろ僕たちは息を吸えていないと思うよ」
「酸素だけを投下する化学物質なのかもしれない」
「まだ言うか。そんなエセ科学よりだったら、魔術とかスピリチュアルだとか言われた方がよっぽど納得してしまうね」
「そんなことより見てくれ、スマホが機能していない」
歩きながらスマートフォンを取り出し、猪口は画面を操作する。
「携帯にもつながらない。フレンドに電話しようとしてもずっとつながらないんだ。おかしいよな、アンテナ立ってるのに」
僕も携帯をいじってみた。インターネットブラウザからニュースサイトに接続するが、反応はなかった。『サイトが見つかりません』というエラー表示が出た。
「きっとみんなからのアクセスが集中しているからじゃないか? しばらくするとつながると思う」
「だといいけどね」
集団と一緒に玄関へ通じる廊下を進んだ。進むごとに集団はその数を増していった。学生服の名札を見る限り、他の学年も合流してきているようだ。どの学年もどの教室も、みな先生から見捨てられている。一体何が起こっているんだ?
「残念だなあ。宮下先生、好きだったんだがなあ。職場放棄するような不心得者だったなんてショックだなあ」
猪口が言った。
「美人ではある」
「それどころじゃない。乳もでかいし、尻もでかい。男子なら誰でもデートにお誘いしたくなる、そんな女性だ」
「そうか?」
「車中デートして、シートを押し倒して、それからそれから――」
渡り廊下にさしかかった。側面は廊下に沿って腰高の窓がずっと続いているが、うんざりするくらいに真っ暗な光景が広がっていた。春頃暗いなかを通るとライトアップされた、きれいなソメイヨシノが見られるというのに、窓は電源をオフしたパソコンのディスプレイのように黒いものしか映し出していなかった。
「やっぱりさあ、地球レベルで大災害が起きているんじゃないか、もしかして。地球が静止してるとか?」
「そうなったら僕たち終わりじゃないか。てかこんな平穏な状態じゃ済まなくない?」
僕たちはゲラゲラ笑った。
渡り廊下の先には職員室等がある。一階は昇降口で、現在いる二階は職員室、その上は生徒会室やその他文化部の部屋になっている。猪口とはそこで別れた。
猪口はそこで分かれて正解だったかもしれない。あんな、この世の地獄のような光景を見ずに済んだのだから。
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