第08話 バリア
玄関は大勢の生徒でひしめき合っていた。僕はおしくらまんじゅう状態の昇降口のなかを進み、自分の下足箱からシューズを取り出した。
集団の先頭にいたのは菅田たちのグループだが、玄関のガラス扉を開けてから足踏みしていた。それもそのはずだ。扉の外はあまりにも暗すぎた。暗黒――光を一切寄せつけない絵具で塗りこめたような暗黒が広がるばかり。
「明らかに異常だよな、これ」
井上はこわばった表情でガラス扉の向こうを見つめていた。井上のいう通りだった。外に出ることを本能が拒否した。まるで犬がヘビがくねるのを恐れるように、魚が鳥の羽音を恐れるように、この闇には知能ではなく遺伝子に刻まれた本能的な恐怖が呼び起こされるのだ。
「金田、お前いけよ」
「え、俺?」
「そうだ、金田がいいな」
不良グループのメンバーは何やら先に行く順番を押しつけあっている。
「金田くんは勇気があるんですよね。こういうときやる人ですよ」などと針本はたきつけた。「里美ちゃんもホレる理由が分かるよネ」
「いいよ、俺が一番やり行かせてもらうぜ」
気分がよくなったのか、金田はしまりのない笑顔で玄関の横引き戸をくぐった。
「うわー真っ暗だ。なんだこれは」
金田が大きな声で叫んだ。声はよく聞こえてくる……暗いだけなのだから聞こえて当然なのだが、まるで水のなかに入った時のように音が聞こえにくくなるのを僕は予期していたのだ。
それにしても、猪口の想像したとおり化学物質だとしたら、金田は健康を害してしまうだろう。死んでしまえという気持ちと、クラスメイトとして忠告の一つでもしてやったほうがいいんじゃないかという相反する感情が湧いてきた。
結局、僕はただ見守る側に回る。その他の大多数の生徒と同じように。
「――だめ」
すぐ横で誰かがそうつぶやいた。視線を向けると、そこには背の高い女子生徒がいた。凛としたまなざし。漆黒色の髪をポニーテールに結っていた。どこかで見たことのある顔だが、ネクタイの色で判別する限り、クラスメイトではない。ひとつ上の学年だった。
「どうだ金田、何かあるか?」
菅田がたずねた。
反応がなかった。
「金田、おい聞こえてんのか?」
菅田のどなり声が響き渡った。反応はなく、場内はシンと静まりかえった。
唐突に闇の向こうから何かが突き出てきた。菅田の腕だ。手招きするように小刻みに揺れていた。
「なんだよ。返事しろよ馬鹿野郎。ふざけてんのか」
「ほら、里美ちゃん。金田のやつ、ついてこいって言っているみたいだよ」
針本が山川の背に触れた。
「う、うん。今いくよ、金田くん」
山川はその細い指を伸ばし、金田の手に触れた。その時だ。更に何かが闇の向こうから現れた。
直後、山川の喉奥から絶叫がほとばしった。
水袋のようなものが闇の奥から飛び出してきた。破裂し、なかからあふれ出てきたものが山川の全身を濡らし、側にいた菅田の、井上のズボンの股ぐらを濡らした。
菅田も井上も叫んだ。水袋に収められていたのは粘性のある赤黒い液体だった。そこまで叫ぶこともなかったのかもしれない――もしこの水袋と金田の腕がひとつにつながっていなかったとしたら。
なにが起こっているのか、理解するまで時間がかかった。理解はできなかった。とにかく目の前にはばらばらになった生徒の死体があることだけが厳然たる事実だったのだ。
おえっ。群衆のなかの誰かが嘔吐した。連鎖的に嘔吐が起こった。あたりに胃液のむかつくような臭いがひろがった。
「何だよォ。これは!?」
針本が力なく叫んだ。
またしても、闇の向こうから勢いよく飛び出してきたものがあった。
金田のシューズだ。丁度、二足分が出てきた。またもや絶叫が広がった。その内側にはちぎれた足首が残っていたからだ。
何十もの足音が一斉に廊下を戻っていく様は、雷鳴に似ていた。怒涛の勢いが渡り廊下の奥に向けて引き換えしていった。
僕はその場を離れられないでいた。目の前で起こる不可解なでき事から目をそらせなかったのだ。隣の背の高い女子もその光景を凝視していた。
闇の向こうから次々とものが飛び出してくるのだが、それらはすべて金田という人間を構成していた部位だった。最後に吐き出されてきたラグビーボールのようなものこそ金田の思考の中枢であった部位であろう。
びちゃりと汚らしい水の音が響き渡った。失神した山川が赤黒い水のプールにその身を横たえていた。
「ああああああああっ!」
全身を赤く染めた菅田は血相を抱え、我を忘れて走り出した。廊下の奥へと走っていった。
「プレス機……プレス機だ」
井上は腰が抜けたようで、へなへなと血のプールに膝をついた。
「闇の向こうはプレス機なんだよ、針本ォ!」
井上は針本につかみかかった。
「なんでおまえ、金田を行かせたんだ。死んじまったじゃねーかよ」
「知らなかった……知らなかったんだよ」
僕は呆然と見ているしかなかった。一方、隣の女は、井上と針本のもとへと歩いていった。きれいな背筋。広い歩幅。なにかスポーツに打ちこんでいる人種であることは明白だった。
「やめなよ――井上っていうんだっけ。その子何も知らなかったみたいじゃない」
女はしごく冷静だった。目の前に広がる肉塊のプールを目の前にしても。
「横尾先輩」
針本は言った。
その名前に聞き覚えがあった。
「俺の家は町工場だから分かるんだ! プレス機なんだよ! 金田がプレス機で潰れた蝿の死体にそっくりなんだよ! 暗闇そのものがプレス機みたいに金田を吐き出してきたんだ! 俺は見たんだ! 近くで!」
「落ち着きなって」
横尾はぐちゃぐちゃの肉塊を
「言いたいことは分かるよ。校舎の外に出たら、こういう風にぐちゃぐちゃに潰されて出てきちゃうってことだね」
「ひどい有様だ」
「おっ。村西じゃん」
わずかに残った群衆の中から前に進み出てきたのは副会長の村西だった。顔色は真っ青で、口元にはハンカチを当てていた。
「横尾はどうしてそんなに冷静でいられるんだこの異常事態に」
「さあ」と横尾。「最初はさすがにビビったけど、もう慣れちゃった。順応性高いのが取り
「順応性の問題かよ」
「順応しなくちゃ、村西。今確かなことは外に出たら死ぬっていうこと。この金田って生徒みたいにね。死にたくなければ外に出るなって生徒のみんなに伝えておいて。生徒会でしょ」
「わかっている。生徒の安全を守るのが俺たちの仕事だからな。会長に報告しなくては」
横尾はうなだれる井上の肩をぽんと叩き、血のプールに沈んだ山川を抱き上げ、背負った。自分が血まみれに汚れるのも
学校をおおう黒い闇。それがなんなのかいまだに答えは出ないが……プレス機。そんな作用をする化学物質なんて存在するのだろうか? こんなに強い力を生み出す原動力はなんだ? 何もかもがおかしい。
変わり果てた姿となったクラスメイトを見やった。吐き気がこみ上げてきた。人間はこんな風に命を落としていいのだろうか? 人間は五体満足なまま、天寿を全うするものだとどこかで信じていた。
いつかは殺してやりたいと思っていた金田だが、こんな風に死なれてしまうのは望んでいなかった。僕は両手を合わせ、安らかに眠れとつぶやく。
横尾先輩の言うとおり、外に出ることはできなくなった。外につながるあらゆる場所が危険だ。玄関、通用口、窓、それから屋上。
屋上といえば、思い浮かぶ顔がある。
江崎さんだ。
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